流行に流される性質ではないから、ヒットチャートに昇るような楽曲を知るわけじゃない。それなのに、その時耳の中に飛び込んで来た音楽には何故か聞き覚えがあるような気がして、月森は怪訝な表情で空に視線を向ける。
隣で小物が陳列されている棚に目を奪われていた香穂子が、月森の変化に気付いてふと身を起こす。月森と同じように視線を空に泳がせて、店内に溢れる音楽に気付く。普通の女子高生と変わりなく、邦楽のランキングに一喜一憂する香穂子だから、流れているのが今チャートを賑わせている人気のラブソングだということに、すぐに気が付いた。
「月森くんも知ってるの?いい曲だよね」
「いや……知らないと思うんだが、聴いたことが……」
笑って月森を見た香穂子に、不思議そうに月森が首を傾げる。言いかけたところで曲はサビ部分に到達し、耳に残る旋律が展開し始めた。そこで月森はようやくこの曲を自分が知っていた理由に思い当たる。
「……そうか、君が歌っていたんだな」
「え!?」
予想もしていなかった答えに、香穂子が大声を上げる。静かな店内にいた数人の客が、一斉に香穂子の声に振り返り、我に返った香穂子が慌てて自分の口を自分の手で覆った。周りの視線が元の位置に戻るのを確認して、ひそめた声で香穂子が月森に尋ねる。
「わ、私いつそんなことを?」
「……俺の家で過ごす時とか。雑誌を読んでいる時が多いと思うが、よく鼻歌を歌っているだろう?」
「うーわー……恥ずかしい……」
無意識とはいえ、自分のやっていることの恥ずかしさに気付き、香穂子はわずかに頬を染め、頭を抱える。そんな彼女を微笑ましく思いながら、月森が慰めるように香穂子の頭上に軽く片手を弾ませた。
「そんなことはない。楽しそうに歌っている君を見ていると、俺も楽しい」
「だって下手なんだもん……せめてもう少し上手だったら、聴かせても何てことないのに……」
片手で火照る頬を押さえ、ぶつぶつと呟く香穂子に、月森は苦笑する。
わずかに香穂子から視線を反らし、まだ続いている有線からの歌の世界に、耳を澄ませてみる。
恋の歌、という背景もあるのだろうが、優しく甘い、耳に残る旋律。
普段自分が馴染む音楽とは全く方向性の違うものではあるが、それでも今の月森は、以前の自分ならこれっぽっちの興味がないと思えた別の世界の音楽を、抵抗なく受け入れる。
月森の耳に響くその声は、優しい言葉を刻む。
何度も何度も繰り返されたであろう、使い古された言葉……綺麗な恋の詞を。
ありふれた、当たり前の言葉だけど、今の自分は、その言葉を素直に受け止めている。
……多分、彼女に逢う前の自分からは考えられない変化。
その言葉が持つ深い意味を自分自身の想いと照らし合わせて考えることもなく、「くだらない」と一言で切り捨てていただろう、自分と馴染むことのない別の音楽の世界。
……その、頑に違うと思い込んでいた音楽が、本当はとても近い場所で寄り添っているものだと教えてくれたのは、今自分の側にいてくれる存在だ。
何気ない日常で、彼女が軽い気持ちで歌う曲も。
遠い昔から語り継がれて来た歴史のある楽曲、ヴァイオリンに歌わせるその曲も。
彼女は、同じ優しさで、穏やかさで。
同じ、愛おしさで。
分け隔てなく、表現する。
……だから、その唇が紡ぐ旋律も、奏でるヴァイオリンが生み出す旋律も。
同じ感覚で、月森にとっては心地のいいものになる。
「……いい曲だな」
一曲分が流れ終わり、音楽が途切れた一瞬の間に、月森が微笑んでそう言った。
それまでの反省が嘘のように、香穂子は嬉しそうな表情で顔を上げ、何度も何度も頷いた。
「そうだよね。ホントにいい曲だよね!……何だか、月森くんにそう言ってもらえるの、すっごく嬉しいよ!」
クラシックの世界も、昔ほどに敷き居の高い音楽だとは思わない。
それでも、香穂子にとってはヴァイオリンを始めるまでは、クラシック音楽というものは何だか自分とは少し違う、遠い場所にあるような気がするものだった。
今ではそれほど抵抗があるわけではないが、それでもやはり、普通に周りに溢れる大衆向けの音楽に馴染んで生きてきた自分と、そんな世界に馴染むことなく、自分が馴染んではいないクラシックという音楽の世界に浸って生きていた月森とに、どうしようもない距離を感じる瞬間がある。
だが、それはもう、取り戻せない過去の話でしかない。
だからせめて、これから先に進んでいく時間は、同じ音楽を聴いて、同じ世界を知りたいと思う。
香穂子にはそれができる。もう、月森が生きているクラシックという音楽の世界に抵抗はないから。
だが、月森は香穂子とは違う。どんなに香穂子がそうして欲しいと望んでも、彼にとって香穂子の知る音楽の世界が興味のあるものでないのなら、彼はきっと、そちらに目を向けることはない。
だから、香穂子が知る、『いい曲だ』と思える音楽を。
どんな形であれ、彼が耳にして、そうして『いい曲』だと思ってくれるのなら。
香穂子にとって、こんなに嬉しいことはない。
それは、彼が自分が住んでいる世界を知ろうとしてくれている。
香穂子の生きている世界に、近付こうとしてくれている。
その努力の証に、違いないのだから。
自分が知らなかった、違う音楽の世界を。
境界にいる彼女が、懸命に見せてくれる。
それでも、きっと彼女というフィルターがなかったら、おそらく自分はその異なる音楽の世界に目を向けることはあまりないだろう。
彼女が、他愛無く過ごす日常で。
自然にその唇から生み出す音楽。
……彼女が耳にして、そうして彼女が愛した音楽。
君の声が歌う、君の好きな歌。
だからこそ。
自分が立つ音楽の世界で彼女が奏でる旋律を愛おしく思う自分は。
違う世界の彼女が愛する音楽に、耳を傾けることができる。
本来なら気付くはずのなかった、知らない音楽の素晴らしさを。
彼女の声を通して、理解していく。
君が俺に聴かせてくれる、君の好きな歌だから。
その歌は、きっと俺の好きな歌にもなるのだろう。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.1.14】
月森個人は邦楽に興味を持ちそうにないですが(笑)香穂子経由なら案外聴くかもなと思います。音楽には違いないんだし。
ここで二人が聴いている曲は特別イメージがないですが、香穂子が歌って月森がいい曲だと判断するなら、ちょっと大人っぽい感じのバラードでしょうかね。


