僕がいる理由

月森×日野

 日野香穂子という人間は、周りをろくに見ずに全力疾走しているような少女だと月森は思う。
 どんなことに対しても、真直ぐに物事を見、素直に受け止め、必要となる力を出し惜しみしない。
 そんな人間だからこそ、自分は彼女に心惹かれたのだろう。
 好ましいと思うし。
 そして、何よりも危なっかしくて目が離せない。
 自分自身も大概不器用な生き方をしているという自覚があるが、香穂子のそれは、自分とは異なっていて、そして、自分以上に不器用なのではないかと思う。
 全身全霊を傾けるから、すぐに疲れ果てる。
 正面からぶつかっていくから、避け切れずに転ぶ。
 精神的にも。
 ……そして、実生活でもだ。


「……危ない」
 地下への階段を一歩降りかけたところで、香穂子がミュールの爪先をタイル地の床に滑らせて、身体のバランスを崩す。付き合い初めの頃は香穂子のこういうドジに、内心焦っていた月森だが、付き合いが長くなれば、彼女の一挙一動にも慣れてくる。滑りのいい床に足を取られることも、段差に爪先を引っ掛けることもよくあることだから、もういちいち驚いたりはしない。
 咄嗟に彼女の腕を掴んで引き上げてやると、「おお、びっくり」とあまり驚いてはいないような間延びした口調で呟く彼女が、月森の掌の力を借りて、体勢を立て直した。
「……いい加減、足下に注意を払うようにしたらどうなんだ?俺だってそう終始君の側にいるわけではないんだから、俺がいない時に転んだりしたらどうする。……いつもいつも、助けてやれる保証はないんだぞ」
 今度は慎重に階段を一歩一歩降り始めた香穂子に、小さく溜息を付いて月森は言う。
 自分と彼女は、どんなにそれを寂しく思ったとしても、所詮、異なる人間で。
 いつも側にいることを、今はまだ、許されてはいないから、違う時間を過ごすことだって、当然ある。
 自分の目に届くところに彼女の存在があれば、何を差し置いてでも彼女を護る覚悟はきちんと月森の中にあったとしても。
 自分の側にいない彼女を護り通すという、そんな不可思議な力なんて、持ち合わせてはいないから。
 数歩階段を降りた香穂子が、くるりと振り返り、月森を見上げる。ぱち、と一つ瞬きをして、ふわりと笑った。
「大丈夫だよ-。月森くんがいない時には、ちゃんと注意してるもん」
 躓こうが、傷を負おうが、無頓着だった頃は確かにあった。
 そうすることに、躊躇いがなかった。失敗をした時の責任は、全て自分へ返ってくる。その責任を取る覚悟さえあるのなら、香穂子はどんな無茶も、平気だった。
 だが、今は。
 香穂子が傷を負うことに、香穂子以上に胸を痛めてくれる存在がいるから。
 だからこそ、月森がいない時は香穂子が香穂子を護る。
 月森が大事にしてくれる、自分自身の存在を。
「でも、その反動で月森くんが側にいる時に気が抜けちゃうのは、確かに問題かもね。月森くんに迷惑かけちゃうし。なるべく、気をつけるね」
 照れたように笑って、香穂子がまた前を向き、自分の足下を気遣いながら、ゆっくりと階段を降りていく。その華奢な背中を追って、自分も階段を降りながら。
 月森は、自分の中に湧き上がった、ひどく矛盾した思いを感じている。


 いつだって、願っている。
 傷付かないで欲しい。
 自分の目の届かないところで。
 彼女らしいということは、とても奔放で、見ているだけで、はらはらさせられて。
 彼女のそんな部分こそが、自分の見えていない場所で、彼女自身を傷付けやしないかと、月森はいつも気にしている。
 でもその危なっかしさこそが、絶え間なくこの自分の視線を惹き付けて、離さない彼女の姿。
 だからこそ、自分の前で彼女が彼女らしく、危なっかしく振る舞う姿を。
 本当は、自分はこんなにも愛おしく思っている。

 不安定な彼女を護る役割を与えられていることを。
 とても、誇りに思っている。

 例えば、躓いた彼女を支えるだけの。
 ほんの小さなことであっても。
 彼女がそれを、この自分にしか許さないというのなら。

 この世に生まれて、わずかばかりの時間を生き。
 そうして、ここに立つ月森蓮という人間は。
 そのためだけに存在するような、そんな幸せな錯覚すらしてしまうから。


 先を歩く彼女に、足早に追い付いて。
 無造作にそこにある片手を、咄嗟に掴んだ。
 驚いたように振り返る彼女。
 振り向いた彼女の唇に、自分の唇を押し当ててみる。
 一瞬目を見開いた香穂子は、軽く瞬きをして。
 そして、月森の突然のキスを、ただ優しく受け止めた。


 その突然の口付けに、深い意味はなくても。
 それすらも、彼女はこの自分に許してしまうから。
 ここが往来の途中であることも、空が雲一つない快晴であることも、その瞬間だけは、どうでもよくなって。
 何度も繰り返すキスを、目を閉じて、ただ静かに受け止める彼女に。
 触れるたび、同じように繰り返し、生まれてくる愛おしさ。


 今、この瞬間。
 広い世界の中で。
 過ぎていく長い時間の中で。
 たった一点の場所と時間を選び抜いて、今の自分がここにいる理由は。

 もしかしたら、こんな意味のないキスを。
 ただ、彼女に贈るためだったのかもしれない。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.1.28】

この作品を書いた頃募集した、創作傾向のアンケートが「あまあま」希望の回答が多かったので、一応あまあま路線で行ってみました。
……そもそも甘いってなんだろう。下手するとむしろエロ一直線なんだけど(ヲイ)

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