手を伸ばして

月森×日野

 霞がかった意識の中で、ふと心地いい冷たさが額に触れた。
 今ここにあるはずのないその心地よさに、驚いた月森がゆっくりと目を覚ます。
 重い瞼を開くと、視界一杯に、見慣れているとても愛おしい人の顔があって、一気に意識が鮮明になった。
 月森が目を見開くのをじいっと眺め、ごめん、起こしちゃった?と屈託なく笑ったのは、香穂子だった。
「タオル取り替えただけだから、眠っていいよ。起こさないように気を付けたつもりだったのになあ……」
 もう一度、ごめんねと香穂子が謝った。
 一度は鮮明になったはずの意識が、再び朦朧とするのを感じる。夕べから引きずっている高熱のせいだ。だから、夢と現の判別が付かない。……果たして、初めから香穂子はここにいただろうか。
 体を起こしかけたが、どうにもだるくて、月森はもう一度ベッドに沈む。額に置かれていたタオルを何気なく片手で持ち上げ、視線だけをベッドの脇にいる香穂子へと向けた。
「……君は、何故ここに?」
 それだけ問うのが精一杯だった。我ながらひどい声だ。
 風邪気味だなという自覚は、数日前からあった。多少、喉の痛みがある程度だったから、学校生活もヴァイオリンの練習も、普段通りにこなした。だがやはり、本調子でなかった体には、無理が蓄積されていったのだろう。休日だと安堵した途端、一気にこれまでのツケが支払われた。
 幸いは、香穂子との明確な約束を交わしていなかったことだ。はっきりと約束をしていない時に互いに空いている時間があれば、結局は会ってしまうので、約束の必要性はないと言えばないのだが、それでも、何かの予定を入れた状態で、その予定を反故にしてしまうよりは、香穂子を落胆させずに済むのだから。
 だから、香穂子から何か誘いの連絡が来ない限りは、香穂子がここにいるはずがない。それなのに、一眠りしてふと目覚めてみれば、何故か当たり前のように香穂子が側にいる。それは、何だか夢の延長上にいるように、なかなか実感が湧かない現実だった。
「雑貨屋に行くついでに、CD返しに来たんだよ」
 月森が持ち上げていた濡れタオルを取り上げ、香穂子が月森の額に浮かぶ汗を拭う。もう一度床に置いていた洗面器で丁寧にタオルを洗いながら、ここにいる経緯を語る。
 馴染みの雑貨屋への通り道に月森の家がある。特別約束はしていないし、どこかに出かけているかもしれないと思いながらも、運がよければ休日を共に過ごせるし、いないにしても、家族の誰かに目的のCDを返却すればいいのだからと、軽い気持ちで香穂子は昼前の月森邸を訪れた。その玄関先で、香穂子は困り果てている月森の祖父母と会ったのだ。
 出かけるところだったらしい月森の祖父母は、既に何度か月森邸を訪れるうちに顔見知りとなっていた香穂子に、夕べから月森が熱を出して寝込んでいることを教えてくれた。付いていて看病してやりたいのは山々なのだが、予定があって出かけないわけにはいかないのだと。
 月森本人は寝ていれば平気だと言うが、週末のため、本来なら家のあれこれを引き受けてくれるハウスキーパーも家にはいない。
「だからね、『じゃあ、夕方まで私が様子見てます』って立候補しちゃったの。ちょっと厚かましいかなとも思ったんだけど」
 ぴんと両手で引っ張って伸ばしたタオルを、そっと月森の額の上に置いて、香穂子はふわりと彼女らしく笑った。
「もうお昼過ぎだから、もう一眠りしたらお粥作ってあげるね。お祖母さん達、台所勝手に使っていいって仰ってくれたし。月森くん、きっと食べるの辛いと思うけど、薬飲まないと駄目だから、頑張って食べて」
 驚いて枕元に置いてある時計に視線を上げてみる。香穂子の言う通り、時計の針は既に正午を越えていた。
「……君は?」
「私? 朝、起きるの遅かったから、朝御飯も遅かったの。だから、月森くん一人で食べるの寂しいかもしれないから、一緒に食べようかなと思って」
 もし、他の誰かに告げられたのなら、馬鹿にされたと受け取ってしまいかねない言葉。
 だが、それは香穂子が伝える言葉だから。
 受け止める月森にも、とても優しい言葉。

 『寂しい』なんて。
 誰にも見せたことはないのに。
 誰にも告げたことはないのに、どうして君は気付くんだろう。

「……というか? もし月森くんが食べられそうなら、すぐ用意するよ。手際あんまり良くないかもだから、30分くらい、待たせちゃうけど」
 ぱん、と両手を打ち、香穂子が思い付いたように言う。
 出かけることが好きな留守がちの両親に代わり、自分で食事を用意することもあるから、料理をすることにはそこまで香穂子は抵抗がない。だが、慣れない月森邸の立派なキッチンで、大切な人の為の大切な食事を作るには、やはり多少の緊張と戸惑いが混じってしまうだろう。
「待ってる間、ゆっくり眠ってて。出来上がったら起こしに来るからね」

 慌てて立ち上がってキッチンに向かおうとする香穂子の背中に。
 遠い昔に抱いた寂寥感が蘇る。


 家族は優しい。
 自分を大切にしてくれる。
 体調を崩した時、熱を出した時。
 何とか仕事の都合を付けて、側にいようとしてくれる。
 だが、自分はそれを拒絶する。
 一人でも大丈夫だからと、強がってみる。
 自分が敬愛する、偉大な家族。
 あの人達の、あの人達だけが生み出す、素晴らしい音楽を、沢山の人達が心待ちにしているのに。
 こんな自分の寂しさ故に、その人達からその音を奪うわけにはいかない。
 だから、我慢をした。
 弱さは見せなかった。
 強がった。

 そこにどれだけの孤独と、寂しさがあったとしても。

 躊躇いながら、自分を置いて、見知らぬ誰かに素晴らしい音楽を届けに行く背中を。
 ただじっと見送った幼い日々。

 手を伸ばして、その存在を引き止めることすら。
 初めから、諦めていたんだ。

「……!」
 突然伸びてきた手が、自分の手を掴む。
 ひどく熱い掌。
 それに驚いて、香穂子は足を止めて振り返った。

 手の中に、今の自分よりも冷たい、小さな掌。
 どれだけ近い存在であろうと、その存在の偉大さ故に、口には出せなかった我侭を。
 きっと、この手で繋ぎ止めた存在だけが、許してくれる。
 そんな気がしている。

「……食事は、後で構わない」
 熱を帯びる、掠れた声。
 いつもは香穂子よりも冷たい指先が、香穂子に温もりを灯すくらいの、熱を持つ。
 どうしようもないほどに弱ってしまったからこそ。
 伝えられる本音。
「……今は、一人にしないでくれないか」
 熱に潤んだ瞳が、微かに細められる。それに反比例するように、香穂子がゆっくりと目を見開く。

「側に、いてくれないか?」

 踏み出しかけた足が、方向を変えて、また月森の枕元へ戻ってくる。
 床に両膝を付いて、香穂子が両腕をベッドの上に置いて。
 月森の視線の高さに自分の視線を揃えて、嬉しそうに微笑んだ。

「……いるよ」
 繋いだ手。
 ひどく熱を持った、月森の指。
 その熱が、触れ合った肌から、香穂子に移ればいい。
 そうして、月森の苦しみを、少しでも引き受けられたらいい。
「ここにいるよ。だから、安心して眠って……月森くん」

 そうして、眠ることで少しでも癒されて。
 もう一度、目が覚めた時に。
 一緒に、御飯を食べよう。
 弱って、疲れ果てた心が、少しでも浮上出来るように。

 ……寂しくないように。一緒に。


 香穂子の手の冷たさに安堵したのか、程なくして月森は、もう一度眠りに落ちた。
 荒い呼吸。
 汗ばむ肌。
 苦しむ彼を見ることは、ほんの少しだけ辛くて。
 だが、そんな彼を一番近くで見守って、少しでもその症状が和らぐように、自分に出来うる精一杯のことをやることは、香穂子にとっては、とても幸せなことだった。

 そして、香穂子に出来うる最大最良のことが。
 こうして、側にいることであるならば。

「……大丈夫だよ、月森くん」
 ベッドの上に顔を伏せて。
 繋いだままの手に、ほんの少しだけ力を込めてみる。


 大丈夫。
 貴方が必要としてくれる限り、きっと側にいる。
 貴方が手を伸ばした時に、きちんと届く場所に。
 弱い心に、すぐに寄り添える場所に。
 引き寄せられる場所に、ずっといる。


 その手を伸ばして。
 寂しさ故に、私を引き止める。

 いつか、貴方にとって。
 ……必要性がなくなってしまう、その瞬間まで。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.3.14】

当時の渡瀬個人の気持ちとリンクしているお話。
この頃ほど熱はないけれど、本質的にはあまり変わっていないんだと思います(笑)もう成長する余白もないものでして……(^^;)

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