何も知らなかった頃は、『静寂』なんて簡単に手に入るものだと思っていたのに、自分が音楽というものに深く関わるようになって、つくづくそれは大きな勘違いなのだと気が付いた。
何も喋らなくても。
『音楽』と呼べるものは目の前になくても。
本当の意味で、世界は無音にはならない。
全く音のない、そんな寂しさは宿らない。
そんな、当たり前と言えば当たり前の真実に。
香穂子はほんの少しだけ安堵する。
時計は深夜2時を回っていた。
家の中で家族は皆寝静まっていて、テレビもオーディオも電源を入れていない香穂子の部屋は静寂に満たされているはずで。
なのに、ぼんやりと壁際に腰を下ろす自分の耳には、確かに今も音が届いている。
時計の針の進む音。
窓の外で、時折車の走り去っていく音。
とても遠くから響く虫の声。
そして、香穂子の記憶の中にある。
賢くて、真面目で、ほんの少し不器用な。
愛おしいヴァイオリンの音色。
本物はそこにはなくて。
代用出来る音楽も、オーディオから流れては来ないけれど。
それでも、耳の奥底に焼き付いたままの。
香穂子が愛おしむべき音が、そこにはある。
(寂しくない)
決して、香穂子は強い人間じゃない。
全てを達観して、仕方がないと簡単に諦められるような強さを持ち合わせてはいない。
側にいて欲しい存在が側にいなくて。
たった一人で過ごさなければならないのなら。
それを、ひどく辛いと思う夜もある。
だけど、そんな辛い夜に、香穂子の心にそっと寄り添う音がある。
賢くて、真面目で、ほんの少し不器用で。
繊細で甘い、とても綺麗な音色。
本物はそこになくても。
例えば手の届かない、遠い場所で生きていても。
香穂子の記憶の奥底でその音色は、強く、強く焼き付いている。
いつでも、鮮明に思い出せる。
その音がそこにあれば。
例え、それを生み出す存在が側にはいなくても。
きっと、香穂子は全ての寂しさを越えられる。
(そんなふうに、支えられている)
姿は見えなくても。
本物の音色は、耳に出来なくても。
『そう』できないからこそ、気付くことがある。
胸の奥に息づいて、自分を支え続けてくれている存在があることを、実感出来る。
何も知らなかった頃は。
静寂は簡単に手に入るものだと思っていた。
ひどくあっさりと。ほんの少しだけひねた心で。
自分はとても孤独だと、勘違いをする夜があった。
だけど、とても静かな深夜に。
鼓膜ではなく、心が捕らえる音楽を聴きながら。
香穂子は暖かい気持ちで、目の前の空間を見据えている。
本当の意味で無音な世界はない。
そんな当たり前の幸せに相反して。
寂しいばかりの静けさなど。
香穂子が生きる世界には存在しない。
いつだって、心の奥底で密やかに息づいて。
香穂子を支え続けてくれている。
彼が生み出す、あの音色がある限り。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.4.1】
どういう感じで書こうかなと、ネタが二転三転した話です。
香穂子のみのモノローグというのが私的に珍しい気がしたのでこれを選んでみました。
時期としてはコンクール後なのかなとも思いつつ、どの時期でもしっくりくる話になったかなと思います。私的に(笑)


