風に乱された長い髪に顔をしかめた香穂子は、一瞬後にはその目の前に繰り広げられた光景に、思わず感嘆の声を上げる。
「うわ、凄い!綺麗!」
星奏学院音楽科校舎・通称桜館。
多数の桜の樹が植えられている校舎裏。隠れた桜の名所として名高いことは知っていたが、やはり異なる科の制服で、堂々と桜見物に来るのは気が引けて、堪能することは諦めていたはずの場所だ。
「やっぱり、これだけの桜が全部満開だと、結構圧巻だよね」
笑顔で香穂子は自分の後方にいる人物を振り返る。移り行く季節にも、色を変える風景にも、実際のところはそんなに執着を持たなそうに見えるその人物は、香穂子の言葉に、他の人間にはあまり見せることのない、穏やかな微笑を向ける。
「そうだな」
「月森くんのおかげだよ。月森くんが一緒に来てくれなかったら、覗く決心付かなかったもん」
「大袈裟だな」
香穂子の物言いに、月森は苦笑する。
頑な自分とは違い、異なるものと触れ合うことに戸惑いも嫌悪感も抱かない彼女のことだ。自分がいなくても、本当にこの場所に来たいのなら来るのだろうし、今まで来なかったのなら、それは単に機会がなかっただけなのだろう。それでも、そんな真実を真正直に告げるのではなく、あくまで月森を理由だと言い張るのは、きっと彼女の無意識の優しさで、彼女なりの気遣いなのだ。
本当の意味で、彼女がその真実を理解しているのかどうかは知らないが。
彼女を喜ばせることに、自分が関わることが出来るのなら。
それは、月森にとって僥倖で。そして、とても誇らしいことだから。
もうすぐ夕闇が迫る時刻。
校舎脇に身をひそめ、帰りそびれた生徒がいないかを見回る当番の教師をやり過ごし、月森と香穂子は誰もいない校舎裏に忍び込んだ。
誰にも邪魔されることなく、とても身近な桜の名所を、二人きりで満喫する為の、少しだけ罪悪感を抱く、スリリングな行為だ。……おそらく、香穂子がそこにいなければ、月森では思い付くことすらなかったことだろう。
ほんの一つだけ、気持ちだけ辺りを明るくする街灯が小さく瞬いて灯る。全体を照らし出すにはとても足りないが、その微弱な明りが微かに照らし出す満開の桜は、闇の中にぼんやりと、白く姿を浮かび上がらせている。
その光景が、とても不思議なものに思えて。
月森と香穂子は、二人並んで校舎の壁に寄り掛かり、そんな仄かな灯火が照らす世界を見ていた。
「……お弁当持ってくれば良かったかなあ」
「……空腹なのか?」
ぽつりと呟いた香穂子を見下ろして、月森が尋ねると、香穂子は真面目な顔で首を横に振った。
「ううん。ただ、花見ってそういうものかなあと思ったから」
「……特別必要だと思わないのなら、別に構わないんじゃないか?」
苦笑して、月森は香穂子から視線を反らし、またその視線を空に上げて、咲き誇る花を見る。
……そう。型に嵌まることは、必要ではない。
今、天を仰ぎ、舞い落ちる花びらを綺麗だと思う、その心がある。
ただ、その心だけで自分達は満たされている。
香穂子はそんな月森の横顔を見上げ、幸せそうに笑う。
ヴァイオリン以外の、何にも目を向けようとはしていなかった彼が、今、こんなふうに、とても穏やかな、優しい表情で、舞い落ちる桜を愛でている。
……それが、自分が与えた影響だなどと、自惚れる気などないけれど。
それでも、それはきっと、月森にとっては何よりも必要だった。
そんな変化であるように、思えるから。
「……香穂子?」
桜ではなく、自分を見つめている香穂子の視線に気が付いて、月森はふと香穂子へと視線を向ける。ばっちり目が合ってしまって、思わず香穂子は赤くなった。
「うわわわ、ごめん!」
慌てたように香穂子が視線を反らす。熱くなった頬を両手で押さえる。そんな香穂子の様子を、月森は怪訝な顔で眺める。
一旦俯いた香穂子が、ちらりと視線を向ける。
何かを言いたいのに、言い出せない。そんな香穂子のいつもの癖。
黙ってその言葉を待つ月森に、やがて香穂子が小さく呟いた。
「……ごめんね。何だか、見とれちゃってたの」
仄かな明りと。
舞い落ちる白い無数の花弁と。
そこにただ佇む、とても綺麗な彼に。
香穂子はただ、目を奪われていたのだ。
香穂子はもう一度自分の足下を見つめる。黙っていることが苦手な自分は、ついついどんなことでも口にしてしまうけど、決してそれを平然と言葉にしているつもりはない。
恥ずかしいものは恥ずかしいし、言わなければ良かったと後悔もする。
……だけど。
すっと長い指先が、頬に触れて。
その心地よい冷たさに、香穂子が弾かれたように顔を上げる。
真直ぐに向けた視線の先にあるものは。
綺麗で、甘くて、優しくて。
そして、熱い。
そんな存在。
強い風が吹いた。
花弁が一度に空に舞った。
はらはらと無数に降り注ぐその様は、とても綺麗だったけれど。
それよりも香穂子の目を奪うものがそこにはあって。
唇に、自分のものではない熱い感触を覚えながら。
香穂子はその震える様までが見える距離で、月森の伏せられた長い睫毛を見つめていた。
いつしか酔わされていく甘いキスに、どこか意識が朦朧とするのを感じながら。
それでも『それ』を、とても綺麗だと思っていた。
「……目を閉じてくれないと、駄目だろう?」
やがて、視線に気付いた月森が、目の縁をほんのりと赤く染めて、至近距離で香穂子を見返した。
息が触れるほどに近い場所で呟かれた言葉に、香穂子がふと我に返り、目の前にある綺麗な瞳にまた目を奪われて、赤くなる。
「君は相変わらず、大胆なのかそうではないのか、判断がつかないな」
苦笑する月森が指先を伸ばして、香穂子の瞼に触れた。
否応なく閉ざされる視界。
もう、舞い落ちる花弁も。
綺麗な琥珀色の瞳も見ることが出来ないその暗闇で。
香穂子はただ、唇に与えられる熱い甘さだけを感じていた。
季節は移り変わり。
花咲く季節も、また周期的に巡るのだろう。
そんな心浮き立つ春の到来を告げる、南方の足下から上ってくる桜前線を。
きっと香穂子は来年から、この夜の余韻を引きずって。
甘くて、切なくて。
少しだけ背徳的な想いを混じらせて、待ちわびるのだろう。
……そんな、予感がした。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.3.27】
どこが「桜前線」?と突っ込みたくなる話ですが(笑)ちょっと季節感のあるものを書いてみたくなりました。
他に合うようなお題がなかったので、とりあえずこれで(ヲイ)夜桜ライトアップは幻想的でいいですよね~v


