天羽が携えてきた情報の内容も、何となく頭の隅で予感していた。数週間前まで、放課後の香穂子の予定はたった一人の青年が埋め尽くしていたのに、ここ最近、同じ時間を過ごすことも少ない。
馴染みの喫茶店に連れ込まれ、店の奥の席で天羽が苦い表情で告げた言葉は、香穂子がここ数週間何度も脳内で繰り返していた言葉だったので、不思議とそれに大きな感慨を抱くことはなかった。
「どうやら本決まりみたい。……月森くんの留学」
告げた天羽の方が、告げられた香穂子より、余程痛い顔をしている。そのことに少しだけ心が暖まる心地を覚えながら、香穂子は静かに視線を伏せて微笑んだ。
「……そっか」
暖かい紅茶をゆっくり口元に運ぶ仕草を、天羽は黙ったまま眺めていた。もっと取り乱すかと思っていた親友は、天羽の予想に反して、とても冷静だった。
……不自然に思えるくらいに。
「で、どうするの?」
「どうするって?」
身を乗り出すようにして尋ねた天羽に、香穂子は微かに首を傾げる。苛立たしげに、天羽が丁寧に磨かれたテーブルの上を平手で叩いた。
「留学だよ? 少なくとも、4年は離れ離れになるんだよ? あんた、それでいいの?」
香穂子は一つ瞬きをし、ふわりと笑う。
「……いいよ」
あっさりと言った香穂子に、天羽は愕然となる。
「……はっきりとした留学先は分からないけど、音楽で留学っていったら多分、ヨーロッパとかあっちの方だよね。会いたいとか思っても、すぐに会える距離じゃないんだよ?」
「そうだね」
初めから分かっていたことのように、香穂子はもう一度軽く答え、首肯した。
そのあまりにも冷静な態度に、天羽は驚いたように目を見開き、しっかりと確認するように香穂子の目の中を覗き込む。
「本当にいいの? 月森くんのことだから、そう簡単に浮気とかしたりはしないだろうけど、でもそれだけ離れてたら、万が一ってことも……」
「……そういう心配も、するだけ無駄だよ」
きっぱりと言って、香穂子は自分を見つめる天羽の目を、真直ぐに見返した。
「多分、別れるから」
あまりにもきっぱりとし過ぎた香穂子の言葉に、天羽は一瞬虚を突かれたようだった。少しの間口籠るように唇を閉ざし、いつの間にか香穂子の方へ乗り出すように前のめりになった身体を、脱力するように椅子の上に落ち着けた。
「……だって、そんな」
「月森くんには無理だから。あっちとこっちに大切なもの置いて、どちらも尊重するなんて器用な真似。だから、多分別れる。……月森くんもそういう結論になると思うし、そうならなかったら、私から別れようって言うつもり」
天羽には、目の前で笑う香穂子は、何の躊躇いもないように見えた。
ほんの少し、表情に寂しさがあるだけで。
「……好きなのに?」
「……好きだから。かな」
香穂子の笑みに、少しだけ自嘲の色が混じる。
「……月森くんがヴァイオリニストになりたいっていうのは、子供の頃の夢だよね。今回の話って、それを実現する為に、すごく必要なことだと思う。留学しなくてもヴァイオリニストにはなれるかもしれないけど、留学した方がきっと、もっとずっと近い。……せっかく、大きなチャンスが目の前にあるのに、私のためにそれを諦めさせるのはいやだよ」
「……でも、それは別れる必要はないじゃない」
天羽は必死の声音で訴える。
所詮は自分ではない人間の色恋沙汰だ。自分が出しゃばって、口を出すべきことじゃない。
だが、今回のことで一番心に傷を負うのは、おそらくは月森よりも、目の前にいる天羽の大切な親友だ。
……例え、本人にその覚悟があるのだとしても。
大切な親友に傷付いて欲しくはないから、天羽も必死になる。
「離れていても、上手くやっていく方法はあるでしょ? あんたは選択肢を捨てて、それを最初っから諦めるつもりなの?」
香穂子は一つ瞬きをして、そのまま静かに視線を伏せる。
固唾を呑んで、香穂子の答えを待つ天羽は、香穂子がその伏せていた視線を上げた時。
……まっすぐに、凪いだ水面のように、穏やかに澄んだ眼差で、香穂子が天羽を見つめ返した時に。
親友が、これから先、彼女が愛すべき存在を失うことによって負うことになる、全ての痛みと寂しさと苦しみとを、天羽の想像出来る限界を越えて、受け止める覚悟を持っていることを知るのだった。
「ありがとう、天羽ちゃん。……でも、大丈夫なんだよ」
陰りなく笑う香穂子には、ほんの少しも揺らぎもなくて。
それが、とてつもない心の強さと、そして何よりもこれからの彼女を苦しめる誰かへの愛情故に生まれる決心から来るものだということが分かるから。
逆に天羽の方が、ひどく泣きたい気持ちになるのだった。
天羽と別れて、一人家路を辿りながら。
こんなふうに一人で過ごす時間が、これから増えていく可能性に、香穂子は少しだけ胸を痛めた。
彼と2人で歩く時には、とても暖かく思えていた夕焼けの茜色が。
ただただ、寂しいものに思えて。
でも、彼のことを思い、これからの2人の、それぞれの人生を思う時に、香穂子はどうしても、たった一つの答えを迷いなく選んでしまう自分を知るのだった。
そして、きっと彼も同じ答えを導き出してしまう。
自分達は、強くもなく、器用でもなく。
そして彼が歩もうとする道は、何かを引きずったまま歩いていけるほどに容易い道でもない。
……何かを抱えたままで掴み取れるほどの。
容易い夢で終わってしまっては、ならないのだ。
(ごめんね、月森くん。……それでも、少しだけ楽な道を選ばせてね)
本当は、彼が選ぶ道の行き先が、香穂子にも見えている以上。
彼が言い出すよりも先に、香穂子の方から別れを切り出す方が。
彼の罪悪感が、ほんの少しだけ安らぐということも、分かってはいるけれど。
切り出すことを、彼に委ねることだけが。
たった一つ、香穂子が彼に押し付けてしまう我侭だった。
(でもね、大丈夫なんだよ)
天羽に告げた言葉は嘘じゃない。
確かに、月森という存在は、香穂子の側からいなくなる。
だけど、失ってしまうわけじゃない。
月森と過ごしたこの2年の間。
沢山のものを彼から貰ってきた。
目に見えないもの、形には残らないもの。
だが、香穂子の心の中に。
確かに、息づいているもの。
彼に出会って、そして彼を好きにならなければ。
きっと、香穂子の中には存在しなかったもの。
そしてそれは、きっとこれから先の未来に香穂子が生きていく中で、ずっと抱き続けていくもの。
(だから……大丈夫なんだよ)
夕焼けの茜色。
その鮮やかさに目を細め、香穂子は心の中で語りかける。
大丈夫。
たとえ貴方が私の側にはいなくても。
全てを失ってしまうわけじゃない。
残されるものはある。
私の心の。そして、記憶の中に。
だからどうか。
心配を、しないで。
私を置き去りにして夢を追う事を。
悔やんだりはしないで。
……私は、貴方を『失う』訳ではないのだから。
私にとって、貴方を『失う』という事は。
私の記憶、想い出の全てから。
貴方の残像が、消え去ってしまうという事だから。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.6.8】
これ系統の話で、香穂子側の視点で話を書いた事があんまりないような気がして、こんな話。
うちの香穂子って尋常でなく強い気がするけど(苦笑)実際にはこんなに強くて一途な恋はそうそうないにしても、そんな恋愛というものを書いてみたいから、このカップリングで創作をしている気がしてならない。
綺麗事だったり都合良かったりしても全然構わない。それが創作の醍醐味という気がしなくもない。
その前に、ちゃんと読み手に伝わるように書けたのかなあ。力量不足を痛感。


