いつだって、向い風。
「……月森くん、だ」
階段の途中、階下のフロアを斜めに見下ろして、香穂子は小さな声で呟いた。
同じ学内音楽コンクールに参加している、同じ学年、同じヴァイオリンでの参加者、月森蓮。
違うのは、彼は幼い頃からヴァイオリンに心血を注いで来た、根っからのヴァイオリニストで。
香穂子は身に余る幸運を受けて、ヴァイオリンを弾いている、『偽』ヴァイオリニストだということ。
(頑張りたいって、思ってるけど)
ハンデを貰って参加しているのは重々分かっているから、せめて、心だけは恥じないように。
真面目に一生懸命、このコンクールに向き合いたいと思っている。そのために払う努力は、惜しまないようにと。
それでも、あまりに唐突過ぎた香穂子という素人の大抜擢には、特に音楽科の女生徒からの風当たりが強くて。
時々、へこむ。
投げ出したくなる時もある。
そんなふうに、落ち込む時に限って、一番強い風が香穂子に吹き付ける。
それが、月森蓮。
遠慮も躊躇もなく、痛い真実ばかりを突き付けるから。
どん底まで落ち込んで。
そして這い上がるしか道がなくなる。
頭ごなしの否定はしない人だけど。
甘えや妥協は許してくれない人だから。
逃げ道がなくなって、奮い立たされて。
そして、香穂子はまた前に向かって歩くのだ。
筋金入りのヴァイオリニストの彼から学ぶことは多い。
話しかけて、必要な助言を貰うまでには辛辣な意見や、あからさまに迷惑そうな態度も貰わなければならないけど、それだけの代金を払ってでも、香穂子にとっては月森の持つ知識が今は必要だ。
よし、とちょっとだけ彼の言葉を受け止めるだけの気合いを入れて、声をかけようと手摺から身を乗り出して。
そして、香穂子は月森が1人ではないことに気が付いた。
壁に背を預ける月森の前に立ち塞がるようにして。
取り囲んだ、数人の壁。
(……えっと)
声をかけようとした気合いが空回る。
少しだけ拍子抜けして、香穂子は乗り出した身を元に戻す。距離はあるが、静かなこの場所にははっきりと彼らの会話が響いてくる。
盗み聞きしたいわけではないが、乱入するわけにもいかず、とりあえず会話が途切れるまで、と香穂子は成り行きを見守ってみる。
「だから、あまりいい気になるなって言ってるんだよ」
低く響く声は、月森のものじゃない。
上級生らしい月森の前に立ち塞がった壁を構成する人間が発した言葉は、香穂子にとってここ最近やけに馴染んでしまった言葉で、香穂子は思わず息を呑む。
(あまりいい気になるんじゃないわよ。貴女みたいな普通科が選ばれたのなんて、何かの間違いなんだから)
冷たい言葉に、身が竦む。
せめて、心だけは恥じることがないように。
自分に出来うる最大の努力を惜しまずに払っているつもりでも。
何よりも香穂子自身が、自分が選ばれてしまったことを間違いなんじゃないかと思っているのだから。
……真実の言葉が胸を射す。
(だって、何で私なの)
(私には、何も出来ないのに)
(私が選ばれてしまったのは)
(ただ、リリが見えたからというだけなのに)
いつの間にか、手摺を強く掴む両手の指先が、冷たくなって。
色をなくして、震えていた。
いつだって、香穂子を取り巻くのは冷たい向い風。
強くて、激しくて、息も出来ない。
だから、何も言えなくなる。
反論も、意見も出来なくて、言葉を呑み込むしかなくなる。
真っ白に、なる。
「お言葉ですが、先輩」
凛とした声が、静かなフロアに響く。
静かで穏やかな声は、それでも確かな熱を持ち。
まっすぐに、澱んだ空気を切り裂いた。
「俺は、いい気になっているつもりはありません。……先輩がどう思おうと、結果として選ばれたのは俺で、貴方達ではない」
香穂子は、そっと階下を見る。
そこにいる、その声の主を。
強い言葉を持つ人を。
「……選ばれるに足る努力も、勉強もしているつもりです。だから、コンクールに選ばれても、俺は何ら恥じることはない。どうしてもそれが納得出来ないのであれば、コンクール参加者を選出した先生方の前で弾き比べてみたっていい」
月森の目の前で、上級生が息をつめるのが分かった。その眼差を真直ぐに見返して、月森は言った。
「俺が、このコンクールに出場するのに相応しかったかどうか。その結論を出すのも貴方じゃない。四回のセレクションを聴く、観客と審査員です。本当に俺が、実力もなく、偶然選ばれたことにいい気になってのぼせるだけの人間であれば、その愚かさは、そこで評価されるはずです」
一息で言い切って、月森は小さく息を付いた。
一度視線を伏せ、また強い視線で目の前の壁を睨み付ける。
「……違いますか?」
……向い風の中に立っているのは、香穂子だけじゃない。
確かに、香穂子の存在はこのコンクールの中で異質なのかもしれないけれど。
コンクールに選ばれた参加者達は、皆同じなのだ。
羨望と嫉妬の向い風の中で。
それに負けずに立っている。
時々、揺れたり倒れたりしながらも。
立ち上がって、歩いてく。
「……日野。いるんだろう?」
月森の静かな声がフロアに響く。
はっと我に返って、香穂子が手摺から身を乗り出して階下を見下ろすと、そこにもう、先程の上級生達はいなかった。同じ場所に立つ月森が、斜めに香穂子を見上げていた。
「き、気付いてたんだ?」
「君が階段を下りてくるのが、視界の端に見えていたから」
香穂子が慌てて階段を下りていく。
月森は香穂子が最下段に辿り着くまで、そこに佇んで待っていた。
「……そういうことだ」
「え?」
突然の月森の言葉の意味が分からずに、香穂子が尋ね返す。
月森は、微かに。
本当に、微かに。ふと、小さな破片を取り落とすように。
……笑った。
「……このコンクールに参加することを疎ましがられるのは、別に君に限ったことじゃない。俺達音楽科も同じだ。……俺の場合はまたいろいろと理由もあるから、参加者全てが一概にそうとは言わないが」
溜息を付いて、困ったように首を傾げて月森が言う。
……意外に自分の言動の影響を知っている月森に、香穂子は少しだけ驚いた。
「だが、結局のところ、演奏でしか何も語れない。どれだけ自分に恥じない演奏が出来るのか。……突き詰めれば、答えはそこにしかないと俺は思う」
だからこそ、互いに頑張ろう、と月森は香穂子の肩を叩く。
だから、香穂子も。
頑張りたいと、本当に素直に。
心の底から、そう思えた。
例えばそれが、何の意味もなさない無駄な努力でしかなくても。
……何よりも、この目の前にいる、ヴァイオリンに対してただただ真摯な、たった1人の人に。
恥じない演奏がしたい。
(だって、私が知っている中で一番、月森くんはヴァイオリンに対して純粋な人だから)
他の誰に認められなくても。
この青年に認めてもらえたなら。
……それこそが、香穂子にとって一番嬉しい、このコンクールに参加したことの『答え』になる。
一番強い向い風。
それにぶちあたっても、壊れないで。
頑張って。
真直ぐに前を見据えて。
香穂子もずっと、歩いてく。
二人で肩を並べて、練習室までの廊下を歩きながら、香穂子はぽつりと呟いた。
「月森くんって、凄いね」
「……俺が? 別に凄くはない、と思う。俺だけじゃなく皆、それだけの覚悟を持ってコンクールに臨んでいると思うが」
「ううん」
香穂子は首を横に振る。戸惑って香穂子を見下ろしている月森に、笑いかけた。
「凄いよ」
たった1つの覚悟で。
揺るぎない自信で。
向い風に負けず、真直ぐに前を見て。
進んでく。
前に進めない向い風の流れを。
真っ白になる息苦しさを。
背中を押す追い風にして。
辛さを超える原動力に。
自分自身を輝かせる為の、彩りに変えて。
そんなふうに。
全て、自分の心次第で。
取り巻く息苦しい風の色さえ変わる。
……それを、貴方は。
私に教えてくれたんだよ。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.8.8】
創作って、つくづくその時の自分の心情が出やすいなと思います。
……黒くない、へたれてない月森って珍しい気がする(笑)香穂子視点で書くと、ちょっと美化されるんでしょうかね(笑)


