とても素直で、前向きな人間だったから。
自分が、周りの羨望や嫉妬、そういう痛い刺から身を守る為に必死になっていて。
いつの間にか、とても頑なものになってしまっていたことに。
そうして、とても孤独な寂しい生き物になってしまっていたことに。
ようやく、気付くことが出来たんだ。
……だから。
「……えっとね……」
香穂子は月森の要望に応え、大切な一曲を、最後まで弾き終わる。
もう奏でる音の続きがなくなってしまったところで、一つ息を付いて、ヴァイオリンを下ろした。
音楽が途絶えてしまうと、もう次に何を話せばいいのか、お互いに分からなくなって。
戸惑ったまま、少しだけ長い沈黙を費やした後、香穂子がぽつりと言葉を切り出した。
「……このまんま、終わりたくなかったんだよ」
「ああ」
月森が頷く。
「私、音楽科じゃないし。これからヴァイオリン、どんなふうに続けていくかとかも、正直、コンクールのことで頭一杯で、考えてなかったし」
「……ああ」
もう一度、月森が頷く。
余計な言葉は挟みたくなかった。
ただ、彼女が彼女の言葉で紡ぐ。彼女の、本心が知りたい。
「……賭だったの」
香穂子が、力なくヴァイオリンと弓を掴んでいた両手を下ろす。片手にその二つを持ち直して俯く彼女の足下に、ぽつりと涙の粒が落ちて、月森は微かに目を見開いた。
「月森くんが優しくなるから、『もしかしたら』って思ったこともあった。でも、本当に届くなんて思わなくて。……好きになってもらえるなんて、思ってなくて」
このコンクールに巻き込んでくれたあの妖精の。
最後の贈り物という言葉に、賭けた。
それは初めから、叶えたくて賭けるものなんかじゃなくて。
その賭に、負けたなら。
何かを言い訳にしてしがみつくことなく、未練なく、全てが断ち切れると思っていた。
「……君は、意外なところでネガティブだな」
このコンクールの最中、月森が見てきた日野香穂子という人物は、いつだって前向きだった。
逆境に挫けず、転んでも立ち上がる。そんな、前だけを見据える人間だと思っていた。
「俺は……決して君を嫌いだなんて素振りは見せていなかった、と思う。……正直、君には全部見透かされているんだろうと思っていた」
自分は器用な人間じゃない。
嫌いな相手に笑いかけたり、優しくしたり出来るほど、他人に柔軟に対応することは出来ない。
「俺が君を好きなことなんて、とっくに知っていると思っていたのに」
指先を伸ばして、彼女の頬に触れる。そこに流れるものが熱い。突然触れられた冷たい月森の指先に、香穂子が少しだけ身を竦ませた。
一度だけ、ぎゅっと目を閉じて。そして、恐る恐る目を開き、上目遣いに月森を見上げる。
「……自惚れて、違ってたら、怖いもの。……自分に自信なんて、全然ないし」
「……そうだな。俺もそうだ」
一緒に帰ることも、登校することも。
名前で呼ぶことも、二人で練習をすることも。
彼女は嫌がらなかったから。
もしかしたらと思うことはあった。好きになってもらえるかもしれないと予感したことはあった。
それでも今日、こうして彼女の想いを込めたあの曲を耳にするまで。
この目の前の存在が、確実に手に入ると、確信したことはなかった。
……彼女がずっと、自分と同じ想いを抱いていたというのなら。
そんなふうに、思い悩んでいたというのなら。
それはとても……幸せなことだ。
「……君が、好きだよ」
両手を伸ばして、その頬を包んで。
自分の方へ向けさせて、真直ぐにその目の中を覗き込んで。
嘘偽りない、想いを伝えるのに、一番簡単な言葉を、月森は口にする。
本当に、同じ想いを自分達が抱いているのなら。
きっと、彼女はこの一言を望んでいる。
月森のその想いは伝わったのだろうか。
月森の言葉を、どこか呆然とした表情で聞いていた香穂子は、一つ瞬きをした。
そして、自分の頬を包む、そのひやりと心地よい体温の月森の手を、自分の空いた片手で覆う。
月森よりも幾分か体温の高い香穂子の温もりが、月森の手を暖める。
「……月森くんが、好きです」
潤んだ瞳で真直ぐに月森を見つめ返す香穂子が、ふわりと笑った。
「だから、これからも。コンクールは終わっちゃったけど、それでも。……私は、月森くんの側にいてもいいかなあ……」
人生の中で、自分ではない誰かに恋をすることは、きっと石に躓くみたいに、簡単に、あちこちに、散らばっているのだろう。
人は寂しい生き物だから。
たった一人で生きていくわけではないから。
乾いた砂が水を吸い込むくらいに自然な、摂理のような本能で、自分ではない誰かを求めるんだ。
だけど、そんなたくさんの恋の中に、たった一つだけ、特別なものが混じっている。
手にしたら一生物になるくらいの、大切な恋がある。
今しかないと、月森も香穂子も想う。
今掴むべき、そんな運命めいた恋のような気がしている。
決して、俗っぽいジンクスや、妖精の導きなんて奇跡だけを信じているわけじゃなくて。
それは本来、すれ違うこともなかったはずの自分達が。
こうして巡り会って、そして掴んだ恋だったから。
夕焼けに染まる茜色の屋上で。
まだ少し、照れくさそうに笑っている月森が、香穂子に向かって片手を差し出した。
「……そろそろ、行こうか」
そうして笑う月森の頬も、暖かい茜色に染まっているから。
何だかそれは、暖かくて幸せな色だなあと、香穂子はぼんやりと思う。
「……うん、行こう」
頷いて、差し出された片手を握る。
硬くて、男の子らしい、冷たい手。
この手を握りしめていられるその時間の間だけ。
きっと、香穂子は誰よりも一番、月森に近い。
恋をすることは、きっと幸せなことばかりじゃなくて。
今以上に辛い気持ちや、哀しい気持ちも、隣り合わせにあるのだろう。
いつもいつも劇的な変化ばかりではなくて。
飽きるような平坦さしか、もたらさない時だってあるだろう。
それでもこの恋を諦めて生きるより。
必死にみっともなくしがみついて、手に入れる方が。
人生はきっと、幸せになるような予感がしている。
幸せになるために努力する、そんな隠された力は。
一人で生きるより、確実に発揮出来るような気がしている。
(だって、この人の目に映る自分自身は、前向きに頑張って、輝いてる存在でいたいよ)
凹んだりするだろうけど。
傷付いたりするだろうけど。
それでも、大切な存在が側にいてくれるから。
もしかしたら、とても孤独に生きてしまっていたかもしれない自分達は。
二人で一緒に幸せになりたいと願えるから。
進めるんだ。
前に。
手の中にある、大切なものを離さないように。
月森と香穂子は、互いの手をしっかりと握り合う。
どちらからともなく、顔を見合わせて。
言葉はなく、分かりあって。
一つ、頷いた。
夕暮れの屋上で。
『二人』という幸せを始める為に。
同時に一歩を踏み出した。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.4.4】
書いた頃がちょうど新年度の頃だったので、「始めるぞー」的な話を一つ。
いっつもゲームの告白後、香穂子が「愛の挨拶」弾き終わった後どんなきっかけで帰るんだろうなとか、やたら現実的な余計なことを考えます(笑)あの後、どう切り上げて帰ったらいいのか分からん(笑)
ってことで、「これから恋人同士始めます」的な話で一つ。


