真夏の雪

月森×日野

 建物を一歩外に出ると、途端に湿気を含む熱気が身体にまとわりついて、息苦しさを覚えた。
 夏の陽射しは強く、地面からの照り返しが更に暑い。
 真っ青な空も、そこに湧いている真っ白な雲も、太陽に向かって真直ぐに立つ花も、木陰の蝉の喧噪も。全てが暑さに拍車をかけるための小道具にしか思えなかった。
「暑い……」
 几帳面に畳んだハンドタオルで汗の滲む首筋を拭いながら、香穂子は恨めしげに晴れ渡る空を睨んだ。
 あんなにたくさんの雲が空を覆ってるのに、あまりにもはっきりとした綺麗な白色であるために、それがほんのわずかの涼をもたらす雨を降らすための雲ではないことは、一目瞭然だった。
「夕立でもどばーって降らないかなあ。そしたらちょっと違うと思うんだけど」
「だが、雨が降るのは困る。天気予報では夕立もないと言っていたから、今日は傘を持ち合わせていない。今雨に降られてしまっては、ヴァイオリンを庇う術がない」
 香穂子の数歩後ろから、至極冷静に、真面目な返答が聞こえてくる。香穂子はちょっとだけ頬を膨らませながら、背後を振り返った。
「雨がどうのこうのじゃないの! 暑いのが駄目なんだよう……ううう、暑い、あーつーいー……」
 月森に向かって反論したことで、逆に堪忍袋の尾が切れてしまったのか、香穂子は項垂れながら囈言のように暑い、暑いと繰り返す。暑いと実感することそのものが、暑さを増長させる原因のような気がしたが、月森はあえて口を挟まなかった。
 項垂れた香穂子に変わって、月森は空を見上げる。
 暑いのは苦手だから、季節としては冬が一番好きなように思う。だが、夏の鮮やかな空の色は決して嫌いではない。
「雨が駄目なら、この際雪でもいい……。降らないかなあ」
 香穂子がぼそりと呟いた言葉に、月森は小さく笑う。
「……その方がよほど、実現不可能だと思うんだが」
「分からないでしょ。世の中異常気象なんだから」
 実際、南半球は冬だよ、と香穂子は真面目な表情で顔を上げた。そして、改めて自分の言動を考え直したのか、雪、ゆき、と呟きながら、今度は嬉しそうに笑う。

 ころころと変わっていく表情。
 月森が最初に惹かれた、感情を取り繕わない、香穂子という少女の素直さ。

「いいなあ、雪。真夏に降る雪。素敵だよねえ」
「……そうか?」
「うん。だって、寒くはないし、空の色は綺麗だし。陽射しが反射して、きらきらするんじゃないかな。何よりも、涼しいし!」
 香穂子は楽しげににこにこと笑う。月森も、それにつられるように笑った。

 本当は、月森には、あまり香穂子の感覚は馴染まない。
 拒絶したり、馬鹿にしたりするわけではない。
 もっと根本的に、月森は香穂子ほど、感覚的なものを知らないのだ。
 香穂子に出逢うまでの月森には、それは必要がなかったものだったから。
 目に見えるものしか、信じなかった。
 この手で触れるものしか、見て来なかった。
 だからこそ、香穂子という存在は月森にとってひどく稀少で。
 そして、とても貴重なものになる。


 彼女の側にいて、彼女の感覚に引きずられることで。
 月森にも見えるようになるからだ。
 信じられるようになるからだ。
 この目に見えない、この手に触れない。
 それでも、確かに『在る』ものの形が。

 真夏の雪。
 常識的に考えれば、決して目にすることのないものだろう。
 それは、降るかもしれないと信じることが出来る者の心の中にのみ、降り落ちるものだ。

 例えその目に見えなくても。
 その指先で触れることはなくても。
 降ればいいと願う香穂子の心の中で、真夏の熱気の中に、地面に辿り着く間もなく消えてしまうかもしれない雪の六華は正しく咲くだろう。
 微かな涼しさを残して、幻の雪は、確かに彼女の心の中でだけ、降り積もるだろう。
 そして、その本当に何気なく、彼女が発した呟きを耳に留めた、月森の心の中にも。
 彼女が降らせたものと同じ、儚い雪が落ちるだろう。

 ……月森が彼女と出逢うことがなければ。
 彼女という存在に惹かれることがなければ。
 きっと、降るはずのなかった雪が。



「……ごめんね?」
 ふと自分の思考の中に入り込んでいた月森の意識が、覗き込むようにして自分を伺った香穂子の声に引き戻される。咄嗟に香穂子の言葉の意味が分からなくて、月森が「え?」と問い返すと、香穂子が困ったように首を傾げた。
「あんまり馬鹿なこと言うから、呆れたんでしょ? お姉ちゃんやお母さんからも、いつも言われるんだよね。空想もほどほどにしろって」
「ああ……いや……」
 今、自分の心を占めていた感情を上手く言葉に出来なくて、月森は口籠る。真直ぐに自分を見つめている香穂子の心に、正しく伝わる言葉を模索しながら、ふと、月森はここに到ることになった経緯を思い出していた。
「……香穂子、暑いのは?」
「えっ?」
 問いかけると、驚いたように香穂子が声を上げる。
 先程までのうだるような暑さが、ほんの少しだけ和らいだのに気が付いた。
 『暑い』とそのことだけを繰り返していた思考が、別の逃げ道を見つけていたからだ。
「……忘れてた」
 半ば呆然として呟く香穂子に、月森は微笑む。

「……だから、確かに降ったんだろう」



 目には見えなくても。
 指先に触れることはなくても。
 香穂子と、そして月森。

 香穂子が紡いだ空想の言葉の中に、真実を望んだ二人の心の中にだけ。

 ……降り積もる。
 真夏の雪が。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:07.10.1】

微妙な話を書いてスミマセン(笑)この話を書くまでに1ヶ月半ほど何も書かない日があったんですが、書かない間に経験したいろいろを、詰め込んでみて、出来上がった作品がこんな感じです。
渡瀬本人の中では確かに変化があります。それが閲覧しているに人までうまく伝わるかどうかは分かりませんが……。

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