仕事がある日は時間が不規則だと知っているから、滅多に香穂子は電話をかけてこない。連絡事項はメールで記す。だからこそ、夜更けの香穂子からの着信が何だか不吉に思えて、月森は足を止めて、慌てて通話ボタンを押した携帯を耳元に当てる。
「もしもし、香穂子?」
「大切な香穂っちは預かったよん。返して欲しくば15分後、●●駅改札出てすぐのガードレールのところでよろしく」
一方的に早口で告げられた台詞の後、ぷつりと通話は途切れる。虚しい音を繰り返す携帯を耳から離して、月森はその物言わぬ携帯の姿をしばし眺めた。
「…………長谷川さん…………?」
眉間の皺を深めて考え込み、月森はようやく、その声の主に思い当たる。
どこかほやんとした雰囲気の落ち着いた声音は、香穂子の大学時代の友人、長谷川灯のものだった。
「お疲れ、月森」
長谷川に指示されたきっかり15分後、彼女が告げた、香穂子が暮らすマンションが近いその駅の改札を抜けて外に出ると、薄汚れたガードレールに腰掛けて月森を待っていた長谷川が、軽く片手を上げた。
相変わらず、ジーンズ姿で女性らしさには乏しいが、何となく人目を引く雰囲気がある。軽い近視のためにかけているという細いフレームの眼鏡の効果も相まって、一見理系の学生のような風貌だが、実際のところは、実力派と評されるとあるロックバンドのドラマーという肩書きを持つ。そして、香穂子の仕事相手でもある。編曲にストリングスを多用する、彼女のバンドのCDのクレジットには、いつも「Violin:Kahoko Hino」という言葉が表記されているのだ。
……余談だが、長谷川の流儀で言うと『5回会ったらお友達』『お友達は敬称略』らしく、既に両手で足りるくらいの数は彼女との面識がある月森は、断りもなく『月森』と呼び捨てられている。特に不快だとは思わないし、そもそも言うだけ無駄だということも知っているので、無理に異論は唱えない。
「……何故、君が香穂子の携帯から俺に連絡してくるんだ」
「あたしから着信したら、無視されそうな気がしたから。香穂の携帯なら間違いないっしょ」
悪びれもせず言ってのけ、長谷川は月森を手招く。しぶしぶながら近付いていくと、外灯の乏しい光に照らされて、長谷川の傍らにもう一人別の人物がいることが分かった。すぐその人物が誰かということに気が付いて、月森は目を丸くする。
「……香穂子!?」
「カクテル3杯目であえなくダウンです。いや、相変わらず可愛いやね」
自分の肩にもたれかからせていた香穂子の身体を、走り寄った月森に押し付けるように預けて、長谷川はにやりと笑う。反射的に香穂子の身体を受けとって、月森は複雑な表情をした。
「一応、セクハラ対策はしてみましたので。レコード会社のおっさん達には指一本触れさせてません。更に言えば、別に月森呼び出さずに誰かに送らせてもよかったんだけどさ、そのまま送り狼されちゃうと、あたしが月森に殺されかねんので、電話してみた次第」
そういえば、最近香穂子も仕事が忙しくて、なかなか会う時間が取れなかった。長谷川のバンドのレコーディングに参加していたというわけだ。彼女達との仕事の際は終わった後に盛大な打ち上げをやると聞いたことがあるから、今日がその日だったのだろう。
「この時間で制限時間内にここに来たってことは、月森は香穂んちにお泊まりでしょう。よろしければお持ち帰りで」
「あ、ああ。……分かった」
頷いて、ぐったりと酔いつぶれている香穂子を、月森は背中に背負いあげる。香穂子のマンションはここから歩いて10分以内。車を呼ぶほどの距離ではない。
「……だが、ここまで来れるのであれば、実際のところ、君が香穂子を家まで送れたんじゃないのか?」
背中の香穂子の位置を調節しながら、月森がじとりと長谷川を横目で睨むと、長谷川はわざとらしく視線を反らして肩をすくめる。確かに車では入り辛い狭い道沿いに香穂子のマンションはあるが、これだけ夜が更ければ、車の量はほとんどない。
どうせ、ここまでも誰かに乗せてもらって来たのだろうから、香穂子のマンションまで行くことも決して不可能ではないはずなのだ。
「いやほら、それはさ。あたしから月森へ、サービスだから」
「サービス?」
「ま、とにかく渡したから。あたしは帰るね」
ひらりと片手を振り、長谷川は駅の駐車場の方へと爪先を向ける。
「……送らなくて、いいのか?」
一応月森がその背中に尋ねると、長谷川は肩越しにちらりと月森を振り返り、不敵に笑い返した。
「大丈夫。不埒な輩がいたら、黄金の右でぶっとばすから」
……冗談に聞こえない。
(……だが、まあ大丈夫なんだろう)
駐車場の方に向かうということは、そこに彼女と香穂子をここに連れて来た協力者がいるということ。その人物が、自分が香穂子を大切に想うのと同じように、長谷川の事を大切に想っている人物だということを知っているから、月森は心配しない。
「……あ、そだ」
何かを思い出したようにぴたりと足を止め、長谷川はもう一度月森を振り返る。何事かと様子を伺う月森に、楽しそうに笑ってみせた。
「後で、月森あたしにものすごく感謝するよ。香穂ねぇ、めっちゃ可愛いから」
「……は?」
訳が分からず尋ね返す月森に答えることなく、じゃーねーと間延びした声で別れを告げた長谷川の姿は、夜の闇の中にあっさりと溶け込んでいった。
人通りの絶えた往来に、月森の靴音だけが響いている。
とても寂しい風景なのに、少しも寂しさを覚えないのは、彼女を負った背中が、彼女の温もりで暖まっているからなのかもしれない。
(そういえば、香穂子と飲みに行ったことはないな)
あんまり強くないとは何かの会話の折に聞いた気がするのだが、互いに忙しく、ゆっくり会う時間もとってやれないから、当たり前に知っていておかしくないそんな基本的なことを、月森は知らない。
(……可愛い?)
長谷川は、そんなことを言っていた。
酔いつぶれて寝てしまった香穂子。どんな彼女でも可愛いと想うのは、ただ自分が盲目的なだけだけれど、いったい彼女は香穂子の何を指して、そう言ったのだろう。
考え込みながら、一歩一歩を確認して、背後の香穂子に気を使いつつ歩いていると、ふと微かな溜息と共に、身じろぐ気配がする。
「んん……あかりぃー?」
月森の背中に顔を押し当てたまま、小さな声で香穂子が呟く。どうやら、眠りから覚めたようだ。だが、意識は朦朧としたままなのだろう。月森に背負われていることは気付かずに、舌足らずな力のない声で、一緒に飲んでいた長谷川の名を呼んだ。
(……寝惚けているのか)
苦笑しながら、月森はもう一度香穂子の身体を支え直して、体勢を整える。一度止めた足をもう一度踏み出して歩き出すと、その軽く上下するリズムが心地いいのか、香穂子がうっとりとしたような甘ったるい喋り方で、月森の背中に語りかける。
「……あかりー、あのねー」
まだ、長谷川に喋っているつもりなのだろう。香穂子は月森には気付いていないようだった。
「あのねー。……しあわせすぎて、どうしようって思うんだよ……」
ふわふわと、軽い喋り方。
月森は、静かな往来を歩きながら、香穂子のそんな綿菓子のような言葉を聴いている。
「目が覚めたらさー、全部夢だったんじゃないかって想うくらい。幸せで、どうしたらいいのかわかんない……ねえ、あかり……」
次の一言で、月森の足が完全に止まる。
「目が覚めて、れんがそばにいるのが全部夢だったらどうしよう……」
月森は、息を呑んだ。
肩越しに自分の背中に全てを預ける香穂子を見るけれど、香穂子はそんな月森に気付くことなく、ぎゅっと目を閉じて、甘ったるい言葉を繰り返している。
「でも、れん、いるんだよね。夢かと思って目が覚めると、隣に寝てたりすんの。……そういうのすっごくしあわせ、なんだよ。……あかりぃ……このしあわせって、夢かなあ。ゆめだったら、覚めなくていいくらい、しあわせなんだけど。……どうし、よ……って、あれ!?」
(月森、あたしにめちゃめちゃ感謝するよ)
(香穂、めっちゃ可愛いから)
香穂子は言動に嘘なんてないけれど。
我慢強くて、負けず嫌いで。
そして、何よりも自分より他人の事を思いやるから。
時々、苦しいことや哀しいことを、自分の内に閉じ込めてしまう。
伝えたい言葉は、いつか表に滲み出させてしまう素直さはあるけれど。
人に見せたくないものは、どんな手段を使っても隠そうとする。
だけど、彼女はこうやって曝け出すのだ。
アルコールの力を借りて。
普段、誰にも言えない言葉を。
弱音を、怯えを、……そして、惚気を。
素面なら、絶対に口にはしないような。
我侭で、素直な。
そんな、本心を。
「え……あ、あれ!? 灯じゃない!?」
ようやく香穂子の意識が多少まともに覚醒する。見慣れた風景の中、自分の足を動かさずに自分は移動を余儀無くされていて。
身を預けたものが、随分と広く、安心出来る背中で。
感触から匂いから、何もかもが馴染んでいる感覚で。……だから、その背中が誰のものなのかも簡単に分かって。
驚いて、身を起こした。突然だったからぐらりと彼がバランスを崩す。
「あああ、ご、ごめん!蓮!降ろして降ろして!」
慌てて言うと、月森がゆっくり身を屈めて、香穂子の身体を地面へと近付けてくれる。足を伸ばして、地面の感触を確かめて。しっかり立ち上がったつもりなのに、アルコールに弱い自分の頭はぐらりと揺れた。
「え、ええと……」
空白になっていた自分の記憶を、両手で額を押さえながら思い出す。
そう、灯のバンドの皆と、レコーディングが終わった打ち上げで飲んでいて。気分がいいからと、いつもは手を付けない3杯目まで注文して。香穂子がアルコールに弱いのを熟知している灯に「知らないぞー」なんて脅されて。
……まんまと、その後の記憶がない。
いつの間に、月森が自分の前に現れて、自分を運んでいる、そんな事態になったのだろう。
「そーじゃなくて」
一人ごちて、香穂子はちらりと月森に視線を上げる。
酔いに任せて、何だか随分、色んなことを吐き出してしまったような気がするのだけれど。
「……私、今、変なこと言わなかった?」
恐る恐る尋ねると、月森はふわりと笑って答えた。
「変なことではなかったが、言った」
「うわあああっ」
途端に火照る頬を、悲鳴を上げて両手で押さえる。ただでさえアルコールで火照る身体が、沸騰しそうに熱い。
「ごめん、忘れてね!……あの、酔った勢いで出る言葉って、信用ならないし」
「そうかもしれないが、建て前を作る余裕がない分、本音だろう?」
「……うう」
あっさりと切り返されて、香穂子は真っ赤になったまま項垂れる。
灯は元々上手く香穂子を酔わせて本音を聞き出して、楽にしてくれる人で、香穂子はそんな灯の器の大きさに何となく安心し切って、簡単に自分を曝け出していたのだけれど、そんな素の自分をよりにもよって月森に見せる羽目になるとは。
俯いたままの香穂子の手を、冷たい掌がそっと握る。
「!」
驚いて香穂子が顔をあげると、仄明りの外灯の下、照らされた端正な笑顔が優しい。
「俺が側にいることで、君が幸せに想ってくれる。……それは、とても嬉しいことだ」
握る手に力を込める。
アルコールに酔わされて、吐き出された本音は、告げられた月森をも酔わせる甘い誘惑。
反応は素直でも、香穂子が自分自身で『我侭』だと思い込んでいる本音を、なかなか見せてはくれないからこそ、余計に可愛らしく映る甘い言葉。
「隠さなくていい。全部教えてくれないか?……素面だと難しいと言うのなら、アルコールの力を借りてでも、構わないから」
見つめると、まだ酔ったままのぼんやりとした眼差が、真直ぐに月森を見返してくる。
焦点の定まらない潤んだ目が、甘く月森を捉えていて。
少しまずいかもしれないと脳の隅の方が警告を送ってくる。
「……とにかく、帰ろう。……それまでに、もう少し君の意識がはっきりしてくれるといいが」
「え?……う、うん」
酔ってもいいと言ったり醒めた方がいいと言ったり、一体どっちを月森は望んでいるんだろう?
首を傾げながら、月森の冷たい指先に導かれて、覚束ない足取りで香穂子は歩き出す。
その繋いだ手に宿った、香穂子の熱。
香穂子の声が紡ぎ上げた甘たるい幸福な言葉と。
アルコールで火照る身体の、官能的な熱さ。
月森が口にしていない、そんな焼け付くアルコールの熱が、香穂子と繋いだ手から経由して、自分の心の中に同じ熱を灯すような心地がして。
月森は、香穂子に気付かれないように、こっそりと甘い溜息を吐いた。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.9.7】
とうとうこっちでも出てしまった、灯さん(笑)知る人ぞ知るってことで。
渡瀬は酒が飲めませんので、逆に前後不覚になるまで飲んだことがありません。そうなる前に具合が悪くなるので。
そのため、潰れるまで酔う感覚がよくわからないんですけど、とりあえず酒に弱い香穂子は、飲み過ぎると素直にべらべら喋り出してくれたりしたらいいとか思いました(笑)
続編がありますが、年齢制限物になります。2023年8月現在、新たなアドレス発行は行っておりません。


