そんなふうに思った。
分かってしまったことが少し哀しくて。
同時に、ひどく誇らしかった。
無理をしていないかと尋ねても、香穂子は笑顔で「大丈夫、大丈夫」と繰り返すだけだった。
それが嘘だということは月森にも何となく伝わるのだが、それをどう指摘していいか分からない。
もう少し、ちゃんと『人付き合い』というものをしてくればよかったと、こんな時に後悔する。
生まれ持った性格故、そういう経験がどこまで活かせるのかは想像がつかないが、それでも、彼女の強がりに「そうか」と答えたまま、まだ続くはずの言葉を呑み込むような真似はしなくて済んだはずだ。
……彼女が気落ちする原因の一端に、自分の留学があることも月森は知っているから。
変に踏み込んで追求してみても、それが逆に香穂子の心を傷付けてしまいそうな気がして。
……幾ら足掻いても、彼女の側を近い未来に離れなければならない自分の言葉では。
どんな言葉も、彼女の心を癒す糧には、ならない気がして。
「……難儀だね、月森」
普通科校舎の屋上。薄汚れた段差に几帳面にハンカチを敷いて、隣りに座った加地は、呆れたように笑ってそう呟いた。
一方、エントランスで顔を合わせて、「ちょっと話があるんだけど」と強引に加地にここまで連行されてきた月森は、加地と同じように段差に浅く腰掛け、加地の言葉を恐縮して聞いていた。
「でも、まあ。君がちゃんと日野さんの変化に気付いてくれててよかったんだけど。僕が口を出すにしても、限界ってものがあるからさ」
香穂子と同じクラス、隣の席。
クラスも、所属する科さえ違う月森より、ずっと長い時間、香穂子の日常の傍らにいる人物。
そんなふうに、誰よりも近い場所にいる彼よりも。
……密かに香穂子に想いを寄せていた彼よりも。
香穂子は、こんな自分を選んでくれたのだから。
加地のために、そして何よりも香穂子のために。
留学までに、自分が出来うることを全て香穂子にはしてやりたいと。
……そんな気持ちはあるのだけれど。
「やはり、香穂子は何か無理をしているんだろうか……」
エントランスからここに辿り着くまでに、加地がいつもの柔和な表情にほんの少しの険しさを滲ませて、「最近、日野さんが元気がないの、ちゃんと把握してる?」と尋ねてきた。
……いつも変わらず月森に向ける彼女の屈託のない笑顔が、懸命に造り上げたものだということは気付いていたが、そのそもそもの原因までは、月森には分からなかった。彼女が、その持ち前の元気を無くす理由は、事欠かないから。
突然コンミスに抜擢された、オーケストラの課題をこなすこと。
それに伴うアンサンブルコンサートの準備をすること。
普段の学生生活。
……そして、もうすぐ月森が彼女の側からいなくなってしまうこと。
「それを聞き出すのは僕の役目じゃないでしょ」
苦笑して、加地が溜息をつく。
「……月森がちゃんと気付いているんなら、別にいいんだ。気付かないで放置してるなら僕が世話を焼くところだけど、今彼女に必要なのは、本当は僕の手助けなんかじゃないんだから」
少しだけ、哀しげに加地が呟いた。
その自嘲的な笑みを浮かべた横顔を見つめながら、ふと月森は気付く。
自分がひどく、恵まれた立場であることに。
一緒にいる時間は短くても。
心を香穂子の一番近くに置くことが許されるのは、自分であることに。
だから、月森は決心する。
……そう、気づけないのならともかくとして。
月森は、ちゃんと気付いている。
彼女が月森や周りの人間に見せる笑顔が、彼女の精一杯の強がりであること。
だから、きっと出来ることがある。
例えば、本来の不器用さ故に、その方法が間違っていたり、上手く出来なかったりしても。
出来ない自分を哀れみながら、ただ傍観したまま、本当に何も出来ずに終わってしまうよりも、意味があることだと思えた。
「……ありがとう、加地」
何だか、彼にはそう言わなければいけないような気がした。
突然礼を言われた加地は、少しだけ驚いたように目を見開いて。「世話が焼けるなあ、君達は」と苦笑した。
最近は、特に練習室での練習にこだわっていたわけではないが、ちょうど空きもあったし、月森はメールで練習室に香穂子を呼び出した。多忙なだけに、断られることも覚悟していたのだが、月森に遅れること十数分、香穂子は無事に予約を入れた、月森が待つ練習室に辿り着いてくれた。
「何か、二人で練習室って久々じゃない?」
アンサンブルの練習で、一通りの叩き台が出来上がるまでは練習室を使用するのだが、ある程度完成度が上がると、コンサートの客寄せも兼ねて人通りのあるところでの練習が増えていた。二人での練習は休日によく行っているが、学校にいる時には自然とアンサンブルメンバーが集まって練習することになるので、練習室で放課後に二人で練習というのは、確かに随分久し振りのことだった。
「えっと、ちょっと待ってね。私も調弦済ませるから」
ピアノの蓋を開けて、ヴァイオリンを取り出そうとした香穂子の手を、月森は咄嗟に掴んで止めた。月森くん?と怪訝に見上げた香穂子を、月森は真直ぐに見つめ返した。
「練習の前に、話したいことがあるんだが」
「え?……うん、構わないけど。何?改まって……」
……昼休み、加地と会話をした後、午後の授業の間中、ずっと考えていた。
どうすればいいのか。何をすればいいのか。
だが、どんなに考えを巡らせてみても。
出てくる結論は、たった一つだけなのだ。
「香穂子、君は何か無理をしているんじゃないのか?」
誘導尋問的なことも。
他愛無い会話から、推測することも出来ないのなら。
正面から、真摯に聞き出すしかないのだ。
「や……だから、大丈夫だって……」
困ったように笑って流そうとする香穂子の、どんな小さな変化も見逃すまいと、月森はじいっと香穂子の顔を見つめる。いつものようにどこか納得出来ないと言う表情をしながらも、追求を諦めてくれる月森ではないのだということを知ると、香穂子は固い笑顔を貼付けたまま、不自然に視線を反らす。
「大丈夫だよ。……大丈夫……」
まるで自分に言い聞かすみたいに繰り返す香穂子に、月森はほう、と安堵が混じった溜息を吐く。
加地に感謝をしなければ。
加地にあんなふうに、強く言われなければ。
おそらく自分は、彼女に遠慮をしたまま、こんな状態で放置し続けることになったのだから。
「……香穂子」
少し身を屈め、目線を彼女の位置に合わせて。
できるだけ、優しい言葉になるように、脳内で言葉を選びながら、月森は口を開いた。
「……俺の前では、無理をしないでくれ」
彼女の周りを取り巻く現実は、いつだって厳しくて。
自分一人が負担をかけているのだとは月森は思わない。そんなふうに簡単には自惚れない。
だけど、確かに原因の一つであるだろうことは、ちゃんと知っているから。
……それくらいの自惚れなら、きちんと持っているから。
我慢されるより。
空元気で振る舞われるより。
その負担により生まれてくる負の感情を。
受け止めさせてもらえることの方が、きっと。
ずっと……月森にとっては幸せだ。
「……大丈夫だよ」
懲りることなく、繰り返した彼女の。
言葉尻が、初めて震えた。
見守る月森の視線の先で。
固い笑顔のままの香穂子の目尻から、綺麗な涙がはらはらと零れ落ちた。
「大丈夫だよ。……私、は。大丈夫、だから」
もう、流れる涙が止められなくて。
しゃくり上げて、片手の甲で頬に流れる涙を拭いながら。
それでも香穂子は、もう意味のない強がりを繰り返した。
「……月森くんが、いなくても」
たった独り、残されても。
……大丈夫。
大丈夫だから。
貴方を選んだんだ。
「……馬鹿だな……」
たまらないというように、月森が呟き、両腕の中に香穂子の身体を強く抱き締める。突然自分の鼻孔に満ちた、爽やかな、自分のものではない香りに、香穂子がぱちりと大きく瞬きをした。
「どうして、そういう時に限って一人で泣くんだ……!」
多分、月森だって。
抱く寂しさも、哀しさも。
香穂子と同じものを持っているのに。
香穂子と同じ重さの、別れの辛さを理解出来るのは。
この世できっと、月森一人だけなのに。
1年も昔に遡れば、自分も香穂子も、互いを知らないまま生きていた。
出逢ってから過ごしてきた充実した毎日が、その単調な生活を、とても遠い過去に変えている。
そして、すぐにやってくる近い未来。
もう一度、二人は違う場所で生きることになる。
共に過ごす現在が、これほどまでに幸せなのだから。
離れて生きるそんな未来は、きっと想像する以上に寂しいものになるのだろう。
それでも、月森も、そして香穂子も。
生活を重ね合わせない平穏より、いつかは必ず辛くなってしまう、寄り添う幸福を選んだ。
それは、近くやってくる別れの、その更に先の未来に。
また、二人で歩いていける可能性を信じたから。
「……無理をしていれば、きっと俺達は駄目になる」
お互いに、遠慮と遠慮を重ねて。
嘘ばかりを相手に見せていては。
いつか互いの存在こそが、精神を蝕む負担になる。
「だから、俺が側にいる今は。君は、俺の前で泣いていいんだ」
一人で溜め込まず。
我慢して強がらず。
弱さを曝け出してもいい。
我侭を言ったっていい。
近い未来に、月森は確かに香穂子の側を離れて。
そうして、彼女はまた自由には泣けなくなってしまうのかもしれないけれど。
今、不器用でも、上手く出来なくても。
確かに月森が彼女を支えた記憶が、きちんと彼女の中に残るのなら。
支えた想い出と。
そして、支えられた想い出が。
離れ離れに生きる、二人の糧になるはずだから。
……それを、信じたいから。
「……本当は、すごく怖い」
月森の腕の中。
月森の香りのするシャツに、顔を埋めて。
香穂子がぽつりと呟いた。
「怖いよ。……コンサートも、コンミスも。……月森くんと、離れ離れになることも」
涙声の彼女の言葉に。
月森が、双眸を伏せて、頷いた。
「ああ、そうだな」
片手を上げて、彼女の髪を撫でながら。
華奢な背中に回した腕に、力を込めた。
「……俺も、怖い」
そう告げると、一瞬腕の中で動きを止めた香穂子が。
やがて、声を殺して、静かに泣き出した。
お互いを知らなかった遠い過去。
離れ離れになる、もうすぐそこまで近付いてしまった未来。
その狭間にいる現在の自分達が、どれだけ情けなくても、弱くても。
いつか、そんな哀しい未来すらも乗り越えて、遠い過去のものになって。
別の優しい未来が、近付くことを祈るから。
……信じて、いるから。
今は、愚かなばかりの自分達は。
現実という時の中。
自分に出来うる精一杯で。
時折、弱音や愚痴も吐きながら。
懸命に、二人で足掻くのだ。
その全てが。
目に見えている近い未来の、更にその向こうにある幸福な未来で生き抜くための、かけがえのない糧となるように。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:08.3.8】
突発的に頭に浮かんで、書きなぐってみた話。こんなふうに勢いで書き切ってしまうのは、ちょっと珍しいです。


