「また」がいつになるかは分からない。当たり前に会えていた、学校という基盤から巣立って、皆がそれぞれに生きていく道を歩いている。同一線上になければ、なかなかその行く先が混じり合うことはなくて、また会える日があったとしても、今日集まった全員が総じて顔を合わせることは少なくなるんだろうなと、香穂子は漠然と思った。
手を振って、去っていく人を見送って、香穂子はくるりと背後を振り返る。両腕を組んで気難しげな表情でそこに立っていた人は、香穂子と視線が合うと、ちょっとだけ困ったような顔をして、小さく笑んだ。
……逢えなかった1年の間に、少しだけ彼は大人びていたけれど。
そんなふうに、儚く消えていくような。……見逃したら、ものすごく損をした気がするような綺麗な笑顔は、香穂子が好きになった頃のまま、少しも変わっていなかった。
「……あちらの方に付き合わなくて、よかったのか?」
静かに告げられた言葉は、少し意地悪だ。
今、香穂子達と別れた人達は、これから二次会でまた一騒ぎするのだと言っていた。今日の誕生日パーティの主賓であるはずの香穂子は、既にそっちのけだ。一応、自分が行かなくていいのかと聞いてみたら、このパーティを取り仕切ってくれた天羽からは、「久し振りの逢瀬をこれ以上邪魔をするほど野暮じゃないわよ」と軽く笑ってあしらわれた。
……久し振りに会う人もいた、いろいろな意味でのかつての同志達と過ごす時間が名残惜しいという気持ちはもちろんあった。だが、それよりも1年振りに再会した恋人との時間の方が余程惜しいというのを、どうしてこの人は分かっていないんだろう。
「……すまない。少し、意地が悪かったな」
視線に険を含んだ香穂子に、月森は苦笑して、視線を伏せた。
「君のこれからの時間を一緒に過ごす人間に、俺を選んでもらっていいのかどうか、……確かめたかったんだ」
「そこで、自信持ってないのが月森くんは駄目だと思う」
少し頬を膨らませて、香穂子が言う。
でも、本当は分かっている。
……月森の留学前に、二人で交わしていた約束。
好きだけど。……ずっと、恋人同士でいたいけど。
『恋人同士』という柵に、お互いを閉じ込めないこと。
離れて暮らす生活の中で、お互いに愛情を感じられなくなったら。
いつでも、その存在を切り捨てていいという約束。
……今もお互いを『恋人同士』と呼んでいい関係か、なんて。
実際に顔を合わせて、視線を合わせて、手で触れて、それを繋いで確かめてみなければ。
いつでも、自信なんて持てないのだ。
もうすぐ日付が変わる、というくらいの時刻だから、二人で並んで歩くいつもは賑やかな往来も、お店はシャッターが下りていて、ひっそりとした眠りの気配に包まれている。時折明らかにスピード違反な車が脇の車道を快適に飛ばしていくだけで、二人分の靴音だけが静かにアスファルトに吸い込まれていく。
パーティが始まる前に二人きりにしてもらえた数時間で、お互いの近況を話し終えたら、もう次に何を話していいのか分からなくなった。それでも、ただ隣に月森の存在があるだけで、香穂子の心は満たされる。
……やっぱり、寂しかったんだな。と。
香穂子は、いつしか月森がいないことが当たり前になってしまって、その寂しさに麻痺していた自分の心に気がついた。
「……いつまで、こっちにいるの?」
「今週一杯はいるつもりだ。用事を済ませたらすぐに戻るつもりだったが、少しは家族に顔を見せて、親孝行をしてこいと、師匠に言われてしまったから」
「……そっか」
また、逢えなくなるんだと、香穂子はこっそり溜息をつく。
年に数度でも、月森と再会出来ることは嬉しい。
だけど、離れる時のことを考えると、途端に気持ちは下降する。
「月森くんの誕生日、また直接お祝い出来ないね。でも、プレゼントは贈るから、受け取ってくれる?」
懸命に笑顔を作って、彼を仰ぐと、月森が一つ瞬きをして、ふと歩く足を止めた。
つられるように香穂子も足を止めた。街灯の下で真直ぐに香穂子を見つめる月森が、綺麗だとぼんやり思った。
「そのこと、なんだが」
しばらく、黙って香穂子を見つめていた月森が、ゆっくりと口を開いた。うん、と月森を見つめ返す香穂子が、頷く。
「……欲しいものがある。君が許してくれるのなら、こちらにいる間に、直接貰いたい」
「え」
驚いたように、香穂子が目を見開いて、声を上げた。
いつも、香穂子が「何か欲しいものがある?」と尋ねるたびに「特にない」と困ったように笑って答える人だったのに、月森が自分からこんなことを言い出すのは、珍しかった。
「うん、もちろん。私がその期間で準備出来るものなら、ちゃんとプレゼントするけど……何が欲しいの?」
月森が自分から何かをねだるというのは、珍しいけれど、香穂子にとっては嬉しいことだった。
それは、月森が香穂子に期待をしてくれるということだから。
本当に香穂子が与えられるものなのかどうかは分からないけれど、与えられるように努力したいと思った。
答えを待つ香穂子の視線の先で、月森の視線が、何故か迷うように空に泳ぐ。やがて、何かを一つ思い切るように、月森の視線がまた真直ぐに香穂子の目の中を覗き込んだ。
「……君、が」
掠れた声。
香穂子を見つめる眼差が、切ない色に染まって揺れた。
「……君が、欲しい」
一瞬、言われたことの意味を捉え損ねる。
月森の静かな言葉が、胸の中に時間をかけて、落ちて。
香穂子は、ゆっくりと目を見開く。
無意識に一歩後ずさって、月森との距離を開いた。
「……月森くん」
「今、君が心の中で捉えた通りの意味だ。……俺は、君が欲しい」
後ずさった香穂子に、反射的にその腕を捕らえようとした月森が、思いとどまってその伸ばしかけた片手を拳に握り締める。
「軽蔑されても仕方ないと思う。……俺も、こんなことを言い出す自分を、自分でもどうかと思う。……それでも」
言葉を切って、月森は一度視線を伏せる。
そうして、もう一度香穂子を見つめる視線は。
どこまでも、純粋で。
真摯だった。
「俺は、まだ君を恋人と呼べる関係でいられるうちに。……君の全てを知っておきたいんだ」
恋人だから、許されることを知りたい。
いつか、お互いの存在を切り離す時が来ても。
それでも、確かに。
心だけでなく、全てが繋がり合っていたと。
そんなふうに愛せる人がいたのだと、自分自身が生きる人生の中に、焼き付けておくために。
「簡単に返事ができることじゃないと分かっている。君の気持ちがそこまで俺に追い付いていないなら、断ってくれて構わない。……君に断られたからと言って、俺の今の気持ちが変わるわけではないから。……俺が日本にいる間に、ゆっくり考えて、君が後悔しない結論を出してくれ」
無理強いがしたいわけじゃない。
身体だけを繋ぎたいわけでもない。
ただ、お互いが愛し合っていた証明が欲しいだけだ。
ちらりと月森は辺りに視線を向ける。そこはもう、慣れ親しんだ香穂子の家の近くの路地。
もう、これ以上は送らなくても、彼女は自力で自分の家へたどり着ける。
「……香穂子」
そっと俯いていた彼女の肩に片手で触れると、びくっと緊張したように香穂子が震えた。慌ててその手を離し、月森は困ったように苦笑して、それからゆっくりと。壊れ物に触れるかのように、もう一度香穂子の肩に手を置いた。
「日本に滞在している間は、だいたい自宅にいると思う。君の答えがどうであれ、君の本心を聞かせてくれると嬉しい。……待って、いるから」
なだめるように香穂子の肩を叩き、月森の爪先が香穂子の俯いた視界の中から消える。一つ瞬きをして我に返って、顔を上げると月森が自宅の方向へ向かって、立ち去る背中が見えた。
香穂子は片手で自分の胸を、そして、片手で月森が触れた肩先を押さえる。
心臓がうるさくて、月森が触れた肩が熱い。
(……私は)
(私は、どうしたいの?)
考える。
冷静に考えたいのに、脈打つ鼓動がうるさくて、まとまらない。
私は、どうしたい?
どうしたいの?
月森くん。
……月森くん……。
何度も、何度も。
彼の名前だけが、頭の中でループする。
きちんと考えなきゃ。
自分の心、身体の事。
「そう」することで生まれてくれるいろんな問題、危険。
ちゃんと、考えて。
自分の気持ちと向き合って。
そうして、結論を出さなきゃいけない。……後悔をしないように。
その結論を出したことで、彼に迷惑なんて、かけないように。
……そう、思うのに。
どうしよう。
……結論なんて、初めから決まっている。
悩む余地なんて、どこにもない。
ふと、何かを探すみたいに視線を空に巡らせた。
もう視界に彼の姿は捉えられなくて、遠ざかっていく足音だけが微かに聴こえる。
香穂子は本能で。
その足音を追いかけて。
……何も余計なことを考えずに、走り出す。
誰かに向かって放つ言葉は。
建て前とか、遠慮とか、プライドとか。
そういう余分なものが、オプションみたいに初めから付いていて。
本音をオブラートに包まずに話せるような強い人は、そう簡単にその辺に存在したりしない。
人は、誰もが弱いのだ。
怖がらずに、本音を曝け出す人は、その分勇気とか、そういうものをたくさん使っていて。
楽に、簡単に、本当の心を言ったりしない。
だから、きっと。
(月森くんもそうなんだ)
簡単じゃない。
きっと彼にとっては、軽く言える願いなんかじゃなかった。
それでも、曝けずにいられないくらいに、彼の中で育ってしまったどうしようもない想いだから。
香穂子に晒してくれた。
見せてくれた。
だから、香穂子もきちんと返さなければならない。
際限なく欲しがる、みっともない本心。
……醜い欲望。
でもそれも、全部月森だけに向かう、香穂子の想いだ。
「……月森くん!」
真夜中だというのを頭の隅に置いて、香穂子は懸命に走って月森に追い付いて、押さえた声で彼の名を呼んだ。ぴたりと足を止めた月森が、驚いたような表情で振り返る。その腕の中に、香穂子は躊躇なく飛び込んだ。
咄嗟に片足で踏ん張って、月森が勢いの付いた香穂子の身体を支える。戸惑ったように、おそるおそる月森が香穂子の両肩を掴んだ。
「どうしたんだ? ……香穂子」
「……さっきの!」
月森の胸に顔を埋めたまま、香穂子が小さな声で呟いた。
「さっきのプレゼント、あげるから。……だから」
ぎゅっと、月森のシャツを両手で掴んで。
香穂子は一つ深呼吸をする。
余分なオブラートを全て取り去って。
残ったものを、月森に曝け出す。
……先ほど、自分にそうしてくれた月森が。
どれだけの勇気が必要だったかを、改めて思い知った。
「今日は、私に月森くんをください……!」
だって、まだ日付は変わってない。
香穂子の誕生日は終わってない。
欲しいものをもらうのは。
まだ、香穂子の方の特権だ。
「香穂子……!」
月森が、半ば無理矢理に香穂子の身体を自分から引き剥がす。
走って来た火照りと、自分の発言の恥ずかしさに真っ赤になっている香穂子の顔を覗き込んで、真面目な顔で月森が香穂子を叱る。
「君は、自分が何を言ってるのか、分かってるのか? それは……」
「分かってるよ!」
月森の言葉を遮って、香穂子が押さえた声で叫ぶ。
「だって、仕方ないよ。考えても、悩んでも、私が言える答えは一つだけなんだもの……!」
月森が欲しい。
きっと、月森が香穂子を欲しがるのと、同じくらいの強さで。
女の方が、こんなふうに乞うのははしたないことだ、恥ずかしいことだと、理性の何処かが警告を鳴らしても。
『今』じゃなければ。
『いつ』欲しい存在は手に入るの?
いつも、傍にはいられないのに。
この想いは、永遠じゃないのに……!
「今、私が月森くんを欲しいんだよ。私だって、月森くんの全部が知りたいよ……もう、1年間も待ったんだから! これ以上待つのは耐えられない……!」
一度堰を切ったら、言葉が止まらない。
恥ずかしい、と考える理性は、まだ頭の片隅で悪足掻きをしているけれど。
そういう余計なものを取り払って、心の奥底に沈澱して残ったものは。
月森が、欲しい。……どうしても、欲しいんだと。
子どもみたいに駄々をこねる本心。
「香穂子……、落ち着いてくれ、香穂子」
じたばたと暴れそうな勢いの香穂子の身体を、月森がぎゅっと両腕で抱き締める。
困ったように香穂子をあやす声が、頭上から響いた。
月森を困らせている、という事実が香穂子の激情を急激に冷ます。力なく月森のシャツを掴んだ香穂子が、もたれかかるように月森にその身を預ける。そっと月森が頬に触れて、香穂子の顔を上向かせると、潤んだ香穂子の目が月森を真直ぐに見つめる。
月森が切なげに眉根を寄せ、もう片方の手を上げて、香穂子の両頬を包み込む。
開いた唇を寄せ、ゆっくりと香穂子に口付けた。
目を閉じて、香穂子はその口付けを受ける。お互いに、慣れてはいなくて。辿々しくて。
それでも、本能の命じるまま、深く、深く口付け合う。
ただ触れるだけならば生まれない濡れた音に、ぞくりとした感覚が背中に走る。それは、嫌な感覚ではなかった。
「……君が、望んでくれるのなら。……いくらでも、俺を君にやる」
口付けの合間に、月森は甘く笑う。
だから。
俺にも、君をくれるだろうか。
言葉で答える代わりに。
香穂子は自分の頬に触れていた月森の片手に触れて、そっと剥がした。
掌をなぞるように合わせ、指と指を絡めて、繋ぐ。
簡単に、解けることがないように。
お互いを逃がさないように。
……決して、離れないように。
また、離れて暮らす生活が、すぐ近くで待っていても。
お互いの全てを曝け出した後で。
確かに形のない何かがお互いの心の中に、きちんと残るよう。
繋いだ手に。
深く解け合う唇に。
ささやかな、願いを込めた。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.5.3】
さあ、続きます!(鬼!・笑)
前作に当たる香穂子お祝創作と合わせて書くことを決めていた話なんですが、肝心な書く暇ってやつが全くなかったですね!
しかし、今回は自分が如何に耳から入ってくるものに影響を受けやすいかを実感しました(笑)詳細は、続編のあとがきにて!
続編は年齢制限物になります。現在新しいアドレス請求は受け付けておりません。


