時計は、もうすぐ日付が変わる時刻を指している。週末は家にいることの少ない香穂子の家族は、土曜日の今日も例外なく全員が留守だった。一人留守番をすることは幼い頃から繰り返してきたことなので苦にはならないが、よりによって、どうしてこんな夜の天気が雷雨になるのだろうか。
言っても仕方のない愚痴を心の中で呟いて、香穂子はもう一度溜息を付く。
テレビを観る、音楽を聴く、本を読む。……1人の夜を過ごす方法は幾らでもあるが、激しい雷の光と音がそう過ごすことを香穂子に許さない。雷の衝撃に合わせ、不安定に点滅してしまう電灯すら香穂子の不安を煽るものでしかなくて、早々に香穂子は家中の電気を切っていた。……どうせ停電で、しばらくは付けようと思っても付かないのだろうけど。
同じ年頃の女の子たちに比べれば、多分怖いものは少ない方だろうと思えるのだが、それでも香穂子は雷だけは昔から駄目なのだ。何というのか……対処の仕様がない気がするのだ。どんな自然災害だって、それが大きいものであればあるほど、対処できなくなるものだが、地震にしろ火事にしろ、とりあえず机の下に隠れるとか、消火器を向けてみるとか、初めの対処法があるものだ。だが、雷だけはどうしようもない。それが大きかろうが小さかろうが、とにかく身を縮めて、通り過ぎるのをやり過ごすしかない。
そんなことを考えていると、また外が一瞬白く光る。遅れてくる轟音。香穂子は何となく片手に携帯電話を握りしめたまま、またタオルケットの下で小さくなる。
携帯を手放せずにいるのは、これが香穂子がSOSを真っ先に言いたい人物に繋がる、一番簡単な手段だからだ。きっと香穂子が泣きつけば、彼は我侭を聞いてくれるだろう。そういう人だと知っているからこそ、余計に香穂子はこの携帯から、彼の携帯へと回線を繋ぐことはしない。
今日は、両親に関する用事で出かけると言っていた。だが、香穂子がこんな状態でいることを知れば、きっと彼は無理をする。無理をして、香穂子の元へ駆け付けようとするだろう。それを拒むだけの強さが自分にないことを知っているからこそ、香穂子はこの携帯を使えない。
お守り代わりにぎゅっとそれを握りしめる。ずっと握ったままのその側面が、香穂子の温もりに暖まって、汗に濡れる。そうなることが当たり前に思えるくらいにずっとずっと握りしめたままだったから、それが突然音楽を奏で始めた時、香穂子は驚いて思わずそれを放り出してしまった。
床に軽い音を立てて転がったそれは、そんな香穂子の狼狽の中でも変わらずに優しい音楽を歌い続けている。香穂子は慌てて、携帯を拾い上げた。焦っていたので深く考えることもなく、ボタンを押して、通話する。
「はい……もしもし」
「香穂子か?……もしかして、眠っていたのか? だったら、済まない」
香穂子が相手を予測した上で出ると思ったのだろうか、名乗らずに、電話の向こうの誰かが、落ち着いた低い声で囁く。名乗られるまでもなく、相手が誰なのかを香穂子も理解する。耳元で囁くその声だけで。
今、香穂子が一番聞きたかった声。
「う、ううん。眠ってないよ? どうして?」
「いや……声に、覇気がないものだから」
タオルケットにくるまって、床に座り込んだ香穂子の声は、確かにお世辞にも明るいとは言えない。気を付けなきゃ、と香穂子は内心気を引き締める。
「月森くんは、どうしたの? こんなに遅くに」
日付が変わる前、香穂子から他愛無い話題で電話をかけることは多い。だが、変なところで常識的な月森は、夜十時以降になると、よっぽど急ぎの用件でもない限り、滅多に電話をかけてこない。それが分かっていたから、正直香穂子もこの時間帯にかかってきたこの電話が、月森からだとは思わないまま電話に出てしまったのだ。
「いや。……用事が早めに済んだから、明日は会えそうだ。もし君の都合がよければ、どこかに出かけないかと思って」
両親絡みの用事は、もしかしたら土日の二日間に渡るかもしれないと昨日の帰り際に月森は言っていた。だから、週末は2人で過ごすことの多い香穂子達は、この週末には約束を入れていなかった。
「あ、うん。大丈夫。どこに……きゃあっ!」
不意に窓の外で響いた落雷の音に、思わず香穂子は悲鳴を上げた。しまったと片手で口元を覆った時にはもう遅くて、電話の向こうで月森が怪訝そうにするのが分かる。
「……香穂子? 大丈夫か? 何かあったのか?」
焦った様子で電話の向こうで月森が尋ねる。大丈夫だと答えようとして、香穂子は再び窓の外で響いた轟音に、情けなく悲鳴を上げた。……今度は、受話器越しの月森にも状況が伝わったようだ。
「……雷か?」
「あ、……えっと……」
誤魔化そうと試みたが、上手く言葉が出てこない。今更大丈夫だと言うのもしらじらしい気がして、香穂子は諦めて白状した。
「あの、私、昔から苦手で……」
「家の人は?」
……来た、と香穂子は内心呟く。話の行き先は読めていた。
「い……いない……」
「……一人が怖いなら、俺が今からそちらに……」
「そ、それは駄目!」
予想通りの月森の言葉に、香穂子が大声で反発する。受話器越しに、月森の困惑が伝わってくる。
「どうして? うちも家族はいつも通りに出かけている。出かけても問題はない。俺は雷というものは別に不得意ではないし、こういう時に君が一人でいる方が、余程精神的に悪い。だから……」
「だから、そういうのが駄目なんだよ。……私にとって!」
もどかしさで、涙が出る。
……自分の弱さが腹立たしくて、香穂子は立てた両膝の間に顔を埋めた。
月森は優しい。
もちろんそれは、無条件の、何もかもを許す優しさなどではなくて。
厳しくあるべきところでは厳しく。
そして、優しくして欲しいと香穂子が願う時に、それは願うままのパーセンテージで香穂子に与えられる。
絶妙の優しさ。
だから、香穂子は月森に甘えてしまう。
きっと、彼は自分に出逢うまでは、そんな気苦労をしなくてもよかった。
彼は彼自身のことと、彼の奏でるヴァイオリンの事だけを考えていればよかった。
たとえ、彼がそんなふうに彼にのしかかる香穂子の重さを許してくれるのだとしても。
香穂子という存在は、やはりそんなふうに、月森に余計な負担をかけてしまう。
そうしたくないのに。
負担になんてなりたくないのに。
優しい彼は許してしまう。そんな弱い香穂子のことを。
そうして許されるたびに、香穂子は更に弱くなっていく。
弱くなって、増々月森の重荷になっていくのだ。
「……香穂子」
両膝に埋めた視界。暗がりのまま。
外を白く染め変える光も、今の香穂子には届かない。ただ、重苦しい低い音だけが香穂子の不安を掻き立てる。
「……香穂子、俺は。……今まで誰にも頼られることはなかった。……頼れる人もいなかった。自分で自分のことを支えることで精一杯で、他に何も出来ないと思い込んでいた」
月森の優しい声が耳元で響いている。その落ち着いた声音に、一瞬波立った香穂子の心が、徐々に、ゆるゆると凪いでいくのが分かる。
「だが、君が俺のことを頼ってくれるようになって。……俺の何かを君に預けられるようになって。俺は自分が精一杯だと思っていた自分の力が、まだあることに気が付いた。……君の甘えを受け止められるだけの強さだ」
そして、自分の我侭を曝け出す勇気。
相手が香穂子でなければ敬遠される。そんな弱さも甘えも、決して他の誰にも見せられない。
それはきっと、生きていく上では本当にささやかな強さと、勇気でしかないのだろうけど。
「俺は、君に甘えてもらえることが嬉しい。……他の誰も、俺に甘えてはくれなかったし、甘えさせてもくれなかった。……おそらくは、その甘えを許せる許容量も、俺にはなかったんだろうが……」
それでも、香穂子の我侭を許せるくらいの心の深さは、自分にだってあるだろう。
……普段、滅多に甘えるということをしない香穂子の、些細な我侭なのだから。
「言っていいんだ、香穂子。俺はそれを迷惑だとは思わない。君がそうして弱い部分を曝け出せるのは俺だけだと知っているから。……ただ、そんな小さな我侭でも、俺に言ってくれるのなら、死にそうなくらい嬉しいと思うだけだ」
両膝に顔を埋めたまま、香穂子は声を殺して泣く。そうしても殺せなかった嗚咽が、微かに回線を通じて月森の耳にも届く。
「香穂子、言って。……俺に、何をして欲しい?」
例えば、それがどんなささやかな願いで。
どんなに、意味のない甘えでも。
「……側にいて」
振り絞るような微かな声で、香穂子が呟いた。
「一人が、怖い……だから、側にいて、月森くん」
それは、口にするのも憚られるくらいの。
子供じみた、小さな、そしてどうしようもなく我侭な願いなのだけれど。
それでも叶えようとするだろう貴方を、知っているからこそ。
言えなかった。
「15分で着く。呼び鈴を押したら、直ぐに出迎えられるように、出来れば玄関の近くにいてくれないか」
「……うん」
「……ありがとう、香穂子」
「え……?」
突然月森が告げた礼の言葉に、香穂子は涙の痕が残ったままの頬を拭うことも忘れて、呆然と答える。まだ繋がったままの電話の向こうで、月森が微かに笑う気配がした。
「俺に甘えてくれて、ありがとう」
そして、柔らかな低い残響の余韻を残す携帯は、呆気無く切れた。
一人きりの、とても怖くて寂しい夜に。
側にいて欲しい、たった一人の誰か。
願うことは、贅沢だけれど。
子供じみた我侭だと知っているけれど。
それでも、『その人物』に選ばれることは、何か幸福な意味を持つのだろうか。
きっと、懸命に走って、香穂子の元ヘと辿り着くであろう月森に問えば、その答えは返ってくるのだろうか。
「側にいて欲しい」という、振り回すだけの我侭が。
何気ない願いが。
何か、月森にとってプラスの要因をもたらすことが、あるのだろうか。
……そんな難しいこと、本当は、分からないけれど。
ただ少しだけ、この夜を始めた時よりも恐怖が払拭された雷鳴の夜に。
玄関の見える階段に、タオルケットを被ったまま座り込んで。
香穂子は待っている。
こんな弱い自分のために、雷雨の中を走ってやってくる。
そんな愛おしい存在を。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.6.27】
ベタといえばとってもベタな展開なのに、これまでこの手のネタをこれっぽっちも思い付かなかった。というのも、渡瀬が外が光ろうがゴロゴロいってようが、お構いなしに寝ちゃえるヒトだからだよね!
こういう時に「怖い」って言っちゃえると可愛いんだろうな……とか思ってて、こんな話になりました。おかしいな、最初は甘々になるよね?とか思いながら書いてたはずなのに……
続編がありますが、年齢制限物になります。現在新しいアドレス請求は受け付けておりません。


