突然香穂子が大声を上げてがばっとベッドの上に身を起こす。
隣で眠っていた月森が、ふと目を覚ます。まだはっきりしない意識のまま、視線だけを香穂子の方へ向けると、ごそごそとベッドを這い出した香穂子が、ちょっと借りるねと言いおいて月森のシャツを羽織り、自分の荷物の側にしゃがみ込む。
「……香穂子?」
怪訝そうに月森が名を呼ぶ。香穂子はしゃがみ込んで、自分の荷物の中から引っ張りだした携帯電話を見つめている。しばらく携帯をいじった後、香穂子はくるりと月森を振り返る。その頬が、色味をなくして青白くなっていて、月森は驚いて一気に意識が鮮明になった。
「香穂子、いったいどうし」
「ごめん、月森くん……」
半ば呆然とした香穂子が「夕べ、家に連絡入れてなかった」と呟く。
一瞬、意味が分からなくて。
その後に、香穂子の伝えた言葉の意味を理解して。
……月森もまた、頭から血の気が引いていくのを感じた。
「本当に月森くんは、気にしなくていいんだよ。……私がうっかりしてただけなんだから」
目が覚めたのは夜明け前。今更バタバタしても無駄だから、と半ば諦め状態になった香穂子の意見を受け入れて、シャワーを浴びて朝食をとって、最低限の身支度を整えて、昼よりは早い時間帯に月森と香穂子は香穂子の家へと向かっていた。
「いいんだ。きちんと君を送り届けないと、俺の気が済まないだけだ」
香穂子の家はどちらかと言えば放任主義ではあるが、それでも大事な娘が連絡もなしに一晩帰らなかったら、心配して大騒ぎするくらいの家族の干渉はある。姉には友達に誕生日パーティを開いてもらう事は伝えていたが、さすがに外泊するとは思っていないだろう。
現に携帯の着信を見れば、自宅の固定電話の着歴が、日付が変わった後の数時間、数十分おきに記録されていた。今から電話をして、友達の家に泊めてもらったんだと嘘を付く事は簡単だが、香穂子は何だか電話をかける勇気もない。
家族のことも、まだその家族に依存しなければ生活が成り立たない自分の立場も忘れ、目の前の恋人を選びとったのは、香穂子自身の咎だ。あの瞬間の自分の選択を後悔する事はないけれど、罪悪感を全く持たないわけでもない。
とにかく、何も言わずにひたすらに怒られようと覚悟して、帰宅する旨を伝えた香穂子に、月森は意外な言葉を告げた。
「……俺も行こう」
「え、あの、でも!」
戸惑って月森を見上げると、月森は少しだけ困ったような顔で笑う。
「後先を考えずに、君を泊まらせたのは俺にもそれなりに責任があるわけだから」
それで香穂子が叱られるというのなら、月森も共に責められるべきだ。
「でも、逆に月森くんがいなければ、それなりの嘘で誤魔化せるから……」
「……嘘?」
月森が意外な言葉を聞いたというように、片眉を上げてちらりと香穂子に視線を向ける。
「……君が、面と向かって誰かに嘘がつけるのか?」
「う」
電話口では何とかなったとしても、素通しの表情や反応から嘘を付く事が出来ない香穂子は、思わず言葉に詰まる。幼い頃から一緒に暮らして来た家族相手なら、嘘が丸分かりになるのは尚更のことだ。
「……一緒に謝らせてくれないか」
溜息混じりに、月森はぽつりと呟く。香穂子が驚いて顔を上げた。
「その……君を欲しがった俺にも責任を負う義務が、あると……思う。だから、君一人で抱えないでくれないか」
昨日、香穂子が言ってくれたように、月森も。
どんな形であっても、昨日の彼女の選択を。
彼女に、後悔して欲しくはないから。
そういう気持ちから出た月森の申し出を、香穂子はまじまじと月森の顔を見て、その表情にこれっぽっちの揺らぎがない事を確認して。
気持ちを変えるつもりのない時の月森の頑固さをそれなりに分かっているから、渋々了承せざるをえなかった。
「……あ!」
どうしても、家に近付くと自然と足取りが重くなる。
歩調が遅くなった香穂子を気遣って、月森が彼女を振り返った時、不意に頭上から大声が降って来た。
月森と香穂子が顔を上げると、見慣れた香穂子の家の二階のベランダで、指先に煙草を挟んだ青年が「あ」の形に口を開いて、香穂子を指差していた。
そして、突然その青年は身を翻し、どたどたと騒音を立てながら家の中に入っていく。もう一度月森が香穂子に視線を戻すと、彼女の顔はまた色をなくしていた。
「香穂子、あの人は?」
留学前に、何度か香穂子の家族とは顔を合わせた事はあるが、今の青年は月森が初めて見る顔だった。
「……お」
おにいちゃん、と答えた香穂子の細い声に被さるように、香穂子の家のドアが背後でばんっと勢いよく開いた。
「……お兄さん?」
そういえば、会った事がないが、香穂子には関西の方の大学に行っている兄がいた。それを月森が思い出していると、門扉をがしゃんと音を立てて開いた香穂子の兄が、立ち止まったままの二人に向かって走って来る。
「てめえ、よくも人の妹を……!」
「お兄ちゃん、駄目!」
勢いのまま月森の襟元に手を伸ばし、殴り掛かろうとした兄と月森との間に、反射的に香穂子が割って入る。月森が後ろから庇うように自分の肩を掴むのが分かったが、おそらく兄の拳の方が早い。そう思って、香穂子は強く目を閉じて、痛みに耐える準備をする。だが、思っていた衝撃は来なくて、その代わりに。
ふに、とした感触が香穂子の鼻先を摘んだ。
「……ふえ?」
思わず間抜けな声を漏らしながら香穂子が目を開けると、視界一杯に緑色のカエルがいて、真っ赤な口をぱっくりと開けて、両手で香穂子の鼻先を摘んでいた。
「あーんぱーんち!」
気の抜ける一言と共に、そのカエルがぴんっと香穂子の鼻を弾く。あいた、と呟いた香穂子が、片手で自分の鼻を押さえた。
「……お兄ちゃん、それ」
何?と尋ねると、何故か腰に手を当てて胸を張った香穂子の兄・穂貴は、うごうごと右手のカエルを動かした。
「これか? パペットさんだ。名前は俺の名前をもじって「タカ」さんだ」
可愛かろう、と穂貴は御満悦だ。思わず香穂子は自分の置かれている立場を忘れて頭を抱える。
「いや、そーじゃなくて……」
「診察嫌がる子どもに人気だぞ。ちなみに、作成者&名付け親は俺のカノジョだが」
余談だが、香穂子の兄は関西の大学で、小児科医になるために勉強中だ。
「香穂子、大丈夫か?」
肩を掴んだ手に力がこもる。香穂子は肩越しに月森を振り返り、うん、と頷いた。
はあ、と月森が重い安堵の溜息を付いた。
「どこぞの熱血教師でもあるまいし、別に本当に殴りゃしねえけど」
ぽつりと呟いた穂貴は、月森の方に視線を向けた。
思わず緊張して背筋を伸ばす月森に、香穂子に似た柔和な笑顔を浮かべた穂貴の顔の横で、緑色のカエルがぱくぱく口を動かした。
「悪いけど、君への追求は後。まずはうちの愚妹の方からね」
「あの、ですが」
「ここで順番は変えらんない。君に言う事がないわけじゃないけど、香穂に言う事と君に言う事は違うからちゃんと待って」
反論しようとした月森が、あまりにもきっぱりとした彼の物言いに、何も言えずに黙り込む。ちらりとそれに笑って、穂貴は香穂子を見つめた。
「……俺の言いたい事、分かってるな?」
「……うん」
神妙に香穂子が頷く。穂貴が一つ、大きな溜息を付いた。
「……俺も、お前に威張れるような清く正しい生活してるわけじゃないから、お前のレンアイ事をどうこう言う気はねえよ。むしろ、俺は多分お前らの方の気持ちの方が理解出来るし。だけどな、だからこそ余計に、親父やおふくろを不安にさせるような真似すんな」
怒るでも、責めるでもなく。
むしろ、どこか淡々とした口調で穂貴は香穂子に言い聞かせる。俯いたままの香穂子が小さく頷いた。
「お前がやってる事全て、親父やおふくろに知らせる必要はねえ。だけど、自分の責任で好き勝手する分、親父たちが心配しない程度の外側は繕っとけ。それが、子どもとしてのマナーだろ?」
もう一度、こくんと香穂子が頷いた。小さく笑った穂貴がカエルの右手でぽんぽん、と香穂子の頭を軽く叩いた。
「……姉貴が帰って来たら、礼言っとけよ」
「……え?」
「日付が変わってもお前から連絡ないし、連絡を取ろうにも携帯は通じないしで、『捜索願い出す』って言い出した親父たちを、『どうせ友達と遊んで連絡するの忘れてるんでしょ。いつもの天羽ちゃんって子が一緒のはずだから大丈夫』って止めてくれたの、姉貴だぞ。おかげで安心した親父たちは、今日も相変わらずの温泉三昧だ」
はあ、と溜息を付く穂貴の口元をカエルが隠す。「あ……そ、そうなんだ……」と安堵した香穂子がその場に座り込みそうになった。
「……さて」
香穂子の様子を眺めつつ、穂貴は今度は月森の方に視線を向ける。月森がきゅっと唇を引き結んだ。……どんな罵倒にも、きちんとした応対ができるように。
だが、次に穂貴がとった行動は、月森にとってひどく意外なものだった。
「うちの愚妹がどうも御迷惑おかけしました」
ぺこんと穂貴が頭を下げるのと同時に、右手のカエルが深々と頭を下げる。予想外の反応に、月森は思わず一歩後ずさってしまう。
「いえ。あの……お詫びをするのは俺……いや、僕の方です。こちらの我侭で香穂子さんを引き止めてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
丁寧に言葉を選んで、月森がまた深々と綺麗に頭を下げる。身を起こした穂貴が笑って、カエルの両手で香穂子の頬をえいやと引っ張った。
「いーのいーの。意思表示出来ないお子様じゃないんだから、香穂がそれでいいっつったんなら、こいつの行動の責任は、こいつが取るべき」
「いひゃい、いひゃい、おにひひゃん」
ぱ、とカエルの両手が香穂子の頬を解放すると、赤くなった頬を不満げに香穂子が掌でさすった。
「……俺も、男だからさ。君の気持ちが分からんわけじゃないのよ。自分を君の立場に置いてみた時に、いちいちカノジョの家族のことまで考えるかって聞かれたら、多分そこまで考えてないし」
自嘲的に笑みながら、穂貴は自分の足元の地面を見つめている。
その寂しげな笑顔には、やはり香穂子の面影が宿る。
「でもね。やっぱりそこで対応を間違えて、付き合いを認められないってカノジョの家族に思われちまったら、本末転倒で不本意なわけだよ。……だから、そういうとこだけ、君は気にしてやって」
「……はい」
月森が神妙に頷く。うん、と穂貴が頷き返した。
「そんな感じで、愚妹は迷惑のかけ通しだと思いますが、今後ともよろしくお願いします。……ええと?」
もう一度ぺこりと頭を下げた穂貴は、伺うように上目遣いで低い位置から月森の顔を覗き込む。
戸惑いながら、意図に気付く月森が、口を開いた。
「……月森、蓮です」
「月森くん、ね」
覚えておくよ、と。
身を起こした穂貴がにっこりと笑った。
「……なんで、月森くんを責めなかったの?」
家路につく月森の背中を玄関先で並んで見送りながら、香穂子がぽつりと呟く。カエルの片手を振って見送っていた穂貴は、斜めに低い位置にある妹の頭を見つめた。
……少なくとも、月森に殴り掛かろうとした穂貴には、確かな怒りがあったと香穂子には思えた。もちろん、腑甲斐無い香穂子に対しての怒りもあったのかもしれないが、それならそれで、初めから穂貴は香穂子を叩いたはずなのだ。
「うーん。……信用出来るやつだなあと思ったから?」
「……え?」
空を睨み、カエルの頭で顎を押さえる穂貴の言葉に、意外な言葉を聞いたという反応で香穂子が声を上げた。
「俺が殴ろうとした時、お前が反射的に月森くん庇ったろ? それで、お前が身を呈する程の価値を月森くんに見い出してるんだなってのはすぐに分かったし……」
そして。
「そんであの月森くんは、お前が出しゃばらなかったら、甘んじて俺の鉄拳を受ける覚悟だったわけだ」
あの瞬間、自分と穂貴の間に入り込んだ香穂子を、月森は咄嗟に肩を掴んで、自分の背に庇おうとしたのだ。きっと、両目を閉じていた香穂子はそこまで気付いていなかったのだろうが。
「まあ、あれだ。だいたい、馬鹿正直に朝帰りの彼女について来るヤツが普通いるかあ?」
呆れたように穂貴が笑う。
家族に見つかれば咎められると分かっていて。
それでいて、敢えて逃げようとしない誠実さを持つ人物。
そんな稀少なものを持つ人間を、自分の相手に選んだ香穂子は。
「見る目あるな、お前」
くしゃりとカエルの両手が香穂子の髪をかき回した。
ぐしゃぐしゃの髪で、きょとんと穂貴を見上げた香穂子が。
穂貴の言葉に、嬉しそうに破顔した。
「んでも、香穂をくれてやるにはまだまだだけどなあ」
家に入りかけた穂貴が、思い付いたようにぽつりと呟く。上手く聞き取れなかった香穂子が、「何?」と振り返るが、「何でもね」と穂貴は苦笑いで濁した。
信用出来る男だとは思う。
普通なら、逃げ出したくなるような状況を、わざわざ咎められるためにやってきた、その誠実さ。
香穂子が全面的に想いを寄せている事も見て取れたから、この二人の付き合いを反対するような気は、穂貴にも毛頭ない。
だが。
(任せるには、俺に『信頼』させてくれないとね?)
ただ、信じるだけじゃなくて。
頼って、そして香穂子という存在を預けて。
それで潰れてしまわない男だという事が確認出来なければ。
(まあ、それも時間の問題かもしれないけどさ)
まだ会ったばかりで。
『信頼』できるかどうかは判断出来ないにしても。
それでも。
どんな局面にあっても。
どんな立場におかれても。
『月森蓮』という人物が、香穂子に起こった出来事の責任を全部負うつもりで、彼女の家族の目の前に立つ勇気を持てる人間であるならば。
(きっと、アイツは香穂を裏切らない)
それを『信用』できる程度には。
穂貴の中で、あの馬鹿正直な青年は。
好ましい存在に思えたのだ。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.5.3】
このシリーズも一応これで完結です。
この話に出て来るお兄ちゃんは、もちろん「兄弟」とか「約束」に出て来たお兄ちゃんなんですが、オフライン本の「キラキラの街」をベースとしている流れと「解く、繋ぐ」をベースにしている流れがありまして、「兄弟」とかの方は「キラキラ~」を、こちらは「解く~」をベースにしているため、このお兄ちゃんはここで初めて月森と御対面です。ついでに、当サイト設定という事で、名前と背景の方もちょっと設定を詳しくしてみました。ここまで決めちゃうと書きやすい。


