陰と陽、黒と白、善と悪……どちらがどう、というものではなく、どちらも同等に存在しなければ成り立たないもの。
……そんな哲学的なことを追求したいわけではないが、自分がここにしか進めないと自覚している道の上にも、管轄外の事柄があちらこちらに散らばっているのだという事を、実感せざるを得ない。
要は、自分の実力を測りたいと臨んだ事に対しての、自分が意図しない外野からの反応というものだ。
練習室の無機質なドアが等間隔に並ぶ廊下に一歩足を踏み込んで、月森は大きな溜息をつく。昼に予約を確認したら、この時間は空いている部屋がない。知り合いと呼べる人物の名前も見つけられなかったから、月森が逃げ込んだところで匿ってくれるような場はないということだ。
放課後、一人異質な制服である事をものともせず、音楽科校舎に踏み込んで、「やっほー、月森くん。取材いいかな?」とアポイントメントもなしに月森の教室に突撃して来たのは、例のごとく報道部の天羽だ。先日開かれた学外のコンクールで優勝した月森への、インタビューを取りたいという。
月森はあからさまに不快な表情を作る。だが、学内コンクールの取材攻勢で、いい加減取りつく島のない月森の反応に慣れてしまったらしい天羽は、そんな月森の不機嫌さをものともしない。
「そうだなあ……、コンクール全体の印象と、演奏の自己評価、後は今後の抱負なんか聞かせてもらえるといいかな。……あっと、月森くん、ちょっと待ってね。……すみませ~ん! まだ帰らないで! ちょっとお時間よろしいですか~?」
手帳とペンをそれぞれの手に持ち、取材の準備は万端、と身構えた天羽は、月森の背後に帰宅しようとする別のターゲットの存在を確認して、慌ててそちらの方に意識を向けた。足留めに成功したのだから勝手知ったる月森への取材はとりあえず後回しでいいと判断したのだろうが、その隙を見逃すほど月森もお人好しではない。
机の上に準備していたヴァイオリンケースと荷物を持ち上げ、月森は足早に教室を後にする。「あ、こら、ちょっと!」と焦って月森を呼び止める天羽の声が背後に聞こえたが、別の人物への取材を開始した天羽は成す術がない。「後で絶対捕まえるからね!」という不吉な叫びを背後に受けつつ、月森はとにかくその場を早々に立ち去った。
(しかし、まさか本当に捕まえに来るとは……)
さすがに休息も取らず、早足で天羽の追跡から逃れ続けていると、きっちりとタイを絞めた襟元が息苦しく感じて、月森は襟元に指先を差し入れ、ほんの少しの隙間からシャツの中に風を通す。
練習室の予約が取れなかったので、森の広場で練習をしていると、きょろきょろと辺りを見渡しつつ森の広場を歩く天羽が、自分を探しに来たのだと分かった。幸い、森の広場の広大な面積と、放課後をのんびりと過ごす衆人の量に助けられたが、月森自身が学内コンクールの所為で周知の存在だから、天羽の行動力を持ってすれば、生徒達の目撃情報を元に、すぐに見つかってしまうだろう。
ヴァイオリンがある以上、全力では逃げ切れないことは分かっているので、月森はもう校内で練習する事を諦めて帰宅しようと正門前に向かったのだが、こちらは報道部の一年生が天羽への連絡用の携帯片手に月森を待っていた。そうまでして取材しなければいけない事柄だろうかと半ば呆れつつ、それでも月森は往生際悪く校内を、報道部を避けて逃げ回った。そのうち諦めてくれればいいと願っているのだが、そのしつこさは天羽を筆頭に尋常ではない。
さてどうするかと、廊下で足を止めたところで、背後から聞き慣れた心地よい声が月森を呼んだ。
「月森くん?」
振り返ると、そこにはヴァイオリンケースを片手に握った香穂子が立っていた。反射的に緊張した月森が、ほっと小さく安堵の息をつく。
「どうしたの? ……何だか疲労困憊って感じだけど」
「……ああ、実は」
状況を説明しようとした月森は、ふと口を噤み、耳を澄ます。「後はもう、この辺りしかないよね」とこちらも聞き慣れた、あまり快くはない声が遠くに聞こえた。
月森は慌てて辺りを見回す。背後の階段の陰に、荷物が積み上げられた一角に何とか入り込めるスペースを見つけて、咄嗟に香穂子の手を掴んだ。
「え!?」
「説明する暇がない。こっちへ」
有無を言わさず香穂子を引っ張って、月森は香穂子の身体を荷物の間のスペースの奥へ押し込める。続けて自分も物陰に身を潜め、戸惑いながら自分を見上げる香穂子に、潜めた声で「静かに」と告げ、立てた人指し指で唇に触れてみせた。
やがて、ぱたぱたと軽い足音が近付いて来て、天羽が廊下に足を踏み入れる気配がした。
「……あれえ? この辺で声がしたと思ったのに」
(……何て地獄耳だ)
香穂子に向かって一言呟いただけなのに、それを逃さない天羽に、月森は心の中で似つかわしくない悪態をつく。
「……天羽ちゃん?」
狭い隙間に二人分の存在はさすがに窮屈で、身体のあちらこちらが否応なく触れる。若干中腰になる形で月森の胸元辺りに額を預けていた香穂子が、天羽の声を聴き取って、上目遣いに月森を見つめ、小声で尋ねた。月森が眉間に皺を寄せたまま頷くと、香穂子が苦笑した。
「……そっか、この間のコンクール、月森くんが優勝したから、インタビューしたいって言ってたもんね。私も取材出来るか聞いてみてって言われてたんだけど、絶対月森くんが嫌がるだろうなって……」
「香穂子……!」
香穂子の声はきちんと潜められていたのだが、先程の自分の呟きを漏れなく天羽に拾われていた月森は、焦る。慌てて香穂子の名を呼び、香穂子の腕をぐい、と引っ張って、自分の身に近付けた。近付いた耳元に、小さく囁く。
「……少し、黙って」
内緒話をするみたいな、吐息混じりの低い声。
その声の切羽詰まった響きが、香穂子の声を途切れさせる。
言葉は行き場をなくして、その唇の奥にそっと隠されたままなのに。
微かに聴こえる呼吸の音さえも、耳に甘い。
一度、そんなふうに意識してしまうと。
何だか、微かに触れ合う部分、全てが心臓になったみたいに、脈打つ。
「……こっちじゃないのかなあ? 絶対、こっちに来たと思ったのに」
「一応、練習室の中も確認させてもらったんですけど、匿ってるような感じはなかったですよ。もしかしたら、俺達が移動してる隙見て、帰っちゃったんじゃないですか?」
「うーん、絶対にない、とは言い切れないのが困ったところなんだけどね。……仕方ない、もう一度正門前で張ってみるか!」
天羽と後輩の声が、足音と共に遠ざかっていく。その靴音が完全に消えてしまうのを待って、月森がふと小さな安堵の溜息をついた。
「……行ったか」
物陰からほんの少し身を乗り出して、視線の先にもう誰も残ってはいない事を確認して、月森は香穂子を振り返る。
すまなかったと詫びようと、香穂子を見下ろして。
そして、月森は微かに息を呑む。
彼女の声を途切れさせたのは、月森の声。
伝える言葉の行き場をなくし、全てを唇の奥へ隠した香穂子は、予定外の至近距離に真っ赤に頬を染めて。
物言いたげに、上目遣いに月森を見る。
……その視線に心が揺れないほど。
月森も、大人じゃない。
……こんなことをするために、ここに隠れたわけでは決してないけれど。
それでも確かに。
今、心を伝えるのに必要なのは、言葉じゃなくて。
指先で香穂子の頬を支えて身を屈めた月森が、わずかに開いた唇で香穂子の唇に柔らかく触れる。
月森のジャケットの袖を指先で掴まえた香穂子が、辿々しくその口付に応える。何度か啄むように触れて、離れて。そして睫毛を震わせて潤んだ目を開く香穂子の目の中を、至近距離から覗き込む。
「……香穂子」
甘く、低く。
優しく、艶めいた声で。
微笑む月森が、香穂子の名前を呼んでくれるから。
何だか、もう。
言いたかった言葉も、頭の中から綺麗に消えてしまって。
香穂子が紡ぐはずだった声は、またお互いの唇の奥へと、密やかに隠されてしまうのだ。
「たまには、天羽さんに追いかけられる事も、悪くはない」
ぎりぎりまで校舎内で粘って、最終下校の鐘がなる頃、さすがに正門前に報道部の連中がいなくなった事を確認して、月森と香穂子は家路を辿る。
さっきまで疲労困憊だったくせにと、横目でちらりと月森を睨んでみても、全く効果はなくて。
嬉しそうに微笑んだ月森が、香穂子と繋いだ指先にほんの少しの力を込めた。
「あんなに、甘い御褒美が貰えるのなら」
甘いもの、嫌いじゃなかったっけ? とか。
貰った、と言うより、奪った、だよ。とか。
いろいろと、言ってやりたい事はあったのだけれど。
月森の柔らかな微笑みが嬉しくて。
少しだけ強く繋がれた指先は、心地よかったから。
「まあ、いいか」と香穂子も甘く、微笑み返す。
そうして、紡ぐべき言葉はまた行き場をなくし。
途切れたままの、香穂子の声。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.6.8】
珍しく砂吐く系の甘いものを書いた気がします。てか、私が「甘いの~」って意識して書くと、エロいのと紙一重?(真顔)
月森の声で、何てことないことを言われて振り回されてる香穂子が書ければいいなと思うんですが。
なんかもうちょっと月森にいろいろ喋らせればよかったなあ。


