定められた時間

月森→←日野
033→046 完結編

 告白というものをされたことは、初めてじゃない。
 だが、まともに会話もしたことがないような女性に、唐突に『好きだ』と言われても、その感情を無条件に信じることは出来なくて。
(俺の『何』を好きだと言うんだ?)
 月森は、相手のことを何も知らない。
 相手も、おそらくは本当の月森の事を知らない。
 それなのに、どうして『好き』という感情が、月森に対して芽生えると言うのだろう。
 だから、これまでは切り捨てて来た。
 ……とても、簡単に。無慈悲に。
 自分へと向けられる愛情から、目を反らしていられた。



「……月森、くん」
 腕の中で、華奢な身体が身じろぐ気配。細い声に、はっと月森は我に返る。……自分は一体、何をしているのだろう。
「哀れみなら……やめて」
 震える手で、香穂子の手が月森のジャケットの袖を掴む。引き剥がそうと動くが、力が入らなくて上手く行かない。
「……そんな理由じゃない」
 小さく首を横に振って、月森はそんな彼女の動きを制する。
 理由なんて、月森自身にも分からない。
 ただ、強く彼女の身体を抱き締めることしか出来なくて。
「じゃあ、どうして……」
 断切ってもらうための告白だ。
 自分自身ではどうにもならないから。
 ……このまま抱え続けていても、ただ育っていくだけだから。
 実るはずのない想いだから、彼の手で殺して欲しかった。それなのに。
「……分からない」
 もう一度、月森は首を横に振る。
 本当に、月森自身にも自分の行動の理由が分からないのだ。
「俺は、ただ。……君に、笑っていて欲しい」
 泣き顔が見たくなかった。
 彼女には、ずっとずっと、笑っていて欲しかった。
 泣いている彼女を抱き締めた理由は、それだけのことなのかもしれない。
 ……だが。
 それだけの理由では、ほんの少し、自分の本心から真実がずれているのだと、月森は気付く。

 彼女が、自分の事が好きだと。
 泣いて告げた瞬間に。
 心の奥底をよぎった、その感情は……。


(よかったね)
 留学のことを香穂子に知られた時。
 月森に内緒にされていたことを、最初は憤った彼女は、最後には笑って、そう祝福してくれた。
(月森くんくらい凄い人なら、そういう選択肢があるんだよね。……ずっと、応援してるから。留学しても、頑張って)
 認められて、励まされて。
 それが、彼女の偽りのない、心からの祝福だと分かっていたから、嬉しいと思った。それなのに。
 何故か、どこかが腑に落ちなくて。
(君はもう、それでいいのか?)
 彼女の目の前から、月森は遠くない未来にいなくなってしまうのに。
(君は、変わらずに笑っていられるのか?)
 たとえ、彼女がこれから生きていく人生の中に、月森の存在がなくなってしまったとしても。
 何も変わらず、彼女が当たり前に生きていけると言うのなら。
 それは、ひどく。
 ……寂しいことのように思えた。


 これまで月森が生きてきた日常の中心には、いつもヴァイオリンと音楽しかなくて。
 他の同年代の者達にとって当たり前の事を、自分はあまり知らないようだけれど、それでも不自由を感じることはなくて。
 今抱えているものだけで充分だった。
 それ以外のものは、必要だとも思えなかった。
 だから、知ろうともしていなかったのだ。

 ……恋心なんて、知らない。
 好きという感情が、どんなものなのか分からない。
 だが、あの時月森のことを好きだと泣いた香穂子を前に、この胸の中に沸き上がった感情が、『そう』ではないというのなら。
 もう一生、自分は恋など知らないまま、生きていくような気がする。

 彼女と過ごす、一日の中の定められた時間。
 きっと、ヴァイオリンと音楽の事しか話題のない自分との会話は、彼女にとってはとても狭くて、つまらないものだったろう。
 それなのに、彼女はいつだって。
 朗らかに笑って、月森の話を聞いてくれた。
 彼女の他愛無い話題に、上手く返せない月森の事も。
 それも月森くんらしいよね、と屈託なく笑って、気負うことなく傍にいてくれた。
 月森の背景にあるものにも何一つ頓着することなく。
 ヴァイオリンと音楽とを取り払ってしまえば、人間としては酷く不十分な月森の事を、彼女はおそらく、充分に認めてくれていた。
(だから、君の存在そのものが、とても心地いいものだったんだ)
 どんなに不器用な月森の事も、ただ、笑って受け止めて。
 構えることなく、自然に月森の傍にいてくれた。


 恋心なんて知らない。
 好きだという気持ちが、どんなものかなんて、やはり今でもよく分からない。
 だが、彼女に抱くこの切ない想いが、恋と呼べるものではないと言うのなら。
 月森はもう、一生恋なんて知らなくていい。


「……君が、好きだ」
 自分自身に戸惑いを感じながらも、月森はそう告げる。
 腕の中で、香穂子の身体が緊張する気配。
 言葉にしたら、最後のパズルのピースを嵌め込むみたいに、心の位置が、正しい有るべき場所に辿り着いたことを知った。
 ……そうなんだ。
 ずっと、ずっと。
 月森は、彼女の事が、好きだった。

 離れることを告げることが出来なかったのも。
 彼女のささやかな一挙一動に、何度も心が揺らされたのも。
 全て、彼女に抱く愛おしさ故。


「……でも、すぐに」
 離れ離れになっちゃうよ、と。
 涙声の香穂子が告げる。
「そうだな。……すまない」
「……謝らないで。月森くんは、悪くないんだから……」
 握った拳でごしごし、と瞼の上を拭って、香穂子が月森の腕の中で身を起こす。今度は、月森もそれを咎めない。至近距離で、お互いの顔を見つめ合った。
「……一緒にいられる時間、あまり、ないね」
「だが、離れる前にきちんと自分の気持ちに気付けた。……君のおかげで」
 離れるまでの間、残された時間は、もう定められている。……だけど。
 もう、胸の奥に息づく甘い想いに気付いてしまったのだから。
 新しい一歩が踏み出せる。

「……一緒に悩もう。これから俺達は、どうすれば一番いいのかを」

 微笑んで告げた月森の言葉に。
 香穂子は、今日断切られるはずだった自分の想いが、息づく道が残されていることに気付く。

(離れたら、そこで終わりなんて、どうして思えたんだろう)
 例え一度実っても、距離を置くことで関係が壊れてしまうと錯覚したのは、離れることが辛いからだ。
 逢いたい時に逢えない。声が聴けない。その寂しさが、辛いと思うから。
 だけど。
(その辛さを、呑み込めたら)
 全てを自分の一部にして、抱えて生きていくことができるなら。
 想いは、きっと生き続ける。
(だって17年間、月森くんに出逢わずに生きて来れたんだよ)
 こんなに好きだと想える人に出逢うまで、長い長い時間をかけた。
 そして、香穂子が次に月森に出逢う時まで、それほどの長い時間を待つ必要はないだろう。

「……うん。考えよう。一緒に」
 これから、どんなふうに二人の関係を作っていくのか。二人で、ちゃんと一緒に悩むのだ。
 それでも確かに、同じ想いがここにはあるのだから。
 きっとこの恋は、哀しいだけの結末にはならない。

 ようやく笑った香穂子に、安堵したように息を付いて。
 月森の片手が、そっと香穂子の頬に触れる。驚いて目を丸くした香穂子が、上目遣いに月森の顔を見上げた。
「月森くん?」
「……先程は、驚いてゆっくりと噛み締める余裕がなかった。もう一度、言ってくれないか? 君が、俺の事をどう想っているのか」
「ええっ」
 真っ赤になった香穂子が反射的に月森から離れようと腕を肩に置いて突っ張るが、意外にも強い月森の力に押さえられてびくともしない。うう、と悔しげに呻いた香穂子が、やがて諦めたように力を抜いた。
 目を閉じて、深く息を吸って、吐いて。
 一度目を開いたら、反らさない香穂子の視線は、真直ぐに月森を見つめた。

「……月森くんが、大好き」

 一言一言を、確かめるように告げた香穂子に、嬉しそうに月森は破顔して。
 ヴァイオリンの弦に鍛えられた硬い指先で、香穂子の頬を撫でた。

「……俺もだ」

 そして、長い睫毛を伏せた月森の顔が近付いて。
 香穂子の唇に、熱い月森の唇が触れた。

 本来、目を閉じるべきなのに、驚きのあまり逆に目を見開いてしまった香穂子は、思わずまじまじと月森の端正な顔を見つめた。
 唇を触れ合わせたまま、香穂子の視線に気付いたらしい月森がふと目を開き、その精悍な頬を朱に染める。慌てて唇と、香穂子の頬に触れていた手を離して、視線を反らし、掌で口元を覆った。

「す、すまない。君の意志も聞かずに……つい」
「それを聞かれても困りますから……!」

 つられて真っ赤になった香穂子が両手で熱くなった頬を押さえる。ようやく、激しい自分の痛いくらいの鼓動が耳元でうるさく鳴っているのに気付いた。

 それは、この想いに気付いた時の絶望的な痛みではなくて。
 とても幸せな。
 甘い、甘い恋の痛み。



(やっぱり、『行かないで』って言いたくなるかな)
 想いが届いて。
 幸せを感じれば、感じるだけ。
 どうしようもない我侭を、香穂子は彼にぶつけてしまうだろうか。
 離れ離れになる寂しさ故に、想うことを負担に感じてしまうだろうか。

 残された時はあとわずか。
 彼が旅立つまでの、定められた時間。
 この想いをどんなふうに育てるのか、最善の道なんて、まだ分からないけれど。

(一緒に悩もう)
 月森が言ってくれたように。
 香穂子だけじゃなくて。
 月森だけじゃなくて。
 同じ想いだから、一緒に悩んで。
 この想いを殺すのか、生かすのか。
 その先の道を選ぼう。

 それが、離れ離れになると知りながら、それでもお互いに惹かれずにはいられなかった、この恋の意味。
 終わるために始めた恋ではないはずだから。
 想いが生き延びる道を、二人で模索しよう。

 まだ、遅くはないはずだから。

 自分達に与えられた。
 残っている、定められた短い時間の中で。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.11.23】

月森め……!(アレ?)
ということで、甘々で完結です(笑)一応、この結論になる予定だったんですが月森に予想外の行動をされました……orz
前のお題に全部詰め込もうと思えば出来なくはなかったんですが、お題から完全に離れてしまうため二つに分けさせていただきました。切ないものを書こうが、基本はハッピーエンド推奨です。最後まで切ないものを求められた方には肩透かしで申し訳なかったです(^^;)

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