大切に仕舞い込む存在がある。
瞼を閉じればいつだって。
その裏に、浮かんでくるように。
最終セレクション、当日。
今日で、全てのことが終わってしまう。そんな気がしている。
学校生活は、今後も何事もなかったかのように平穏な日常に戻り。
コンクールに参加することで、発生したいろいろな煩わしさも、あっさりと跡形もなく消えてしまうのだろうけど。
それでも、今の月森には残しておきたいものがある。
……そうして、この先の未来へと繋げたいものが。
そのためには、どうしても。
しなければならないことがある。
「……あ」
支度を整えて控え室を出ると、いつの間にか聞き慣れてしまっている声が耳に届いた。その声の方角へ視線を向けてみると、同じように支度を終えて廊下へ出て来た日野香穂子と目が合った。
「月森くん、準備済んだんだ……」
「……ああ」
「……あの。これからちょっと時間取れないかな。話したいこと、あるんだけど……」
何故かほんのりと頬を赤く染めて、香穂子が月森を伺う。戸惑いながら、月森が首を横に振った。
「すまない。先生に呼ばれているんだ」
「あ、そっか。……そうだよね。セレクション前なんだもん。ごめん、気にしないで」
誘いを断ったのに、逆に香穂子はどこかホッとしたように笑って、片手を振る。その笑顔に微かな笑みを返し、月森が逆に口を開く。
「今は無理だが……よければ、セレクション終了後に、少し時間をもらえないか?」
意外な月森の申し出に、香穂子がきょとんとした表情で月森を見つめた。その真直ぐな視線に、見透かされてしまいそうな本心が恥ずかしくて、月森は自分の頬が熱くなるのを押さえられなかった。
「……話しておきたいことがある」
「え……、あ……うん」
月森につられるように照れた香穂子が、辿々しく頷いた。
「……じゃあ、また後で」
「うん。……あ、月森くん」
月森が背を向けると、思い出したように香穂子が月森の名を呼んだ。肩越しに振り返ると、香穂子が先程の戸惑いが嘘のように、明るい笑顔で再び片手を振った。
「頑張ろうね!最後のセレクション。月森くんの演奏、楽しみにしてるから」
「……ああ」
同じように片手を上げて、月森は今度こそ、教師の元に向かう為に背を向ける。しばらくそこに佇んでいた香穂子の気配が、軽やかな足音と共に遠ざかっていくのが分かった。
あの笑顔も。
心の奥の引き出しに、大切に、大切に仕舞い込む。
あの曲を、弾く為に。
ヴァイオリンを弾く為には、技術だけではいけないのだと、幼い頃から家族に言われて来た。
その言葉の意味が分からなくて、月森はこれまでずっと、ただ技術を磨くことだけを念頭に置いて、ヴァイオリンを弾いていた。
弾き続けてさえいれば、その意味は、おのずと分かってくるだろうと高をくくっていた。
だがここに至るまで、結局月森はその言葉の意味を理解することもなく、ただ技術を高め続けることだけしか出来なかった。
あの頃の家族の言葉の答えが、本当にこれなのかどうかは、分からない。
でも確かに、今の自分は技術ではない何かを糧に、このコンクールでヴァイオリンを奏でようとしている。
幾ら技術を磨いても。
幾ら音譜通りに弾きこなすことが出来るようになったとしても。
一向に、満足のいく演奏をすることが叶わなかった、あの曲を。
技術でも知識でもない、この心の奥の引き出しの中に収めたものが。
自分のヴァイオリンで、あの曲を歌わせることができる、その可能性を信じている。
あの少女に出逢うことで感じることが出来た、暖かな感情が。
誰かを想うことによって、生まれていく切なさが。
この胸に、収めることの出来なくなってしまった溢れるほどの想いが。
受け止めてくれる者がいなければ、どこにも行き場のない、誰かを愛おしむ心こそが。
これ以上にない演奏を生み出す可能性を。
その溢れる想いを、彼女へと届かせる奇跡を。
今はただ。純粋に、信じている。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.7.23】
ってことで、特別曲演奏時の月森です。
ビジュアルブックの中にある、「今ならあの曲を弾くことが許された気がする」という1文から、何となく派生。
努力家で技術屋で負けず嫌いの月森だから(←渡瀬の中の、演奏者・月森像)弾くことは元々出来たんじゃないかと勝手に思う。でも、何かが足りないと、弾くことを躊躇ってたみたいな。


