お気に入りの一冊

月森×日野

「……あれ?」
 月森に借りた楽譜をトートバッグの中から取り出し、曲目の確認をしているところで、香穂子はふと、バッグの中に楽譜ではない本が入っていることに気が付いた。手に取ってみれば、どちらかと言えば幅の薄いハードカバーの本だ。道理で数曲分の楽譜を借りただけのはずなのに、妙にバッグが重かったわけだ、と香穂子は苦笑しつつも納得する。
 月森が意外に読書好きというのは知っているが、実際のところ、香穂子は月森がどんなジャンルの本を読んでいるのかよく分かっていない。読書という点においては香穂子と月森の好みはまるで違うし(香穂子が主に読むのは恋愛小説の類なので、当然月森が読むはずがない)、下手すると月森は洋書を原語で読んでいることがあるため、彼が手にしている本がそもそも何の本なのか、香穂子は知らないからだ。将来のことを見越して多言語を身につけるのは自分にとって無駄な事じゃないから、という月森の言い分が分からないわけではないが、それを実践できる男子高校生は稀だと香穂子は常々思っている。
「また原書のやつかな。明日月森くんに返しておかなきゃ……」
 香穂子に貸すつもりの楽譜を入れたバッグに同封したということは、月森の身近に存在していた本なのだろう。もしかしたら、まだ読んでいる途中ということもある。早々に返却しようと、何気なく本を持ち上げてハードカバーの表表紙に目をやり、香穂子ははた、と手を止めた。
「……この人って」
 表紙はシンプルな色合いとデザインで、本のタイトルと著者名だけが印字されている。その著者名に見覚えがあった。最近テレビでよく見かけるようになった人気のヴァイオリニストの名前だった。
「え、ヴァイオリニストなのに本なんか書いてるの?」
 興味を引かれ、香穂子はぱらぱらと本を捲ってみる。
 読み始めから抵抗なく頭に入ってくる文章は、柔らかく分かりやすく、専門書や文学の類などではなく、このヴァイオリニストの半生を綴った自伝的な記録と音楽や自身の活動について本人の心情を記したエッセイが一纏めになったような本だった。
 何気なく開いた本に、やがて香穂子は夢中になる。
 元々、そこまで読書好きというわけではないが一度読み始めると止まらなくなるタイプではあるから、楽譜の確認は中断したまま、香穂子は結局真夜中までかかって、その本一冊を読破してしまったのである。
 
 
 
「そんなわけで、少し寝不足なの」
 翌朝、月森が香穂子を家まで迎えに行くと、どうにも腫れぼったい瞼で何度も欠伸をかみ殺しながら、香穂子が改めて小さな紙袋に入れ直した例の本を月森に返却した。
「あの……勝手に読んじゃってごめんね。楽譜を見るのに、ちょっと雰囲気違う本が入ってたから、何の本なのかなあって確認するだけのつもりだったんだけど」
「それは構わないが……」
 ハードカバーとしては薄いとはいえ、内容は写真も挿絵も一切ない、みっちり文字ばかりが並べられたそれなりの文章量のある本だ。いつもより夜更かしをしたとはいえ、読み切ってしまった香穂子の集中力に月森は内心舌を巻く。
 ヴァイオリンと出逢って数か月で、初心者から、音楽科の中でも選りすぐりの学内コンクール参加者たちとアンサンブルを組めるまでの目覚ましい成長を遂げた日野香穂子という人物の非凡さが、こんなところに見え隠れする。……最も、彼女が何よりも非凡であるのは音楽の妖精・ファータという謎の存在をあっさりと受け入れ、心を通わせてしまうその順応力の方なのだが。
「読み終えて机の上に置きっ放しにしていたから、楽譜と一緒にバッグの中に入れてしまっていたんだな。そのうち君に余裕があれば、貸そうかとは思っていたんだが」
 このヴァイオリニスト、君は好きだったろう?と月森が尋ねる。
 そういえば、と香穂子は思い出す。
 テレビでの露出が増えてきたこのヴァイオリニストは、いろんな番組等のテーマ曲の作曲も手がけていて、テレビや街角、店の中など、生活のあらゆるところでこのヴァイオリニストの音色を聴く機会があった。
 このヴァイオリニストの音、最近よく流れているな。
 クラシックとはまた違うものだけど、こういうヴァイオリンとの付き合い方もあるんだよね。この人の音、私は結構好きかな。
 他愛ない世間話として、何気なく告げた一言。
 何度も何度も繰り返して、熱を持って話した訳ではなく、香穂子が記憶する限り、たった一度だけ軽い気持ちで告げた言葉だ。
「……もしかして、この本。私がこのヴァイオリニストが好きだって言ったから、買ってみてくれた……?」
「さあ、どうだろう?」
 恐る恐る確認してみた香穂子に軽く笑い、月森は視線を伏せる。
「俺も、このヴァイオリニストは嫌いではないから」


 本に関して、基本月森は雑食だ。
 特に好きなジャンルがあるわけではなく、特定の作家を愛読する訳でもない。
 自分に必要だと思えば手を伸ばして取り込み、自分の糧にする。それは何となく、食事をする行為に似ている。
 このヴァイオリニストの本を書店で見かけたときも、ふと手に取ってみて、架空の物語ではない一人の演奏家、しかも同じヴァイオリンを弾く人間が辿った軌跡であるならば、何か自分のこれからの未来に役立つことがあるかもしれないと目を通してみただけだ。
 そして、本をさらりと読み進めていくうちに、以前に香穂子がこのヴァイオリニストを好きだと言っていたことを思い出した。
 香穂子はどちらかと言えば、本に関しては偏食だ。
 好きなものは貪欲に取り込むが、苦手意識を持ってしまったものに関しては食わず嫌いで激しい拒否反応を示す。
 残念なことに、大抵香穂子が拒否反応を起こすのは、月森が糧にしようと懸命に取り込んでいるものばかりだった。
 ……だから。
 
(俺が糧に出来るもので、君が糧に出来るものがあるのなら、それが俺にとって一つの大切なものになるのではないかと思ったんだ)
 
 ヴァイオリンと香穂子以外に執着するものを持たない月森が、堂々と大切だと言い切れる。
 『お気に入りの一冊』に。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:18.10.27】

以前、ここには違う話を入れていましたが、管理人の嗜好がモロに出てる話だったので、機会があれば差し替えようかと考えてました。ざっくりした話ですけど、ちゃんと差し替えられてほっと一息です。
とにかく更新することに重きを置いてた頃だったので、後から思い返すと色々まずい感じのものを置いてたなと思います(笑)

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