階下では、もう随分と夜も更けたというのに、明るい賑やかな笑い声が響いている。鷹揚で寛容な日野家の家族達は、唯一愛煙家には容赦がないのだ。
ささやかな酒宴の席で、いつもの癖で無意識に煙草の端を唇にくわえたら、母と姉と妹、姦しい女性3人から一斉に「外で吸って来い!」と部屋を追い出された。こんな寒空の下、外に追い出すとは家族愛の欠片もないのかと抗議はしてみたが、多勢に無勢、文句があるなら吸うなと一蹴された。かくして凍えるベランダで、瞬く星を見上げながら煙りをふかすという虚しい状況の出来上がり、だ。
片手で囲いを作って、風を避けながら火をつけていると、静かな足音が階段を上がってくる。おや、と訝しんでいると、少し躊躇うように足音が廊下で迷い、そして、数秒後にベランダへの硝子戸がある部屋へと踏み込んできた。
「……あの、灰皿を持っていくようにと言われたんですが」
「あらら、多少は気遣いってもんがあったのかね、あの女共にも」
にやりと笑い、日野家長男は、わざわざここまで小さな灰皿を運んでくれた人物の手からそれを受け取る。運んできたのは、『日野家』という分類には括られない人物。
……妹の香穂子の婚約者である、月森蓮という青年だ。
「ごめんね、いろいろと。親父の愚痴に付き合うのも大変っしょ」
月森の方に煙りが行かないように、煙草を持つ手を少しだけ彼から遠ざけて、香穂子の兄は苦笑する。入籍を間近に控え、既に新居で暮らし始めている月森と香穂子だが、たまの休みにはこうして日野家へと呼び出され、父親の酒の席に付き合わされることがある。かといって、香穂子の家族は家族ぐるみで酒に弱く、大抵は一人酔っぱらった香穂子の父の愚痴吐きに、どれだけ飲もうが一向に状態の変わる気配がない月森が付き合わされるというパターンだ。
最初のうちはかなり戸惑っているように見えた月森だが、こうも頻繁に付き合わされていては、さすがに慣れるのだろう。酔っぱらいのあしらいも、最近は上手くなってきたように思える。
「いえ……やはり、寂しいんだろうと思いますし……」
「確かにねえ。ああ見えて、香穂のこと可愛がってたからなあ」
視線を伏せて深く煙りを吸い込み、溜息混じりに吐く。
……放任主義ではありながら、末の娘である香穂子は、何だかんだ言いつつも家族全員に愛されて育ってきた。月森という青年が、その愛すべき妹の生涯の伴侶として、申し分ない人物であることは、日野家全員の認識ではある。……だが、そんな好条件であろうとも、娘を嫁に出す父親の心情が複雑なのは致し方ないことで。
愚痴の一つや二つ、その婚約者に吐いてみたくなるのもある種の道理だろう。
「……俺は、4年間香穂子を蔑ろにしてきた事実もありますし。そんな俺に香穂子を預けるのを不安がられるのも仕方がないことだと思います」
ぽつりと。
自嘲的な、物悲しい笑みを浮かべる月森を、香穂子の兄は「しょうがねえなあ」という思いで見つめる。
世界的なヴァイオリニストという立派な肩書きを持っているというのに、その内状は随分と不器用だ。
……だからこそ、世界が違うと思えるこの青年に対しての印象が、好意的なものになるのかもしれないけれど。
「馬鹿だなあ、蓮くん」
呆れたように笑って言う香穂子の兄を、月森の不安げな眼差が見つめ返す。
指先で短くなった煙草を弾き、月森が持ってきてくれた灰皿の上に灰を落とした。
「そんなわけないでしょ」
どういう経緯で、妹がそんな道を選んだのかを兄は知らない。
別に、幼い頃に学んだわけでもなく。
学校で、専門的に選択したわけでもなく。
だが、妹はいつの間にか、ヴァイオリンという楽器を手にしていた。
家族の誰も知らない場所で、知らないうちにそれを学び。
いつしかそれを、自分が生きるための道に選んでいた。
その道を選ぶために、妹がどんな葛藤を抱いたのか。どんな困難を乗り越えたのか。
そして、どんな思いを抱いたのか。
その全てを知ることは出来ない。
だが、その選択の陰には、きっとこの青年の姿があったのだろうと兄は思う。
遠い異国の地で、故郷の地に全てを置いて、そしてヴァイオリニストという称号を手にしたこの『月森蓮』という青年の。
……彼が留学をしていたという4年程の間、兄は妹の口から一度もこの青年の名を聞かなかった。
確かに香穂子は饒舌に何もかもを曝け出すタイプではないが、あれだけ不自然に話題から避けられていては、何かがあったのだと憶測することはできる。そんな人物のことを、不用意にこちらから話題にすることは出来なくて。
彼が帰国して、香穂子と彼が婚約を決めて。
そしてようやく、兄はその4年間の空白の事を香穂子から聞くことが出来た。
……離れてしまったのに、離れられなかった想い。
別れを告げても、告げられても。
その間、一度も逢うことがなくても、褪せなかった想い。
それほどまでに、香穂子が全身全霊で愛せる月森が。
……そして、同じように香穂子を全身全霊で愛せる月森が。
香穂子を不幸にするはずがない。
「なあ、蓮くん。初めて会った日に、俺が君に言った言葉覚えてる?」
灰皿に短くなった煙草を押し付けて、火を消した香穂子の兄が、ふと思い付いたように月森を見た。一瞬きょとんとした月森が、微苦笑した。
「……ええ」
(妹のことを、よろしくね)
「あの時は、最終的にこうなるなんて思ってなかったから、案外軽い気持ちだったんだけど。……もう一度、改めて」
月森の方へ向き直り、兄は軽く、頭を下げる。
「香穂子のことを、これからよろしくお願いします」
香穂子が生まれてから、23年間。
付きっきりで側にいたわけじゃない。何よりも大切にしていたというわけじゃない。
自分には自分だけの。
大切にしなければならない存在もあって。
生まれてから今まで、一緒にいた家族であったって、これから一生同じ道を歩いていくわけじゃない。
家族は家族で。変わらない絆であっても。
これから彼女の人生を、一緒に寄り添って生きていくのは、彼であって、自分ではない。
だから、全てを彼に託す。
今まで自分なりに大切にしてきたはずの、自分が彼女に対して果たさなければならない役割を。
香穂子の幸せを手助けする、そのささやかな役割を。
軽く頭を下げた、その上で、月森が困惑する気配が伝わってきた。
だが、少しの間を置いて。ゆっくりと息を吸い込んだ月森は。
静かな声ではっきりとこう答えるのだ。
「必ず、幸せにします。……約束します」
(約束なんて、軽々しくしちゃいけないのになあ)
月森のひねりのない真直ぐな返答を噛み締めながら、香穂子の兄は小さく笑う。
保証はないのだから。
どうすれば幸せになるのか。どうあれば幸せでいられるのか。
個人個人の価値観があって、本当にそれを反映出来るのか、分からなくて。
だけど、この月森という青年が。
きっと、香穂子が幸せになるための努力を。
自分の全てをかけて、これっぽっちの労力も惜しまずに振るってしまうということが分かるから。
……そういう人物だからこそ、こんなに明確な答えが返ってくるのだということが分かるから。
「見る目あるなあ、俺の妹」
「え?」
自分の言葉、戯れ言も交えた一言一言に。
生真面目に振り回される、新しい家族の『約束』を。
他の誰かが口にすれば、綺麗事のように思えてしまうかもしれない『約束』を。
……この青年の言葉だからこそ。
自分はきっと、心の底から信じていられるのだ。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:07.6.11】
「兄弟」というお題を書いた時に、香穂子兄がえらい好評だったので、どこかでまたこの二人のやり取りを書きたいと思ってました。
渡瀬はひとりっこなので、兄弟がいる感覚はあまり分かりませんが、つかず離れずで、更に愛情に満ちてたらいいな。そういう意味で、自分が書いている香穂子の兄姉は、渡瀬の理想なのかもです。


