「自分の部屋にこもりっきりなのよ。おそらくは、いつものようにヴァイオリンを弾いているんでしょうけど」
2階の月森の自室まで香穂子を案内しながら、月森の祖母は少しだけ困ったように首を傾げた。
「香穂子ちゃんとお友達になって、少しは丸くはなったのだけれど。なかなか頑さは和らいではくれないのよね」
「でも、月森くんはああ見えて、皆さんのこと大好きですよ」
家族に敬語を使う月森。その距離に、香穂子も初めは奇妙な違和感を持っていたが、月森はただ、尊敬する家族に必要以上の敬意を払っているだけだ。多忙な家族に甘えることもなく、ただ家族の偉大さに見合った対応を心掛けているだけで、家族への愛情は深い。
ただ、興味本位で家族の事を詮索されるのは意固地なまでに嫌う月森でも、何気ない家族の話題になれば、その表情は柔らかく、穏やかだから。
にっこりと笑ってそう言った香穂子に、月森の祖母が苦笑して、そうならいいんだけど、とぽつりと呟いた。
「後でお茶とお菓子を持っていくわね。ゆっくりしていって、香穂子ちゃん」
「ありがとうございます。どうぞお構いなく」
月森の自室のドアの前で、香穂子は階下に降りていく月森の祖母の背中を見送った。相変わらずなんだなあと部屋の中の人物に思いを馳せながら、軽くドアをノックした。
「……?」
返答がない。
訝しみながら、香穂子はドアノブに手をかけ、ゆっくりと開いてみる。開いた途端に溢れ出てくるはずの、生真面目なヴァイオリンの音色は聴こえなかった。
「……月森くん?」
小さな声で名前を呼びながら、香穂子は月森の部屋へ足を踏み入れる。
開け放たれた窓、カーテンを揺らす穏やかな風が入り込むそこには、月森の姿がない。
「あれえ?」
呆然としながら、香穂子は練習用に窓際に設置されているグランドピアノの近くへと歩み寄る。もしかしたら、休憩がてらベランダにいるのではないかと思い立って。
「……わっ!?」
数歩歩いたところで、香穂子は何かに蹴躓いて、思わずバランスを崩す。悲鳴を上げて、何とか踏み止まって。何か壊れ物にでも引っ掛かったのではないかと慌てて振り返ってみて、驚愕する。
そこには床に両脚を投げ出して、ベッドの脇にもたれてうたた寝している月森がいた。
愛用のヴァイオリンはきちんとベッドの上に。周りに楽譜が散乱しているところから見ても、練習中に休憩のつもりで無造作に絨毯の上に座り込み、楽譜を眺めているうちに寝入ってしまったというところだろうか。
「……びっくりした」
逸る胸を押さえて、小さく香穂子は安堵の息をつく。そのまま絨毯の上に膝をついて、四つん這いで月森の側に近寄ってみた。
「……月森くーん……?」
小さな声で呼びかけてみた。疲れているなら起こしたくはないが、すぐに目覚める程度の浅い眠りであるならば、今すぐに目を開けて、自分を見て欲しい。
「……眠っちゃってるの……?」
ぽつりと香穂子が呟いてみても、安らいだ月森の表情は動かない。規則正しい、柔らかな寝息だけが、近付いた香穂子の耳に届く。
「しょうがない、しばらく寝かしてあげるかな」
苦笑して香穂子が一人ごちる。月森の趣味で統一された本棚から、好きな本を取り出して月森の目覚めを待つのもいいけれど、どうせならこんな無防備な月森をじっくり観察してみたくて、香穂子は月森の側で、月森と同じようにベッドに背中を預けてみた。
ちらりと視線をやると、少しだけ俯き加減の月森の寝顔。
いつもの涼やかで強い眼差は伏せられていて、そこにあるのは年相応の、17歳のあどけなさ。
(可愛いっていうのは……駄目、かな?)
心臓がどきどきする。
いつもいつも月森の側にいて。
他の誰も知らない月森を、たくさん、たくさん知ってきたのに。
まだこの人は。
香穂子の知らない面を持っていて、時々それを見せて、香穂子を戸惑わせる。
(……変な気分)
あどけなく。
……そして、無防備な。
愛おしい、月森蓮という男の子。
かっこいいところとか、厳しいところとか。
真面目なところ、優しいところ、……可愛いところ。
たくさんたくさん、香穂子が愛すべき一面を持っている。
(どうしよう……駄目かな)
こんな気分になるのは、間違っているのかな。
ここは、月森が一番素直でいられる場所で。
決して香穂子が覗き見ていい場所なんかじゃないだろうけど。
……それでも、今ここに香穂子がいるということそのものが、誰にも見せない月森の一面を見ることを、許されていることの証明のようにも思えるから。
だから、こんなふうに。
誰よりも月森が好きだという気持ち。
形にしても、許してくれるだろうか。
香穂子はおそるおそる手を伸ばす。
指先を、ぴたりと月森の頬に当ててみる。
冷たくて、さらさらの。
心地よい頬。
その感触すらも、なんだか香穂子の胸をときめかせて。
好きだという気持ちが溢れてしまう。
起きないかなと、そればかりを不安に思いながら、香穂子がそっと月森に頬を寄せる。
起きないでと何度も心の中で繰り返し祈りながら。
香穂子は月森の整った唇に、小さな小さなキスをした。
「……ん? んんーっ!?」
一瞬後、香穂子は我に返る。
啄むように軽く口付けて、すぐに離れるはずだった香穂子の唇は、そのまま離れることはなくて。
突然髪の中に埋められた指先の強い力に押さえ付けられて、そこに留まったまま動けなくなった。
驚いて目を開くと、至近距離にあった月森の涼やかな眼差が、少しだけ笑いを含んで香穂子を見つめ返して。
そして、もう一度ゆっくりと閉じた。
「……っ、月森、く」
抗議を含んだ香穂子の声は再び遮られる。今度は確かな意志を持って香穂子に触れてきた月森の唇が、強引に香穂子の唇を開く。
深く香穂子の中に差し入れて、絡みとって混ぜ合わせる。
甘い口付けの行為に必死に抗っていた香穂子が、やがて月森の味に酔わされて、応じていく。
何度も繰り返して互いの息を乱しながら、触れて、離れて、もう一度離れ難く深く繋げて、酔っていく。
「……ずるい」
やがて、その感情の激流が治まる頃、甘さの余韻で瞳を潤ませた香穂子が、月森を睨んだ。
「寝たフリしてるなんて、聞いてない」
「……言ってないから」
こちらは全く悪びれることなく、月森が微笑む。
「いつだって、俺ばかりが君を欲しがるのも、フェアじゃない。たまには君が俺を欲しがることも、確かめてみたくなるんだ」
「欲しがる、なんて」
香穂子の頬に朱が差す。
香穂子としては、もっと軽い気持ちではあったのだが、月森の口から言われてみれば、結局のところそういう意味でしかないのかもしれない。
「そして。……これから、どうしようか?」
「え?」
まだ楽しげな笑顔のまま、月森が尋ねる。
「お望みならば、続きをしようか?」
涼しげな月森の眼差に、少しだけ真剣さと、どうしようもない甘味が混じる。その意味が、一番近くに繋がる行為だと分かって香穂子は真っ赤になる。
「だ、駄目だよ。防音だっていっても、今日は下にお祖母さん達がいるし……」
その時タイミング良く、こんこん、とノックの音がする。
思わず香穂子がびくりと身体を震わせると、月森が片手をベッドについて、立ち上がった。そのまますたすたとドアに歩み寄ると、ドアを開ける。
ドアの向こうにいたのは、トレイに2人分のお茶とケーキを乗せた、月森の祖母。
「香穂子ちゃんは、甘いものは平気だったわよね。いろんな方から蓮に、と頂くのだけれど、この子は全く食べないのよ」
よかったら、沢山食べていってねと微笑む月森の祖母に、香穂子は乱れたままの気持ちを押さえながら、笑って頷いた。
「じゃあ、蓮。私達は予定通りに出かけるけれど、夕方にはちゃんと香穂子ちゃんをお家まで送っていってあげてちょうだいね」
「はい。お祖母さんもお祖父さんも、お気を付けて」
じゃあまたね、と香穂子に向かって手を振った月森の祖母に、香穂子は笑顔のまま、片手を振り返す。
内心、待って下さいと叫びながら。
「……さて」
祖母から受け取ったトレイを片手に、後ろ手にドアを閉めながら、月森が部屋の中を振り返る。部屋の中心にいる香穂子のところで、ぴたりと視線を止めた。
「そういうことだ。……問題はなくなったはずだが、どうする?」
香穂子の側に戻ってきて、月森は床にトレイを置く。湯気の上がるティーカップから漂ってくる花の芳香に、何だか酔わされそうだ。
「どうするって……何で私に聞くの?」
「……さっき言った通りだ。いつもいつも、俺が欲しがるばかりでは、フェアじゃない」
一つの、賭けに近かった。
浅い微睡みの中、開いた窓から、玄関に辿り着いた香穂子の声は届いていて、彼女がすぐにこの場所に辿り着くことに気付いていた。
でも、もしこのまま自分が彼女の前で眠っていたら。
彼女が自分に何をしても許される状況に、彼女の身を置いてみたら。
彼女はどうするだろう。
……自分に触れようとしてくれるだろうか。
もし、自分が逆の立場であったなら。
きっと、触れられずにはいられないのと、同じように。
自分が、こんなことをするなんて、今まで思ってもみなかった。
彼女を試すような。
駆引きで、揺さぶるような。
そんな、恋愛ゲームのような真似を。
立ち上がったままの月森が、ぺたんと床に座り込んだままの香穂子を見下ろす。どこか呆然としたままで月森を見上げる香穂子がふと、くしゃりと顔を歪めた。
「どうして、そんなこと言うの……?」
「……香穂子」
「月森くんばっかりじゃないよ。私だって、本当は、同じなのに」
香穂子の思いがけない返答に、微かに月森が目を見開く。
「本当は、いつだって」
香穂子がゆっくりと言葉を刻む、濡れた唇が。
「月森くんが、欲しいのに」
まるで、薫り立つように。
性急に月森が片膝をついて。
香穂子の手首を掴んで、その唇に口付ける。
勢いに押されるように、二人して床の上に倒れ込みながら、香穂子が伸ばした掌で、ゆっくりと月森の背を撫でた。
覆い被さる身体の下で、開いていく香穂子を愛しながら。
彼女の甘さに酔う脳裏で、月森は想う。
ゲームを仕掛けても、その心を振り回しても。
優位に立ちたくて、強がってみても。
結局のところ、いつだって。
負けるのは、俺の方。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:07.2.18】
まず最初に謝っておきますね。ごめんなさい!(笑)
創作人気投票に御協力頂いた方からのリクエスト「高校生時代で付き合っている2人・糖度高め・ちょい攻め森」をお送り致しました。…どこが「ちょい攻め」やねんというツッコミはごもっとも…。
そこまで神経質になることはない程度かなと思いつつ、念のため注意書きを載せつつ、制限なしの展示にさせていただきました。


