穏やかな日々

月森×日野

 時々、自分はどこかが壊れているのではないかと思う。

 練習中は一度も見ることがない携帯のディスプレイを、帰宅後に眺めてみても、特に何か彼女から発信されたものを受信している気配がない。見る必要がない携帯を確認することは少し寂しい気もするけれど、彼女からの連絡がないのは、彼女も遠く離れた故郷の空の下で、彼女が実現したい夢を懸命に追っている証拠だから気にならないと言ったら、自分と同じ境遇にあるヴァイオリニストの卵達は、一様に不思議そうな顔をした。

 恋人を置いて来て。
 離れ離れになったままで。
 異なる時間の流れ、空気、大地で生きていて、何も不安にならないのかと皆は不思議がる。

 そうなのか、と思う。
 ……少し前までの自分は確かに、皆の言う通りにやはり不安がっていたと思う。
 彼女の気持ちは、今日は離れていないだろうか。
 今日も変わらずに、自分の事を想ってくれているだろうか。
 ……そんなことばかりが不安で。
 手紙が来ないのも、メールが来ないのも、携帯が鳴らないのも。
 彼女にとっての自分が、必要ではなくなってしまったからではないかと、乏しい表情の裏側で、いつだって怖がっていた。
 でも今は。
 彼女が、『約束』をくれたから。
 自分の帰りを、ずっと待ち続けていてくれると。
 不安がらず、怖がらず。彼女は彼女だけの、彼女らしい夢を追いながら、故郷の空の下で、いつになるかわからない自分の帰りを待っていてくれると。
 そう、約束してくれたから。

 それは、ただの口約束で。
 手の届かない場所にいる彼女が、どんなふうに生きているのかなんて、知りようがなくて。
 素直に信じて、君は馬鹿だなあと、周りは皆、嘲笑うけれど。
 他の誰に理解されなくても、自分達はそれでいいのだと。
 そんなふうに、今の月森は思っている。

(可笑しいだろうか)
 自分の中では、何か大事なものが壊れてしまっているのだろうか。
 だからこそ、他愛無い口約束を大事に大事に握り締めて。
 それを心の底から信じて。
 愚かだと人に蔑まれるような人間に成り下がってしまっているのだろうか。
 自分達をよくは知らない他人に、この関係を笑われるたびに。
 そんな不安が、少しだけ胸をよぎるけど。
 不思議なくらい、盲目に。
 月森は、香穂子を信じていられた。

 自分の中に、何があっても変わらない想いがあるからこそ。
 彼女の中に、同じ想いがあることを、信じられる。

 自分達は、離れ離れで。
 互いに目指すものは、同じようでいて、ほんの少し異なっていて。
 色恋沙汰に気を取られることが許されるような容易い道ではなく、その道を突き進むうちは、脳裏の片隅からさえも、その存在が消えてしまうことがある。
 それは薄情とか、非情とかじゃなくて。
 ……きっと、もっと深いところに理由があって。

(きっと君はもう。……俺の、一部なんだろう)
 目を閉じて、静かに呼吸を整えると、目の前にいない存在をとても近くに感じることがある。
 どうしているだろうかとか、何を想っているだろうかとか。
 細かく、いちいち考えなくても。
 きっと、彼女はもう、既に月森の一部に溶け込んでしまっているから。

 便りがなくても。
 声が聴けなくても。
 きっと、彼女は。
 遠い故郷の空の下で。
 ……同じ、想いで。



「うわあ?」
 弓を斜めに引き下ろし、香穂子は珍妙な声を上げた。
 出すべき音と半音ずれた音が出た。一緒に合わせていた人達が、脱力して足元から崩れそうになった。
「……香穂ちゃん?」
 呆れたような声で名を呼ばれ、香穂子はごめんごめん、と苦笑いする。もう一度最初からね、と言いおいて、一度気持ちを切り替えるために、肩からヴァイオリンを下ろして、大きく深呼吸をした。

 香穂子が目指すのは変わりなく。
 あの真面目で、賢くて、綺麗な。少しだけ不器用な音色。
 高い場所に真直ぐに、一直線に昇っていくような。
 他に目移りをしない音色。

 彼を思い出すのはその一瞬だけで。
 そうして、香穂子もまた、目の前の音楽に夢中になる。
 音楽に没頭する時間は、脳裏からあの存在が失われている。

(でも、それって不幸かなあ?)
 遠距離恋愛、辛くない?
 寂しくて、哀しくて。絶対に無理だなあ。
 周りの友達がそう言うたびに、香穂子が曖昧に笑って言葉を濁す。
(私は、どこかが壊れているのかな?)
 側にいた方がいい。
 手の届く、声の聴こえる場所にその存在があってくれる方がいい。それは、間違いのないことだけれど。
(でも、ちゃんと、月森くんを感じるよ)

 香穂子が生きる日常の中に。
 ……例え、目に見える、手に触れる場所に月森の存在がなかったとしても。
 当たり前みたいに、意識しない場所に、月森の欠片は、溶け込んでいるのだから。

 私達は幸せだ。
 お互いの存在を忘れるくらいに、夢中になれるものがあって。
 そうしてその間、大切な存在を消し去っていても怖くはないくらいに。

 この絆は、強いものになっているから。


(今日は、電話をしようかな)
 目を閉じて、旋律を追いながら、香穂子は自分の音色に溶け込んでいた月森の欠片にふと触れて、そんなことを考える。


 時差を考慮して。
 無理のない時間を選んで。
 ほんの少しだけ、他愛無い話をしよう。
 数週間電話しなかったけど、不安になった? と、冗談みたいに尋ねて。
 そうでもない、と笑うだろう彼のことを予測する。

 私達の絆は解けない。
 再会する時に、お互いがお互いにとって恥ずかしくない存在であるように、自分達の生きる世界にしっかりと足を付けて、懸命に生きている。

 そんなふうに、揺るがない心で過ごせる日々は、とても穏やかな日々で。

 そして、とても素晴らしい日々。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.5.24】

微妙な話のような気もするんですけど(笑)
難しい解釈ですが、意識せず没頭すべきことに没頭出来る、いつもいつも意識してなくていい相手って、すごいと思うんだけどなあ(笑)
思いきり楽曲の影響を受けてますが(笑)あの世界観は究極だと思います。

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