ベンチに少し俯き加減で腰掛けている、その紅い髪の人物が誰なのか、すぐに見当がついた。それは、できればこの数日中には顔を合わせたくないと思っていた人物だったので、月森は微かな重い溜息を付いた。
その溜息が聞こえたのか、それともその前に、鉄製の屋上のドアを開く音に気付いていたのか、目の前の人物が肩越しにちらりとこちらを振り返る。咄嗟に上手い反応が思い付かず、呆然とそこに立ち尽くしたままの月森に、その人物……日野香穂子は屈託なく笑い、ひらりと片手を振った。
「こんにちは。月森くん」
太陽の位置は、空の真ん中よりもわずかに傾いた昼休み。
日野が月森に向けた挨拶の言葉は、間違ってはいないのに、校内で、同い年の自分達が交わすには少し違和感があるような心地がして、月森は思わず苦笑する。
「……こんにちは」
他に言える言葉もないので、同じように返事をする。だが今度は日野の方が、そんなふうに月森が返答した事を意外に思ったようで、口をつぐみ、ぱち、と一つ大きく瞬きをした。
……会話が途切れる。重い沈黙の中、口を開いたのは、やはり日野の方だった。
「えっと。立ちっぱなしもなんだから。座ったら?」
隣に置いていた自分の荷物を掻き集め、足下へと移動させながら日野が言った。他にも空いているベンチはあるのだし、座れと勧められたからといって、別に隣である必要性はないと月森は思ったが、せっかく自分の荷物を避けてまで月森の場所を作ってくれた日野の親切を無下にするわけにもいかず、ゆっくりとそこに歩み寄ると、仕方なく、その場に腰を下ろした。
少しだけ距離を取って、隣の彼女の様子を視線の端で伺うと、セレクション用なのだろうか。熱心に手元の楽譜に目線を落としている。俯き加減の彼女の長い髪が、肩からさらさらとこぼれ落ちて、その横顔を月森から見え難くする。
日野香穂子は、思っている事がとても分かりやすい人物だと月森は思っていた。だがそれは、いつも彼女が月森を正面から真直ぐに見据えているからなのだと、たった今、実感した。
その証拠に。
ほんの少し、その表情が隠されただけで。
こんなに手が届くほどの近い距離にいる彼女が、何を思っているのかが分からない。
ただ、先程の会話から。
これほどまでに気まずさを感じているのは、自分の方だけだろうということは、予測が出来たけれど。
報道部の天羽菜美が、取材と称して話しかけてきたのは、昨日の放課後だった。天羽が月森に話しかけた際、ちょうど側に香穂子がいた。放課後はいつも、あれやこれやと演奏上の疑問点を聞きに月森のところへやってくるので、その時も、何かそういう質問事項があったのだろう。
だが、香穂子が話し掛けるより先に、天羽の方が月森に話しかけてきた。コンクールの取材と言われても、月森にはあまり自分が答える必然性はないように思われた。コンクールというものは、実力も信念もその瞬間の演奏に込め、そしてその演奏によって得られる評価が全てだと感じるからだ。それ以外の何を誰に伝えてみても、意味があるとは思えない。
そして、月森のそういう思考もあながち間違いではないと思う。無視を決め込もうとする月森に、強引に天羽が告げようとした取材内容は、月森の演奏についてでも、コンクールの内容でもなく。このコンクールに全く関係がないと思われることについてだったのだから。
「あのね、御家族のことを聞きたいんだ」
興味津々と顔に書いて、天羽がポケットから小さなメモ帳とペンを取り出す。月森はわざとらしく大きな溜息を付いてみたが、意に介さないのか体よく無視なのか、天羽は全く動じなかった。下調べしたらしい月森の家族構成を声高に並べ立てる。
自分でも、隠しようもなく不満が表情へとにじみ出るのが分かった。そんな月森に助け舟を出そうとしたのは、意外なことに日野だった。肘で天羽の脇腹をつつき、日野の方が余程困ったような表情で、小声で天羽に話し掛ける。
「天羽さん、その辺でやめなよ。月森くん、困ってるよ」
「ええ、何でよ?」
意外な人物に止められたことに一瞬驚いた天羽だが、「読者のニーズがあるんだよ」と自分の理論で結論付けて、そのまま取材を続行しようとする。どんなニーズだと怒鳴り付けたかったが、こんな些細なこと(少なくとも、取材をしようとしている人物にとっては、アイデンティティを崩壊するわけもない、瑣末事だろう)に本気で腹を立てる自分というのも情けなくて、天羽の取材の間違った部分を指摘し、更に家族の取材なら本人に聞けと彼女を退けた。
そして、そのまま日野と天羽を置いて、月森はその場を立ち去ったのだ。「何よあれ!」という天羽の抗議の声を背中に受けながら。
コンクールに参加するのは月森蓮一個人でしかないのに、どうしても偉大な家族に結び付けられてしまう現実に苛立ったのは本当だ。だが、軽く流してしまえばひどく簡単に終わってしまった話なのだということも分かっている。
それはただ、自分の立ち回りの悪さを露呈したに過ぎない。
日野や天羽に、昨日の態度がどう取られたかは分からない。それを気にする必要もない。
だが、全ては自分が自分に降り掛かる火の粉をうまく払えない、ただの不器用さ故の対応でしかないことを、何よりも自分自身が一番良く分かっているから、それを垣間見せてしまった日野に会うことに、後ろめたさを覚えるだけだ。
「……昨日は、その……」
続く沈黙がいたたまれなくなって、月森がぽつりと切り出す。ふと顔を上げた日野が、何かを思い出す仕草をして、ああ、と息を付くように笑う。
「ごめんね。上手く天羽さんを止められなくて。月森くんが取材嫌そうだってすぐに分かったのに。一筋縄じゃいかないんだもん。天羽さん」
驚いて、月森は絶句する。
別に、彼女に落ち度はないのに。
むしろ、庇ってもらったことの礼と、不愉快な思いをさせた詫びを、こちらがしなければならないのに。
咄嗟のことで何も言えなくなってしまった月森を余所に、日野は話題に附随して昨日の会話を思い出していたらしい。そういえば、と空を見上げた。
「月森くんとこって、凄い音楽一家なんだね」
知らなかったから、びっくりしたよ、と日野は屈託なく笑う。だが、反して月森は表情を陰らせる。
日野は、すぐにそれに気付いた。
「あ、ごめん!御家族のことは言わない方がいいのかな?」
「……いや」
月森は微かに首を横に振る。
家族の話題が不快な訳じゃない。
家族は、家族だ。月森が尊敬する大切な家族。
音楽家としても、自分に愛情を注いでくれる存在としても。家族の存在そのものを、不快に思うわけじゃない。
「……思い知らされるだけなんだ。確かに俺は、周囲から高く評価されている。だが、それは本当の俺の実力を評価されているわけじゃない。『月森家の人間だから』……ただ、それだけなんだ」
コンクールに参加するのは、月森自身だ。
家族の何があって、選ばれたわけじゃない。積み重ねた努力の結果だ。……そう自負している。
だが、自分を推薦した教師達も、そして、コンクールに参加することで自分に近付いてくる者達も。
結局のところ、月森を通して、その後ろの存在を見ている気がしてならないのだ。
……そこまで考えて、月森はふと自分が喋り過ぎてしまったことに気が付いた。日野は、きょとんと目を丸くして、月森を見ていた。
「……余計な話をした。忘れて……」
「そんなことないよ!」
忘れてくれと言おうとした月森の言葉を遮って、日野が大声を上げる。驚いて、月森が口を噤んだ。
「私、昨日の天羽さんの話聞くまで、月森くんの御家族のこと全然知らなかった。でも、知らないうちから月森くんのヴァイオリン、凄いと思ってたよ!」
両手を力一杯拳に握りしめて。日野は身を乗り出すようにして、熱心に月森に語る。
「そりゃ、私みたいに音楽よく知らないような人間に褒められても、全然、嬉しくないかもしれないけどね。でも、こんなよく知らないような人間でも凄いって分かるんだよ?それって、本当に『凄い』ってことだと思わない?」
技術の高さも、その演奏の価値も、本当はよく分からない。
自分はただの素人だから、上手い評価が出来るはずもない。
だが、彼が紡ぎ出す一音を聴くだけで『凄い』と思える。
余分な知識はなく、本能の部分で。
「家族が偉かったら子供も皆偉いかっていったら、そんなこと、絶対にない! 月森くん『が』凄いんだよ」
真直ぐに、反らさずに見つめる視線。
強い視線が、何よりも誤魔化すことを許さない。
真実の言葉だけを、語る。
「月森くんは、月森くんだよ!」
力一杯叫んだところで、日野がふと我に返る。
突然真っ赤に頬を染めて、深々と頭を下げた。
「って、私が大興奮で語ることじゃなかったね。ごめんなさい!」
「いや……あの」
戸惑いながら、月森が口籠った。
……ふわりと、心の奥底から浮かんでくる思いがある。
「……そんなアホなことを叫んでいるうちに、昼休みが終わる……」
俯いた目線の先で自分の腕時計を確認し、日野は情けない声で呟いた。小さな溜息と共に、ちらりと視線を月森に上げ、真面目な顔で言った。
「月森くんの実力が評価されてないなんて、そんなことないと思う。月森くんがそう思うのなら、きっと、月森くんが一番、御家族のことを気にしているからじゃないのかな?」
月森の目が微かに見開かれる。
「ついでの余分な一言でした」
悪戯っぽく付け足して、日野は勢いを付けてベンチから立ち上がった。手早く辺りに出していたものを片付けると、持っていたバッグの中にそれらを押し込んだ。
「次、移動教室だから、もう戻るね」
バイバイ、と日野は片手を振る。
月森の返事を待たずに軽い足取りで屋上を後にしようとする日野の背中に、月森は慌てて声をかけた。
「……日野!」
「え?……うん?」
驚いたように足を止めた日野が、肩越しに振り返った。
彼女に向かって放つ言葉は、先程の戸惑いが嘘のようにすらりと自分の唇から紡がれた。
「昨日は、すまなかった。そして……ありがとう」
驚いた顔をした彼女が、一つ瞬きをした後、満面の笑みになった。
大きく頷いて、もう一度、片手をひらりと振った。
遠くで予鈴が鳴り響いていた。
もう教室に戻らなければならないが、後数十秒の短い時間でも、先程の言葉の余韻に浸りたくて、月森はベンチに深く腰掛け、背もたれに身体を預け、空を仰ぐ。
(月森くんは、月森くんだよ)
きっと彼女にとっては、何気ない一言。
だが、その言葉を聞いた瞬間。
ただただ、嬉しかった。
何か、自分自身を長い間絡めとっていたものが、外れた心地がした。
そう、本当の意味で、偉大な家族の存在を足枷にしてしまっていたのは。
彼女の言った通り、月森自身だったのかもしれない。
確かに日野は、まだまだヴァイオリニストとしては未熟で。
彼女に評価されたからといって、自分の何かが確立するわけでもないのだろうけど。
それでも、彼女が本心から告げた、嘘のないあの一言に。
確かに自分は、あの時。
……救われた気がしたんだ。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.6.6】
半分くらい書きかけて、半月放置しました(汗)
間を空けたのにきちんと狙ってた結論に持って来れたのは珍しいです。
頑張って、家族の影響から抜け出そう、抜け出そうとするのは、逆に意識しているからこそかなと、そんなことを考えてみたり。まあ、親がやっていることって確かに育つ環境に「それ」があるから影響は受けやすいんだけど、全部が全部そのせいだとは言えないんじゃないかと思います。


