赦し

月森←日野

 自らの意志で彼を探すのは、これが初めてのことかもしれない。
 用事があって、仕方なく。頼みたいことがあって、仕方なく。
 いるべき場所にいないから、心配になって。
 ……そんなふうに、探したことはあったけれど。
 ほんの数日前までは会いたくなかった。
 罪悪感は、他の参加者達に対しても同じように持っていたけれど、彼という存在が、一番その罪の重さを明確に香穂子に突き付けるからだ。
 同じ楽器、だが異なる姿勢。
 だからこそ、自分が持つ罪の重さが、とても分かりやすい。

 迷った末に、香穂子は屋上へと足を向けた。
 所属する科が違う自分達が学校内で会う時は、コンクールの打合せのために、決まった場所で。その他は練習室でしか顔を合わせたことはない。放課後、帰り際に校門ではち合わせたことはあるが、まだ最終下校時間まで余裕があるこの時間帯は、おそらく彼は校内のどこかにいるはずで。
 ……屋上を選んだのは、数日前、確実に彼がそこにいると分かったのに、逃げ出した事実があったからだ。彼はその場に香穂子が辿り着こうとしていたこともきっと知らない。だが何となく、今日も彼はそこにいるだろうと、そんな予感がした。
 程なくして、その予感が全くの見当違いではなかったことが分かる。
 足下を見つめながら、一歩一歩階段を昇っていくと、徐々に近付いてくるヴァイオリンの音色。厚いドアに阻まれて、不鮮明に聴こえるけれど、香穂子がその音を間違うはずがない。
 ……香穂子にとって、それは全ての始まりの音色なのだから。
 屋上へ開かれるドアに片手で触れた。重い金属の冷たい感触が掌に返った。
 だから香穂子は、その冷たさに少しだけ身震いする。

 一瞬、冷たさに躊躇して。
 そして、もう一度意を決して。
 ……ドアを押し開いた。

 金属の軋む音。
 鈍くドアが開く音に、辺りを満たしていた繊細で美しい音色は途切れる。
 香穂子が恐る恐る屋上を覗くと、その視線の先でヴァイオリンを構えていた人物が、肩に置いていたそれを下ろし、ゆっくりと振り返るところだった。
 ドアの陰から顔だけを覗かせている香穂子を目に止め、その人物は微かに目を見開いた。

「……日野?」

 見つかった。
 逃げ場は、なくなった。
 香穂子は少しだけ息を呑む。

 逃げるつもりはないはずだった。きちんと向き合う覚悟だった。
 ……それでも、改めて月森を目の前にすると、怖じ気付いてしまう自分を知る。


(どういう秘密があるにしろ、俺にとって重要なのはそこじゃない)
(……音楽に対する姿勢の問題だ)


 偽りの実力。
 素人は所詮素人でしかないのに、誰にでも弾ける魔法のヴァイオリンという恩恵を手にした自分は、コンクールで好成績を修めてしまった。
 頼まれたから、仕方なく参加したコンクール。
 ヴァイオリンを弾くことが楽しくなってきたことは嘘ではない。
 だが確かに自分は、このコンクールに対して、初め、とてもいい加減な気持ちで向き合っていたのだ。
 自分は素人なんだから。
 無理矢理参加させられただけなんだから。
 そういう開き直りの気持ちがあったことも、やはり嘘ではないのだ。
 だからこそ、誰もいないステージ上で、真剣に独りヴァイオリンを弾く月森の姿を見たあの時。
 香穂子は自分のいい加減さを恥じた。
 魔法という助力がなければ、一音すらまともに弾けない自分自身に愕然とした。
 月森に自分の音楽に対する姿勢はどうかと問われた時。
 いい加減な気持ちでコンクールに臨むのであれば、認められないと断言された時。
 ……何も言えなかった。
 罪悪感と、後ろめたさ。心を満たす負の感情に、ヴァイオリンを弾くことすら苦痛になった。
 だが、そんな感情を経て、苦しさから逃れる為に、いざヴァイオリンを捨てようとした時に。
 香穂子は、ヴァイオリンを捨てることが出来ない自分に気が付く。
 誰の為でもなく、誰のせいでもなく。
 自分自身の為に、自分がヴァイオリンを弾くことを望んでいることを知る。

(だから、赦されたい)

 香穂子が置かれている状況など、月森は知る由もない。
 自分の恵まれた境遇に、香穂子がどれだけ苦悩したからといって、それが免罪符になるとも思えない。
 だがどうしても、今はヴァイオリンを捨てられない。
 続けたい。
 だから、月森にだけは伝えたかった。
 
 ヴァイオリンを下ろし、涼やかな眼差を静かに香穂子に向け、月森は黙ったままそこに立っていた。香穂子はドアから数歩踏み出し、躊躇う足を叱咤して、月森へと歩み寄った。
 屋上を吹き抜けるのは、香穂子が立つ位置からは追い風。
 それに背中を押されて、香穂子は大きく息を吸い込んで、吐いた。
 月森を、真直ぐに見返した。

「……ヴァイオリン、弾きたいの」
 香穂子の突然の言葉に、月森は微かに瞬きをした。驚く表情は見せずに、無表情で香穂子を見つめ返す。
「ヴァイオリンが好きだから、今は弾きたい。……月森くんに認められなくても仕方ないし、私がコンクールに出ることそのものが、月森くんにとっては不快なだけのことかもしれないけど。でもここでいい加減に終わりたくないから」
 一息で言い切って、香穂子は月森の言葉を待たず、両膝に手を置いて、深々と頭を下げる。
「コンクール、続けます。……ごめんなさい!」
 香穂子の叫び声の余韻が、二人しかいない屋上に響く。頭を下げたまま、香穂子はぎゅっと両目を強く閉じる。月森がどんな表情で立っているのかが見えない。微動だにする気配もなくて、月森が今、香穂子の言葉を聞いて、何を思っているのかも分からない。
 だからこそ、余計に顔を上げることが怖い。

 しばしの沈黙。
 やがて、月森の微かな溜息が香穂子の耳に届く。
「……俺は、君がコンクールに参加していることが不快だなんて、一言も言わなかったつもりだが?」
 甘くはない一言。
 だが、突き放す言葉ではなく、声音も穏やかだった。ぱち、と目を開き、香穂子が恐る恐る身を起こす。香穂子の視界に入る月森の表情は、いつもの冷静なばかりの彼のもので。
 そこに香穂子への嫌悪感は、見えなかった。
「俺は、こう聞いたはずだ。『音楽に対する姿勢の問題だ。君はどうなんだ?』と。……君がただいい加減な気持ちばかりで参加しているのなら、もちろん俺は、君を認められない」
 夕暮れの紅に、屋上がほんのりと染まる。
 暖かい色彩に月森の姿が溶け込んで。
 彼の存在そのものを暖かいもののように錯覚させる。
「だが、君にどんな秘密があろうとも、君自身が君なりの真剣さで音楽と向き合っているのなら、俺がとやかく言う問題ではないように思うのだが」
「……え?」
 月森の言いたいことが掴めずに、香穂子がぼんやりと問い返す。月森が少しだけ首を傾げるような仕草を見せた。
「君には何か秘密がある。そして、君はそれを悔いている。それでも、中途半端にコンクールを投げ出す気はないのだろう? それは、君が真剣に音楽に、そして、ヴァイオリンに向き合っている。……その証拠じゃないのか?」
 香穂子が、もう一度大きく瞬きをした。
 呆然と見つめる香穂子の視線の先で。
 月森の表情は、微かに緩んだように見えた。
「君が、君なりに真剣に音楽と向き合っているのなら、俺は何も言わない。ヴァイオリンを弾くも、コンクールに参加し続けるも、君の自由だ」
 話はそれだけか?と月森が問う。咄嗟に思考がまとまらなくて、立ち尽くす香穂子の前で、月森は手早く自分のヴァイオリンを片付け、屋上を後にする為、ドア近くにいる香穂子の側に歩み寄る。すれ違いざま、どこか縋るように香穂子が月森を見上げると、それに気付いた月森はふと足を止めた。
「……正直、君に避けられていることは気付いていた。この間も言ったが、俺を避けるということは、君は、俺に対して何か後ろめたいことがあるんだろう。……だが、理由が分からなかった。それが少し気にかかっていたが」
 香穂子は驚いて微かに目を見開く。
「君が自分の中で何か答えが出せたのなら、それでいい。……第3セレクション、君の健闘を期待する」
 そのまま月森は、香穂子の側を通り過ぎ、屋上を出ていく。
 月森が開いたドアは、慣性に従ってゆっくりと閉じる。鈍く、微かな残響。
 しばしの間を置いて、香穂子は、ようやく気付いた。

 自分が、赦されたことに。


 夢の中で。
 月森に最低だとなじられ、背を向けられた。
 あんなふうに、音楽に、ヴァイオリンに、真剣に生きている人に対して。
 どれだけ失礼な、そして分不相応の真似をしているか。それを知らしめる為の警告。
 あれは、月森の責めではなく。
 香穂子の罪悪感の現れだ。
 こんな自分は、月森に『赦されない』と思っていた。
 自分自身の感情だ。

 香穂子の夢の中ではない本当の月森は、本当の香穂子を知らない。
 香穂子が抱く本当の罪を知らない。
 だが、他の参加者の誰もが気付かなかった香穂子の甘えを。
 彼だけが気付いて責めた。
 ……だからこそ、香穂子は自分自身を振り返る機会を持てた。
 ヴァイオリンを捨てられない自分を。
 ヴァイオリンを、好きな自分を。

(ありがとう……月森くん)

 心の中で、香穂子はもう一度月森に頭を下げた。
 もし、自分自身の中のその真実に気が付いても、月森に全てを否定されていたら。
 香穂子はやはり、ヴァイオリンを辞めていたかもしれない。
 初めて香穂子にヴァイオリンの音色の美しさを教えてくれた月森に。
 背を向けられてしまうことは、きっと辛いから。

 だが、月森は赦してくれた。

 ……それは、認められたわけじゃない。
 ヴァイオリニストとして、月森と対等に並べる立場の人間として、認識されたわけじゃない。

 それでも、月森は赦してくれた。

 素人でも。
 心に何か、誰にも言えない罪を抱えていたとしても。
 真直ぐに前を見据える覚悟があるのなら。

 『そこ』に、立っていてもいいのだと。

 それは、香穂子にとって。
 新しい気持ちで、ヴァイオリンに、音楽に向き合う為の。

 『この』道を歩いていく為の。

 とても小さな。
 それでも前へと歩み出す。
 そんな足下を照らす。

 仄かな光になるだろうから。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.4.26】

渡瀬が書く話の基本はゲームが土台なんですが、ちょっとそれを変えて漫画の展開を意識した話を書いてみました。
漫画だとここまで月森のみに絡んだ展開にはならないし、香穂子の性格も当サイトの性格をベースに置いたので、やっぱり原作とは大いに違うけど、月日ファンからすれば、こういう展開があったら月日的で嬉しいかなと。まあぶっちゃければただの妄想ですけどね……(遠い目)

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