振り返って、視界の中に収まる普通科の男子生徒には、まるで見覚えがない。
少し前ならば、「人違いだ」と切って捨てることも出来たのだが、学内コンクールに参加したことで、否応無しに顔と名前とが全校生徒に知れ渡っている身としては、相手の方にも間違える余地がないだろうと理解してしまうのが厄介だ。体よく無視、という選択肢も頭の隅を掠めたが、気を取り直して、月森は溜息混じりに相手の方へ向き直る。
例え、お世辞にも正しいとは言えないぞんざいな応対をして、それで普通科における自分の評判が下がろうと本当は月森には一向に興味はない。が、それでも普通科は、普段の彼女が存在している場所だ。
誰よりも、彼女こそが自分の悪い噂に傷付いてくれることを知っているからこそ、時間の無駄だと分かってはいても、少しの時間を見ず知らずの人間に対して割く気にもなれる。
……が、後々月森は、この時の選択を、心の底から後悔する羽目になった。
「月森、だよな」
予め分かっているはずのことに念を押すように、普通科の制服をだらしなく着崩した男子生徒は、ゆっくりとした低い声で呟いた。爪先から頭の先までを舐めるように見る遠慮のない視線に、発作的に嫌悪感が湧いた。
「……何か?」
目の前の相手はネクタイをしていなくて、普通科だという以外、学年も何も分からない。普通科の知り合い……香穂子や土浦、天羽関連で、顔を見たことがあるだろうかと記憶をひっくり返してみるが、全く心当たりがなかった。
尋ねて反応を待ってみるが、相手はちらちらと時折月森に視線を寄越すだけで、一向に話し出す気配がない。腕時計を一瞥してみれば、もう香穂子が練習室に顔を見せる頃だった。埒があかないと判断した月森は、小さな溜息混じりに言った。
「用がなければ、失礼させてもらう」
返事を待たず、月森が踵を返す。背後で人の動く気配がし、乱暴な足音が聞こえたかと思うと、月森の目の前の壁に、勢い良く片手が叩き付けられた。伸ばされた片腕が月森の進行を遮るので、月森は視線だけをその持ち主に向けて、軽く睨み付ける。
「……何のつもりだ」
「こっちの台詞だよ、月森。人の話は最後まで聞いてくれないかなあ」
話し出す気配をみせないくせに、最後まで聞けも何もないだろうと心の中で月森は呟くが、そもそもそんな正論を叩き付けてみたところで、素直に納得するような相手であるなら、こんな理解不能な行動をするはずがない。
何にしても、進行方向に立ち塞がれてはそれ以上先に進むことが出来ず、月森はその苛立たしい気持ちをこれ以上にない仏頂面と、盛大な溜息に込めて吐き出した。
「用があるなら、早くしてくれないか。時間をムダにしたくない」
「ムダとは言ってくれるねえ。……じゃあ、単刀直入に言うけど」
壁に片手を付いて、月森の顔に自分の顔を近付けて。その生徒は低い声で言う。
「なあ、月森。お前、2組の日野と別れてくれない?」
月森は一瞬虚を突かれた。
それは、あまりにも自分の頭の中に存在しない言葉だったからなのかもしれない。
一瞬後に、その意味が理解出来た。
目の前の人物の身勝手さも。
学内コンクールに参加して以後、日野香穂子という存在は一躍注目を集めるようになり、彼女の明るい性格と柔らかなヴァイオリンの音色に魅了されて、彼女に好意を寄せる者も増えたと聞く。
自分もその例外ではなく、コンクールが終わった後、彼女と心を通わせ、今に至るわけだが、こんなふうに彼女の心を手に入れるまで、自分は不器用なりに、精一杯努力をして来たと思う。
人に恋するという事態が、そもそも月森には馴染みのないことで。効率のいい駆引きも出来ず、ただ真直ぐな想いを彼女へと向かわせていただけだけれど。
それでも自分は、自分にしか関れない形で、彼女へと自分の想いを伝え続けて来たつもりだ。その成果が、今の自分達なのだろうと自負している。
目の前の男が、香穂子に好意を寄せているのか、単に月森のことが気に入らないから、嫌がらせのつもりでこんなことを言い出したのかは分からない。
だが、今香穂子と自分とが別れるということは、自分だけではなく、自分を想ってくれる香穂子をも傷つける。自分が傷付けられることは、自分の性格上、あっても仕方のないことだと諦めがつくが、香穂子を傷つけるような行為だけは、するわけにはいかない。
「断る」
月森が即答する。ある程度予測していたのか、目の前の男は特に驚く様子はなく、ただその唇の端から笑みが消える。壁についていた片手を下ろし、一瞬の隙に月森の右手を掴む。
「……離してくれないか」
強い力で、月森の右の手首にまとわりつく指。月森が男を睨んでそう言うと、唇の端を歪めるようにして、そいつが笑う。
「……まあ、初めから言うこときくなんて思ってなかったけど」
一瞬視線を伏せ、そして徐に彼は月森の目の中を覗き込む。月森は負けずにそれを真直ぐに見返した。
「『別れる』って言わないと、この手に傷をつけるって言ったら、どう? ……もちろん、手加減はしてやるけどさ」
言った途端、彼の指先に更に力が加わる。一瞬月森は驚きで目を見開き、そして右手を突然襲う痛みに顔を歪めた。引き剥がそうと上げた左手を、男の空いている左手が遮る。
「月森の大好きなヴァイオリンが弾けなくなるよ。……それでも?」
一瞬頭をよぎったのは、幼い頃の記憶だった。
生意気だからという理由で、上級生達に囲まれ、指を折られそうになったあの記憶。
締めつけられる痛みに、あの時の恐怖が思い起こされる。
ヴァイオリンが弾けなくなる、あの恐怖。
……だが。
ヴァイオリンを、例え一時だとしても、弾けなくなることは辛い。
手加減をされたとしても、それが古傷となり、自分のヴァイオリンを脅かすかもしれないと思えば、この手が傷付くということは、本当に怖い。
だが、それでも。
人として、男として。
譲れないものがある。
それが、どれほど愚かな選択でも。
片方を選び取れない、ただの欲深さであっても。
「……別れない……っ!」
締めつけられる手首の、痛みと恐怖に心のどこかは警鐘を鳴らす。だが、その心を埋め尽くそうとする不安を振り払う勢いで、月森は絞り出すように言葉を吐く。
「何と言われても、何をされたとしても、俺は絶対に香穂子を手放さない。……彼女を譲らない!」
「先生早く!こっちです!」
月森の言葉の語尾をかき消すように、背後の曲り角から突然第三者の声が割り込んで来た。月森と目の前の男の動きが一瞬止まり、次の瞬間に男は小さく「やべっ」と呟き、掴んでいた月森の手を解放すると、逃げ出すように走り去っていった。
横目でその後ろ姿を見送り、突然やって来て突然去った自分の身に降り掛かった災難から本当に解放された安堵感に、月森は盛大な溜息をついた。微かに震える左の指先を持ち上げて、いまだ掴まれていた感触と痛みが残る右の手首を、大切に自分の手で覆った。
壁に背を預け、もう一度軽く安堵の溜息をついて、月森はちらりと曲り角の方角を伺う。誰かが教師を呼んでくれたはずなのに、一向にその教師の姿が見える気配がない。叫んだ声の持ち主が誰だったのか、一瞬で月森には分かったから、その理由を訝しむことはなかった。
「ありがとう……香穂子」
微笑んで、静かに呟くと、曲り角の向こうで息を呑むような人の気配。だが、その気配がこちらへと顔を覗かせることはなく、月森は首を傾げながら角へと歩み寄る。
片手を壁について、その向こう側を覗き込むと、先程の月森と同じように、壁に背中を預けた香穂子が俯いて、自分の足下を眺めている。その横顔に淡い涙が浮かんでいて、月森は思わず息を呑んだ。
「香穂……」
「月森くんの、馬鹿」
涙声で香穂子が呟く。声にした途端、目尻に溜まっていた涙がほろほろと落ちる。
「わ、私が、来てなかったら、手が……!」
「ああ、だから。……助かった」
苦笑して、月森が言う。香穂子が乱暴に自分の手の甲で頬を流れる涙を拭った。
「別れるって、言えば、いいのに。……私のことなんか、どうでも、いいよ。月、森くんの手が……ヴァイオリンを弾、くための、手が……」
嗚咽混じりの言葉で、香穂子が不自然な箇所で声を詰まらせる。そんな彼女が愛おしくて、月森は指を伸ばして自分の腕の中に、彼女の華奢な身体を捕らえた。
「ヴァイオリンも、君も。今の俺には他の誰にも譲れない、大切なものだ。……だから」
抱きしめるたびに、小さいと思う身体。
柔らかくて、甘い香り。
触れると簡単に壊れそうな、脆くて、そして大切なもの。
「二つを同時に選ぶことが、ひどく贅沢なことだとしても。……例え冗談であっても『手放す』なんて、俺は言葉にしたくはないんだ」
本当に、永久に二つのものがこの手の中に在り続けるとは思わない。
それでも、自分自身の意志で、手放すことを選ぶ日が来るまでは。
第三者の思惑に振り回されて、この手の中のものを無造作に譲ったりはしないと心に誓う。
たとえばそれが欲張って複数のものを己の手の中に収めようとする。
愚かな人間の醜い欲望でしかないとしても。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.7.28】
月森にあの一言を言わせたいが故に、オリジナルキャラまで出してみたり(笑)
お題創作はあまり長くしないようにと思ってますので、中途半端かもですが、書いている本人は結構楽しんでおりました(*^^*)


