その道の輪郭を知っていくうちに、必ず選び取ることになる手段だと知っていた。
夢でしかなかった道が、現実のものになろうとしている。
だから、本当は。
留学という選択は、もっと自分にとって、誇れるものになるはずだったのに。
「言えない……か」
中途半端に止まってしまったヴァイオリンの旋律の、その続きを追うことを諦め、月森は肩に置いていたヴァイオリンを下ろす。ぽつりと呟いた自分の声の覇気のなさに、知らず苦笑した。
家族、教師、周りの友人、先輩達……。自分に関わる全ての人たちに、月森は自分のこれから進むべき道を伝えてきた。これまでヴァイオリンと共に生きてきた道を支えてくれた人に、これからもヴァイオリンと共に歩む自分を見ていてもらうために。
留学経験のある知り合いにも、参考になる話が聞ければと積極的にこれからの自分を語った。
だが、どうしても。
たった一人に、月森は留学の事を言い出せない。
(……日野)
日野香穂子。
彼女が春の学内コンクールに参加していなければ、おそらく自分達は互いの名さえ知ることなく、卒業の日を迎えただろう。……そのくらい、月森が生きてきたこれまでのヴァイオリンと共にある人生に、関わりのなかった人物だ。
だが、どういう偶然か、コンクールが終わった今、月森は彼女の拙いヴァイオリンを上達させる指南役をかって出ている。
本当なら、他人にかまけている余裕なんて、月森にもないはずで。
それなのに、心から信頼出来る師を持たず、戸惑う日野の指導を引き受けたのは。
(……気に、なるから)
未熟で、拙いのに。
それでも何故か、心に止まる音色。
暖かく、優しくて。
彩りに溢れた、柔らかな音色。
……それは、幼い月森が憧れた、両親の音色に少し似ていて。
上達した彼女がどんなふうにその音色を生み出すのか。それを、見てみたくて。
だが、彼女と自分の関係はそれだけだ。
ヴァイオリンを教えるものと、教わるもの。
それだけだった。……そのはずなのに。
月森は何故か、彼女にだけ。
自分の留学の事を伝えられずにいる。
伝えなければと思い、あまり慌てる必要はないと思い直し。
それを繰り返して、もう随分と時間が経ってしまった。
そうして、月森は気付くのだ。
自分が彼女に留学の事を『言えない』のだという事実を。
……離れることを、伝えてしまったら。
何かが壊れてしまうような。
何かを失くしてしまうような。
そんな気がして。
だが、そうして綱渡りのようにして避け続けてきたことも。
いつか、必ず到達する未来なのであれば、明るみに出る瞬間が来る。
慌ただしい足音が月森のいる練習室に近付いてくる。どことなく特徴のある足音だから、すぐに日野の物だと月森は気付く。迷いなく練習室に辿り着いて、日野はノックもせずにばたんとドアを開いた。
「日野! ドアは静かに……」
「月森くん!」
月森の注意を遮り、日野が大声で叫ぶ。
その必死な様子に、月森は圧倒され、息を呑んだ。
月森の視線の先で、必死で走ってきたらしい日野は、荒い呼吸のままその場にしゃがみ込む。戸惑いつつも歩み寄った月森の足元で、俯いたままの日野は、小さな声で呟いた。
「……留学するって……聞いたの」
本当?と顔を上げた日野に、月森は反射的に差し出しかけた手を止め、微かに目を見開く。
言葉よりも雄弁に語るその反応に、日野は噂の真実を確信する。
「……何で」
呆然と呟く日野に、月森も何を言えばいいのか分からない。
月森が見つめる日野の目が、涙に潤む。
「何で、言ってくれなかったの? ……噂じゃなくて、ちゃんと月森くんの口から聞きたかったのに……!」
「……日野」
「留学のことがどうとかじゃなくて、私だけ、何も言ってくれないのが……! 私……私の存在は、そんなに……!」
「日野!」
思わず床に膝をついた月森が、脈絡のない言葉を紡ぐ日野の両肩を強く掴む。びくんっと日野の華奢な身体が震えて、日野は言葉を止めた。
それに小さく安堵の息をつき、月森はふと視線を彷徨わせる。心の中にある、彼女に言うべき言葉を探す。……そして。
「……すまない」
君には、どうしても言えなかったんだ、と。
月森は小さく、本当の気持ちを日野に告げた。
どうして、彼女にだけ。
留学の事を告げられなかったのかは、本当は今もまだ、理由が良く分からない。
いつかは分かってしまうことを、自分の口から言わなければ、こんなふうに彼女を傷付けてしまうのだということも、本当は理解していた気がする。
それでも、どうしても。
彼女に告げられなかったのは。
自分がいなくなることを、寂しがってくれるはずの彼女を、見たくはなかったから?
それとも……。
「何度も、言おうと思ったんだ。……言わなければならないと思っていた。その……君の指導を引き受けた立場としては、それを途中で放り出してしまうことには変わりがないんだし」
「……それは、いいの」
無理を言ってるのは私の方だから、と。
日野は小さく首を横に振る。
「そうじゃなくて……」
一番、近くにいたのに。
一番、月森のヴァイオリンの音色を、好きでいたつもりだったのに。
何も知らなかった。
ずっと、このまま。一緒に音を紡いでいけると思っていた。
最初から手の届かない人だと知っていたから。
いつかはもっとずっと先に行ってしまうことだって、簡単に想像がついたはずなのに。
気付かなかった。……気付かない振りをしていた。
ずっとこのまま、一緒に歩ける未来を夢見てしまった。
……ああ、自分が責めたいのは。
そんな、愚かな自分の方だ。
自分はただ、月森に八つ当たりをしてしまっているだけだ。
「……本当に、すまない。日野。……俺は」
「……の」
もう、いいの、と。
日野の小さな声が、月森の困ったように繰り返される謝罪を遮った。
一度俯いて、何かを自分の中に呑み込んだ日野は、ゆっくりと顔を上げる。
月森は、息を呑む。
彼女は、その目を涙に濡らしたまま。
とても、綺麗に笑った。
「……ごめんね?」
先程の取り乱し方が嘘のように、穏やかに。
柔らかな声で、彼女が呟く。
「本当は。おめでとうって言わなきゃ、いけなかったのにね」
泣き笑いで、照れくさそうに。
日野はそう言った。
本当は、誰よりも。
月森のヴァイオリンへの熱意を知っている自分こそが。
月森が選んだこの道を。
祝福しなければならなかったのに。
(ごめんね、月森くん)
(本当は、私にも分からないの)
どうして、これほどまでに。
留学の事を伝えてもらえなかったことがショックだったのか。
月森がもうすぐいなくなるという事実が。
どうして、これほどまでに。
……哀しいのか。
(どうして、君にだけ言えなかったのか)
(本当は、今でも俺には分からない)
泣かれたり、寂しがられたりしたら。
どうしたらいいのか分からなくなりそうで。
それが怖いから、言えないのかもしれないと思ったこともあった。
だが、今。
実際に目の前で取り乱す彼女を見た、その時よりも。
「ごめんね」と言った柔らかな声が。
「おめでとう」と言った優しい声が。
彼女の側を旅立っていく自分の事を。
祝ってくれた笑顔の方が。
……ひどく、心に痛い気がした。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.1.25】
こんなにあっさりでよかったっけと思いつつ(笑)漫画の影響を受けた、「解く、繋ぐ」へ続く話です。
ネタ的には結構前から朧げに持ってたんですが、漫画の展開がアレなだけに(笑)書くことを躊躇ってました(笑)
もうちょっと掘り下げた話をそのうち書くかもです。


