屋上から見る景色

月森←日野

 そう言えば、学校案内のパンフレットであの風景を冊子の片隅に見たような記憶もあるのだが、香穂子が本格的に屋上へと足を踏み入れたのは、学内コンクールが始まって以降だった。
 元々高い場所から風景を眺めることは好きだったが、特別にその場を訪れる理由というものがなければ、行く必要性の場所を訪れることはあまりない。おそらく、コンクールへ参加することがなかったら、香穂子は屋上には一度も足を踏み入れることがないまま、この学院を卒業してしまっていただろう。
 吹きさらしのこの場所では、放った音は跳ね返って響くことなく、ただ大気に融ける。音の響きを確認する為の練習には向かないのであろうが、ただ楽曲を奏でるだけでいいのなら、ここは穴場だった。
 教えてくれたのは、先輩の火原だっただろうか。数少ない練習室の予約を取るのに難儀することを打ち明けたら、いいところを知っていると自慢げに教えてくれた。
 何と言っても、人気が乏しいところがいい。ただ練習をするだけであるなら、本当はどこでも練習場所になり得るのだが、人の気配が乏しい屋上なら、香穂子の拙い演奏スタイルを見ず知らずの複数の人間に見られる心配は少ないし、そもそも音楽に溢れている学校であるから、こんな辺境で奏でる音楽など、地上の喧噪に紛れて、眼下の人間達の耳には届かない。
(……ああ、でも一つ難点があるかな)
 そのことを思い出して、香穂子は小さな溜息をつく。暗い屋上までの階段を昇り切って、重い鉄製のドアを押し開くと、途端に視界を埋め尽くす外界の眩しさに、一瞬目を細めた。
 その眩しさに慣れた目で、人気のない屋上を見渡す。香穂子が開けた扉の音に気付いて、ベンチに座ったまま肩越しに振り返る、この場にたった一つだけの人の姿。
(やっぱりいた)
 その人物がここにいることは予想の範囲内だったので、香穂子は心の中で複雑な気持ちが入り交じった溜息を吐く。
 この人物に逢えることは嬉しい。
 だが、同時にこの人物だけには逢いたくないと思うことがある。
 おそらくこの学院内で、一番香穂子のヴァイオリンの未熟さを、見透かす人物だから。

「……練習か? 日野」
 珍しく、月森の方から話しかけてくる。うん、と曖昧に頷いて応じ、香穂子は恐る恐る月森の座っているベンチへと近付いていく。屋上のどこで練習をするにしても、どこかのベンチに荷物を置かなければ始まらない。
「あれ? 月森くんは練習じゃないんだね」
 月森の周りに置いてある荷物を覗き込んで、香穂子が尋ねた。いつも通り、彼の座った傍らにヴァイオリンケースは置いてあるのだが、愛用のヴァイオリンはそのケースに収められたまま、鍵も外されていない。月森の軽く組んだ足、その膝の上に丁寧に広げられているのは、香穂子が一目見ただけで敬遠してしまいそうな、分厚い本だった。
「ああ、キリのいいところまで読んでからと思ったんだが、なかなか中断するきっかけがなくて。……俺のことは気にせず、練習して構わないが」
「あ、うん」
 少し離れた場所にすとんと腰を下ろす香穂子に、苦笑して月森が言った。慌てて膝の上にヴァイオリンケースを乗せて開く香穂子を一瞥して、月森はまた膝の上の本に視線を落とした。
 開いたケースを少し横の方へ置いて、今度は楽譜を探し始めた香穂子は、そんな月森に視線をやって、そして、何となくその仕草を眺めてみる。
 姿勢や身体のバランスがいいせいだろうか。ただ本を読んでいるだけで絵になる人物だと思う。
 おそらく、半日こうしてただ眺めていても飽きることがない。……そんな気がする。
 ただ、眼差を伏せた横顔と。
 本の頁を繰る、綺麗に整えられた指先の動きを見ているだけで。
「……日野?」
 視線に気付いたのか、訝しげに香穂子を呼んだ月森が、本から目を上げる。ばっちり視線が合ってしまって香穂子は内心この上ないほどに狼狽しながらも、慌てて月森から視線を反らした。それでもまだ、自分を見ている月森の視線を感じるから、香穂子はこの場を逃れる為の話題を懸命に探す。
「月森くんは、何でいつも屋上にいるの?」
 咄嗟に口をついて出た問は、我ながら何の脈絡もない話題だった。更に焦る香穂子を余所に、意外に月森は動じることなく、真面目に考え込んで首を傾げた。
「そうだな……意識してここだと決めているわけではないから、居心地がいいからとしか言い様もないが」
 そして、何かを思い付いたように、ふと空を見上げ、少しだけ笑みを含んだその視線を、再び香穂子へと向ける。
「ここから見える風景が、割合好きなのだと思う」
「へえ……そう?」
 言われてみて、香穂子はきょろきょろと辺りに視線を向けてみる。
 意外に広く思える敷地、視界にぽつぽつと収まる鉢植えの緑に、確かに心が落ち着くのは分かる気がするのだけれど。
 その中の何が月森の好みに合うのかは、いまいち香穂子には分からない。
「そうなんだ」
 まだ腑に落ちないまま、香穂子は納得した振りをしてみる。が、意外にあっさりと月森にはその困惑が伝わったようで、月森は読んでいた本の頁に持参の栞を挟み込むと、ぱたんと音を立てて本を閉じた。
「……どうかなとは思っていたんだが、やはり君は気付いていなかったんだな」
 少しだけ悪戯を思い付いた子供のように、明るい笑顔を浮かべ、月森は香穂子へと歩み寄る。何事かと緊張して月森の行動を伺う香穂子に寄り添うようにして、月森が指先を挙げて、一方向を指し示す。
「……あれだ」
「あれ?」
 月森の真直ぐに指し示した指先の、その向こう側。
 馴染んだ街並と、間の緑の木々の風景。更にその奥。
「え……あ、……ああ!」
 ようやく月森が指し示すものが何かが分かって、香穂子は歓声を上げた。
 月森の指先が示すもの。
 遠い遠いその場所で、光を反射するもの。
 海。
「海、見えるんだ……」
 確かにこの学校の少し離れた場所には海がある。この屋上からの景色も充分多彩だとは思っていたけれど。
「ほんの少しだが、あそこに見えるのが海だと分かったら、何だかここから見る風景が好きだと思った。……馬鹿馬鹿しい理由かもしれないが」
「ううん、そんなことないよ!」
 香穂子は慌てて首を横に振る。
 月森が示した海は、本当にちょっとした点くらいの、風景の一部分で。
 何気なく眺めることに、何らかの癒しを与えるほどの、広大な風景というわけではない。
 だが、そこにあるはずがないと思っていたものを見つけ出したこと。
 その事実、そのものこそが、この目に映る風景を、かけがえのない大切なものに変える。
「気付いてるのって、月森くんだけなのかな?」
「どうだろう。俺以外の人間が話しているのを聞いたことはないが」
「じゃあ、二人の秘密、だね」
 嬉しそうに笑って、香穂子が言う。驚いたように香穂子を見つめ、少しだけ頬を染めた月森がふい、と視線を反らし。そして、溜息をつくように、ぽつりと呟いた。
「……よかった」
「え?」
「何となく……君なら、こんな馬鹿馬鹿しい、ささやかな発見でも、喜んでくれるんじゃないかと思ったんだ」


 そうして、澄んだ空の青色を背景に。
 どこか照れくさそうに微笑んだ月森が溶け込んだ、この屋上で見た景色を。

 きっと、一生忘れることはないんじゃないだろうかと。

 そんなふうに、香穂子は思った。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.7.23】

何となくほのぼのとした二人の会話と、遠くに見える海の風景が書きたかったのです。
きっかけは、最近大雨が降り続いていた為に会社の二階から見えた、増水した川なんですけど(大笑)
高い場所から風景を眺めていて、そこから水辺が見えたら何やら大喜びしてしまうタチです。海近くの山ん中で、山と山の間に海が見えたりすると最高です!(笑)……が、ホントに星奏学院の屋上から海が見えるかって言うと全然そんなことはない気がするので、捏造してスミマセン。

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