僕を見てよ

月森×日野

 音楽科棟に向かっていつもの歩幅を保ちつつ歩いていると、ふと背後から日野先輩、と声をかけられた。振り返ると、見覚えのない顔の、二人連れの音楽科の制服。タイの色は青。少しだけ違和感を感じるのは、香穂子が馴染んでいるこの制服姿は、もう少し目線が低めの、ほんわかとした雰囲気を持つ後輩のイメージが色濃いからかもしれない。
 それでも春の学内コンクール以降、こんなふうに知らない学生から声をかけられることも多い。好意的だったり、その逆だったり。その目的は千差万別でも。だから、香穂子は正面から向き直る。少しだけ警戒する心の境界線はそのままで、はい、と素直に応じた。

 秋から冬にかけて行われた、学校の二分化をかけたアンサンブルコンサートをきっかけに、日野香穂子という普通科のヴァイオリニストの存在も、名実共に周知のものとなった。それでも香穂子の中身の何が変わったわけでもないから、周囲の変化に戸惑う。香穂子という人間の本質を何一つ知られないまま、名前だけが一人歩きする居心地の悪さは、こんなふうだったんだとようやく実感する。
 ……有名税だと言われて、嫌なものだと応じていた人がいたっけ。
 目の前で多少興奮気味に語る二人の男子生徒を見つめながら、香穂子は心の中で苦笑いした。
 先程から、目の前の後輩二人の会話は、香穂子本人を差し置いて、アンサンブルコンサートの功績、並びに今度行われるオーケストラについての賞賛ばかりだ。何だか身にそぐわない美辞麗句を並べ立てられている感じで、浴びせられる香穂子の方が戸惑ってしまう。
「一度、ちゃんと話してみたかったんです。日野先輩と」
 な、と片方がもう片方を促して、頷き合う。何となく話を切り上げるきっかけが掴めなくて、香穂子は曖昧に笑った。
「それにしても」
 まじまじ、と身を屈め、顔を覗き込まれて、香穂子が思わず一歩退いた。遠慮のない後輩は、まっすぐに香穂子の顔を眺めている。
「日野先輩って、間近で見ると、マジで可愛いですね。いろいろと目立ったりもしたし、モテるんじゃないですか?」
「……全然、そんなことないよ」
 うわ、と内心香穂子は顔をしかめた。
 学内コンクール。そしてアンサンブルコンサート。
 本意ではないながらも、人の目に留まる位置に立ち続けた結果、確かに香穂子は同性異性関係なく、周囲の関心を集めるようになった。そんなふうに人に知られていく中で、今まで全く縁のなかった交際の申込等も確かに受けるようにはなっていた。
 だけど、それは香穂子自身がどう、という話ではないだろうと香穂子は思う。
 香穂子という人間が、どんな思いを持って、どんな生き方をしているか知らないまま、ただヴァイオリンの音色だけで、恋に落ちることなんてない。……音色に、その人そのものが現れるという事実は、否定しないけれど。そんなふうに垣間見れるものがきっかけで、自分が恋をしたことも、嘘ではないけれど。
「日野先輩、今度、俺達と遊びに行きませんか? もちろん、ヴァイオリンの練習とかでもいいですし。付き合います」
「あの……でも今、忙しくて」
「もちろん、オケの準備の合間の息抜きで構いませんから」
 やんわりと断ろうとする香穂子を、後輩達は上手くかいくぐる。目の前の初めて会った後輩達に嫌悪感を抱くわけではないから、余計に逃げ道がない。
 あわあわ、と困り果てる香穂子の腕を掴んで、突然大きな手が引き寄せた。バランスを失った香穂子の身体が、固い男の子の胸に当たって止まる。
「……俺の彼女に何か用があるのか?」
 落ち着いた低い声に香穂子が驚いて目線を上げた。
 端正な顔が、険しい表情で目の前の後輩を睨み据えている。つきもりせんぱい、と後輩達は愕然とした様子で呟いた。
「すまないが、彼女を煩わせるような真似はやめてくれないか。彼女には今、君達に付き合うような暇はないんだ」
 言い切って、月森は香穂子の腕を掴んだまま、足早にその場を後にする。「あの」「ちょっと」と慌てながら連行される香穂子を、残された後輩達が唖然としたまま見送った。


「つ、月森くん!」
 香穂子が呼び掛けると、人の気配がなくなったところで、ようやく月森が香穂子の腕を解放してくれた。月森の指先の感触が残る腕をそっと押さえながら、香穂子がほっとした表情で笑った。
「ごめんね。ありがとう。……助かったよ」
「いや……俺の方こそ、すまなかった」
 小さな溜息を付いて、月森が詫びる。……謝られると思っていなかった香穂子がきょとんとして首を傾げた。
「……なんで謝るの?」
 ストレートに尋ねる香穂子に、月森が微かに息を呑んだ。上手に、体裁良くはぐらかしてしまいたいと思うのに、真直ぐな香穂子の視線が嘘を付くことを許さない。……元々、嘘を付けない質ではあるし。
 月森は頬を染めて、片手で口元を覆う。辿々しく、口を開いた。
「その……別に君を……助けようとしたわけじゃないんだ……」


 自分がこんなに余裕がない人間だとは思わなかった。
 遠目に人影を見つけて、すぐに香穂子だと分かった。側にいるのが見知らぬ男子生徒であることも。
 ……たったそれだけのことなのに、ひどく狼狽える自分を知った。今すぐに他の男の目から、香穂子を隠してしまいたい……そんな、独占欲だらけの、余裕のない、醜い自分。
 気が付いたら、香穂子の腕を掴んで自分の方へ引き寄せていた。わざわざ「俺の」彼女だと宣告して。

 香穂子が困っているから助けたんじゃない。
 彼女には、自分だけを見て欲しかったのだ。
 ……自分以外の他のどんな男にも。
 ほんの一時たりとも、気を向けて欲しくなかった。

「本当に、すまない……」
 それは、あまりにも勝手過ぎる独占欲だ。
 月森の方は、もう遠くはない未来に。
 香穂子ではないものを選んでしまうと決まっているのに。

「……大丈夫だよ」
 不意に、香穂子がそんなことを呟いた。
 驚いて香穂子を見下ろすと、香穂子はふわりと笑う。
「月森くんがウィーンに行っちゃうまで……ううん、行っちゃってからでも」
 柔らかく、甘く。
 どこか、誇らしげに。
「私、月森くん以外、見てないから」

 決して、その人物の内面を溶かして歌う、ヴァイオリンの音色だけでなく。
 触れる指や。
 囁かれる声や。
 生きているもの同士として触れ合って来た様々なものに。
 傷付いたり。哀しんだり。
 喜んだり、……幸せを感じたりして。
 恋をしてきた、そんな存在だから。

 たとえ、側からはいなくなってしまっても。
 多分、愛おしく見つめ続けるのは。
 目の前のこの人だけ。

「『月森くんのもの』でいいよ」
 それは、香穂子にとって。
 嬉しくて、そして誇らしい勲章だ。

 香穂子がそんなふうに。
 月森の矮小さも愚かさも。
 甘く笑って、許してしまうから。
 ただの我侭のように思える、この胸の奥の欲深さも。
 まるでそれが正しいもののように、感じてしまう。


 するりと月森の両腕が伸びて、香穂子の腰に回って。思いがけない強い力で引き寄せられる。
 抱き寄せられて、間近に月森の端正な顔を見上げることになった香穂子が、真っ赤になってひーっと小さく悲鳴を上げた。
「……俺がウィーンに行くまでの間だけでいい。それ以上は縛らない」
 香穂子にだけ聴こえる声で、月森はそう囁く。

 ……香穂子が、旅立つ自分を縛らない強さを持つ以上。
 それに見合う強さを、月森も持っていたい。
 そんなふうに、縛らなくても信じられる絆を、今は確信出来るから。

「だから、それまでの間……どうか、俺だけを見ていてくれ」

 それでも、ほんの少しだけ。
 君を縛るための我侭を。
 君が俺のものであるということの証明を。

「……うん」
 頬を染めたままの香穂子が、目を細めて頷く。
 同じように、月森の背中に手を回して縋り付きながら、真直ぐに月森を見つめた香穂子の瞳の中には。

 月森の願い通り。
 ただ、月森の姿だけが映っていた。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:08.1.3】

ちょっとスランプ気味で、何を書いていいのか分からなくなってた頃なのですが、チャットをやってみていろいろ萌えトークができて、意欲が湧きました(笑)ので、チャット中に出て来た「結構独占欲強い月森Ver.」を書かせていただきました。
キャラ壊さずに書けてるだろうか……(不安)

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