喧噪が好きではないし、何よりも、屋上から見える風景が好きなのだと、何かの折に話してくれたことがあったっけ。
今日はまだ、屋上に月森の姿はない。留学前で、雑事もいろいろあるのだろうからと香穂子は一人で納得する。
冬空の下で吹く風は肌に刺さるように冷たかったから、ここに香穂子以外の人間はいなかった。
月森がいなくなる、残り一年のこの学院内での生活。
どんな季節であろうとも、おそらくこの屋上で、空を見上げる頻度は高くなるのだろうと香穂子は予感する。
ベンチに座って、高い位置の空を見上げる。
……ここにいる時の月森が、いつもそんなふうだったことを思い出す。
……きっと、月森くんは分かってたんだよね。
見上げる空が、自分が遠くない将来に、飛び立つべき場所なんだって。
いつかは、君も一緒にって。
願ってくれたのに。
……ごめんね。
それでも私は。
そこには、行けないんだよ。
月森がいつも見上げていた。
いつか、自分が飛び立つべき空の風景。
高い、高い場所に在って。
容易には届かない。
でも、そこが自分の目指すべき場所なんだと。
行き着くべき場所なんだと。
おそらく、彼は理解っていた。
だから、この場所で空を見上げる彼の眼差は。
いつだって、揺るぎない。
でも、香穂子は違う。
月森がいつもいたこの場所で。
同じように空を見上げていても。
きっと、その視界一杯広がる空の蒼に抱く想いは。
月森の、それとは異なっている。
あの空のずっと向こうに、月森の生きるべき世界があるのだとしても、それは決して、香穂子が生きられる場所じゃない。
月森は、頭上の空を目指して飛び立てる羽を持っていても。
香穂子はただ、その空に憧れて、じっと上方を見上げているだけ。
存在を地に縫い止められて、仰ぐだけ。
……でも、その現実を。
決して、香穂子は嘆きたいわけじゃなくて。
ただ、実感してしまうだけなのだ。
だからこそ、その存在に焦がれるのだと。
「……香穂子?」
背後で、重い鉄製のドアが軋んで開く。
柔らかで落ち着いた、優しい声音が香穂子の名を呼んだ。
「待たせてすまない。……どこか、校内の暖かい場所にいてくれてよかったのに。……寒かっただろう?」
歩み寄った月森が、少し躊躇いがちに片手を伸ばし、香穂子の頬に触れる。
いつもは冷たい月森の掌が、その時だけはさすがに、香穂子の冷えきった頬に微かな温もりを与えて。
……嬉しくて、幸せで。
与えられた温もりで、心の奥で冷えて、凍っているものが、融けて溢れそうになって。
香穂子は、それを懸命に堪える。
少しだけ息を呑んで。自分の頬に触れる、月森の手に、そっと指先で触れて。
小さく、首を横に振る。
「……大丈夫」
……ただ、静かに目を閉じた。
離れることが、淋しくても。
逢えなくなることが、辛くても。
……ごめんね。
そこは、私が行ける場所じゃない。
……本当は。
ずっと心の深い場所で。
同じ場所を目指せたらと願っていたけれど。
もし、本当にそんな道を選んでしまったら。
飛べる力もないのに、踏み切ってしまったら。
自力で羽ばたける貴方とは、違う私は。
何かが出来る術もなく、ただ、墜ちてしまう。
……それだけなんだ。
月森がいなくなってしまって。
そうして、残りの一年、この学院で暮らしていく中で、おそらく、香穂子はこの屋上で過ごす時間が増えるのだろうと予感する。
海を越えて、遠い異国で生きる月森に、確実に繋がっている。
……そんな空を、ここは一番近くに見上げられる場所だから。
貴方が遠くに飛び立っていく鳥ならば。
私は地に縫い止められた飛べない鳥。
貴方が生きる場所は、私が決して届かない、遠い遠い地上から、見上げるだけの世界だから。
どこにも行けない小さな鳥は。
ただただ、頭上にある広大な空の風景と。
高く、遥か遠くへ飛び立つ鳥に憧れる。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:08.6.7】
すっごく淡々とした話ですね(^^;)私的にはとても書きやすいんですが、好き嫌いが分かれそうだなという気もします。
なんといっても、香穂子の視点で書くというのが自分としては新鮮です(笑)
才能とか実力の差というより、単にこの二人のヴァイオリンの種類の差かと思いますので、香穂子の素直な心情として受け止めていただければと思います。


