電話

月森×日野

 見慣れぬ枕元の時計を見ると、もうあまり早い時間とは言えなくて、香穂子は一瞬躊躇する。
 だが、気を取り直して携帯を持ち上げた。意識しなくても慣れている動作で目当ての番号を呼び出して、回線が繋がる音に耳を澄ませた。
 目を閉じて待っていると、すぐに回線の向こうにいる人物が、この目には見えない絆を繋いでくれる。
『もしもし……香穂子?』
 穏やかな、優しい声が。
 香穂子の名前を呼んだ。

 蓮のように、名前だけでそれと分かる仕事をしていない香穂子だが、それでも月に入ってくる給金に比例することなく、時間的には多忙な日々を送っている。今日も所属している小さなオーケストラの公演に参加する形で、普段暮らしている場所とは異なる、遠い南の地に降り立っていた。レコーディングが続いている婚約者の蓮とは、しばし、離れ離れの生活だった。
『そっちはどうだ?……変わりはないか』
 常識的には電話していい時間ではないと思うのに、香穂子からの電話に怒る様子はなく、蓮は真っ先に香穂子のことを気遣ってくれる。……そういう、何気ない優しさが、少しだけくすぐったくて、とても愛おしい。
「うん、大丈夫。あ、でもね。こっちは気温からして、全然違うんだよ。そっちの気温に合わせて着替え持って来たら、失敗しちゃった」
『そうか。……まだ、暑いんだな。そちらは』
「うん」
 受話器越しの蓮の声は、いつも顔を合わせて喋る時より、少しだけ落ち着いて、低くて。
 面と向かってなら話すことのない、他愛無い話をすることが、少し照れくさい。
 うん、と頷いてしまったら、もう続く言葉がなくて。
 香穂子は、慌てて頭の中で話題を探す。
「蓮は、今何してるの?」
『俺?……俺は、ゆっくり楽想でも練ろうかと思って、紅茶を用意しているところだ』
 言われてみれば、受話器の向こうで、かちゃ、と陶器が触れ合う乾いた音がする。香穂子が大仰に顔をしかめた。
「うわ、聞くんじゃなかった」
『どうして?』
「飲みたくなった。蓮が煎れた紅茶」
 憮然として香穂子が言うと、蓮が向こうで楽しげに笑う気配がした。


 こんなふうに、お互いが離れた場所にいないと。
 電話越しの、言葉だけの会話でないと。
 分からない一面と。
 気づけない幸福とがあって。

 きっと、顔を見合わせて過ごす空間の中では、生まれることのない話題。他愛無さ過ぎる会話。
 天気の話とか。
 些細な心配事とか。
 今、この瞬間の互いの仕草だって。
 こうして電話を使うことでしか、分からない。
 目の前に本人がいては、味わえないもの。
 それは、貴重で。確かに嬉しいものの欠片で出来ていて。
 ……だけど、結局は。

 お互いの存在を、目にすることも、触れることも出来ない。
 それほどに、遠く離れてしまっている。
 そんな現実の、裏返しでしかなくて。

(淋しいなあ)
 蓮に気付かれることのないように、ささやかな話題に言葉を返して、笑いながら。
 香穂子はこっそりと思う。

 逢えなかった日々は過去にずっと、長く続いていたのに。
 今、当たり前のように彼の側にいることを許される現実こそが、香穂子をその頃よりももっと弱くする。

 数日すれば、あの存在の傍らに戻れるのに。
 ……もう、いつでも。
 願えば、あの存在に触れられるのに。
 その事実こそが、余計に。
 たった数日間の別離を、寂しいものにする。

『……香穂子?』
 日付が変わって。
 他愛無い会話のストックも、底をついて。
 流石に、もう電話を切らなければいけないかなと、香穂子が不安に思い出した時。
 受話器の向こうで、優しい声は。
 少しだけ、悪戯心を含んだような声で、香穂子の名前を呼んだ。
「ん?何?」
 狭いホテルのベッドの上に、両足を投げ出して。
 固い枕に背中を預けた香穂子が、その声に応じる。
『君は、明日の朝、早いのか?』
「え?……えっとね、公演が夜だから、昼過ぎからリハーサルする予定」
『じゃあ、少しくらい夜更かししても、平気だな』
 からかうように言う蓮の言葉に。
 香穂子が、呆気に取られてぱちりと瞬きをした。

『話題は何でもいい。……もう少し、話さないか』

 ねえ、蓮。
 私が寂しいと思うくらい。
 貴方も、寂しいと思ってくれている?

 電話があまり好きではない貴方が。
 もう少し、この会話を引き延ばしたいと。
 そう、願ってくれるくらいには。

「……うん、いいよ」

 嬉しそうに笑って、そう答えて。
 香穂子は、もう少し長く彼と繋がっている為の、他愛無い会話の続きを探す。



 遠い、離れ離れの場所で。
 別々の人間として、生きている自分達は。
 今この瞬間に、互いに触れることも、眺めることも出来ないけれど。
 それでも、掌に収まるくらいの小さなアイテム一つで。
 自分達の存在は、間違いなく、繋がっている。

 側にいないことは、どんなに強がってみても、やっぱり寂しくて。
 心の中を、不安で埋め尽すこともあるから。

 せめて、眠くなるまでの時間。
 ……それが、例えば夜が明けるまでの長い長い時間でも。
 繋がり続けていたい。

 その絆を繋ぐものが耳元に響く。
 互いの声という、形のないものだけであっても。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.11.26】

電話の必要性って離れてこそかなと思うんで、こんな話に。
あと、BGMにしていた曲の影響を受けまくリなことも否定しません(笑)ちょっと雰囲気が軽めですけどね。余談ですが、うち香穂子は大学卒業後、地元の小さなオーケストラに所属しつつ、某バンドのストリングスを担当してます。ええ、私的設定補足でした(笑)

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