突然鳴らされた玄関の呼び鈴に、日野家の長男は一瞬怪訝な表情をした後、そういえば末の妹が友人と初詣に行くと言っていたことを思い出した。
妹が夕飯の際にそのことを切り出した時、母と姉は意味ありげな笑みを浮かべ、父は見るからに仏頂面になった。……その反応で、すでにどんな種類の友達と妹が初詣に出かけるのかは明白だった。
県外の大学に通う自分は、年に数えるほどしか実家には戻らない。両親はどちらかと言えば放任主義であるし、姉はいちいち実家で起こった些末なことを自分へと報告してくるような、マメな人間ではない。そんな家族に囲まれた妹も、別に淡白でも薄情でもないのだろうが、どこかほわほわとつかみ所がなくて、これまた自分に何もかもを暴露するタイプの人間ではない。猫っ可愛がりにしてきたというわけでもないから、特に自分に報告しなければならないという義務感もなかったのだろうが、幼い時分には「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と慕って後を付いてきたような頃もあったのにと、自分だけがそれを知らされていなかったことは、少しだけ疎外感を感じて、寂しいような、悔しいような心持ち。
妹に、彼氏が出来ているなんて。
明らかな反応があるということは、両親と姉はその妹に初めて出来た彼氏を一度なりとも目の当たりにしているのだろう。仲間はずれというのも納得いかないし、長男は他の家族を目線で制し、立ち上がった。家の中に響いた呼び鈴の音に、二階の自室で出かける準備をしていた妹が何やら慌て出す気配を感じたが、そんなものにはお構いなしで、紅白を見るお供に摘んでいたスナック菓子を唇の端に挟んだまま、インターフォンを使うことなく、長男は玄関のドアを押し開けた。
「はい、どちらさん……」
玄関のドアを開けると、そこには一人の青年が立っていた。突然開かれたドアに驚いたように視線を向け、また見慣れぬ人物を目にしたことで、彼の涼やかな眼差が微かに見開かれる。一方、そんな彼を目の当たりにした長男の方も、あまりの驚きで、思わずぽかんと口を開けて、唇に挟んでいたスナック菓子を取り落としそうになった。
(なんっっっっじゃ、こりゃ!?)
一言で言えば、正統派の美形とでも言えばいいのだろうか。
細身の長身とさらさらの髪。端正な顔立ちと、すらりと伸びた四肢。高校生ならではの固さはあるものの、文句なしの美青年である。
まじまじと自分を見つめる長男に、青年は少しだけ困ったように首を傾げ、落ち着いた声音で口を開いた。
「夜分に申し訳ありません。香穂子さんと初詣に行く約束をしていたのですが……」
口調の丁寧さは、明らかに育ちの良さを感じさせる。……姉と母の意味ありげな笑みと、父親の仏頂面を思い出した。
「……あー、香穂は今準備してるっぽいから、少し待ってやってくれる?」
「はい、分かりました」
答えると、安心したように表情を和らげ、彼は頷いた。そんな些細な仕草まで絵になる青年だ。
長男はもう一度、爪先から頭のてっぺんまで、まじまじとその青年を見つめる。視線を反らしてそんな無遠慮さに耐えていた彼だったが、しばらくの間の後、眉を寄せてちらりと視線をこちらへと向けた。
「……あの?」
「ん?……あ、悪い悪い!えっらい綺麗なお兄ちゃんだと思ってさあ。あれだよな?君って香穂の彼氏……」
「……ええ」
困ったような表情のまま、彼はもう一度頷いた。だが、その淡白な反応の割に、目尻の端がほんの少しだけ赤く染まったように見えたのは、おそらくは見間違えではないだろう。
その素直な反応は、長男にとっては好印象だった。
「少年、お名前は?」
軽い口調で長男が尋ねる。少しだけ驚いたように視線を流した彼が、どこか呆れたような雰囲気で微笑んで、答えた。
「月森蓮です」
「じゃあ、月森くん。……妹のこと、よろしくね」
前触れもなく、脈絡もなく告げた一言に、青年……月森蓮の涼やかな眼差が、微かに見開かれる。
「あのさ、いい子だから。うちの妹。兄貴の俺が言っても、そりゃ、あれだ。兄馬鹿な発言だけどさ」
だけど喧嘩をしても、離れて暮らしていても。
それでも、あの子はたった一人の大切な妹だから。
「天然ボケで、マイペースで、お馬鹿で、不器用でええとそれから……」
「お、に、い、ちゃ、ん?」
一言一言をわざと区切って言い、後ろから伸ばされた指先が、容赦なく流暢に語る兄の耳たぶを引っ張った。
「いってえ、何しやがんだこの馬鹿香穂!」
「月森くんに変なこと吹き込まないでよね!」
耳を押さえて叫ぶ兄に、ぴしりと指先を突き付け、香穂子が玄関に用意していたスニーカーに足を突っ込んだ。
「初詣だろ?着物でも着ればいいのに。彼氏にちゃんとサービスしないと、逃げられるぞ。……それがサービスになるかどうかははなはだ疑問だがな!」
「うるさいな! 人が多いからやめたんだよ、着物。すぐに崩れちゃうでしょ」
スニーカーの靴ひもをしっかりと結び直し、玄関先で悪態をつく兄に、香穂子は呆れたように言葉を返す。三和土で爪先を叩き、手袋をしっかりとはめ直して肩ごしに兄を振り返った。
「ってことで、行ってきます!」
「おう、気ィつけて行って来いや」
ひらりと片手を振って、兄はあっさりと奥のリビングへと姿を消す。一部始終を眺めていた月森が、少しだけ苦笑したので、香穂子は急に恥ずかしくなった。
「……ごめん。見苦しいものをお見せしました」
「いや、そんなことはない。……何だか、香穂子のお兄さんだなと思って」
玄関を閉じて外へ踏み出すと、冷たい空気が澄み渡っていた。見上げると、遠くに微かな星の光が瞬いている。
「初対面なのに、あまり作った対応をしない人だ。……そういう人が香穂子のお兄さんだと思うと、納得する」
「……それは、褒められてるのか貶されているのか分かんないよ……」
月森の言葉に、香穂子が小さな溜息をついた。
微かに笑う月森が片手を差し伸べると、何の違和感も抱かずに、香穂子が反射的にその手を握る。
「……こんなことを言うと、君に笑われるかもしれないけれど」
前置きをして、月森はどこか遠くを見るように視線を前に向けた。そんな彼の横顔を、香穂子が仰ぎ見る。
「もしかしたら。……将来、あの人が自分の兄になる。……そんなこともあるのかもしれないと思って」
「え……は!?」
「それくらいの夢は見たっていいだろう?……俺は、一人っ子だから。もしあの人や香穂子のお姉さんが自分の兄や姉になるのなら。……きっと、楽しいんじゃないかと思ったんだ」
冗談のように。
夢物語を語るように。
月森の言葉は、優しくて柔らかな、明るい言葉だったけれど。
その一言に凝縮されるものは、幼い頃の彼が抱いていた、どうしようもない寂しさのように思えて。
香穂子は、言葉を失った。
気遣わしげに自分を見る香穂子の眼差に気付いた月森は、少し困ったように笑う。
「……だから、ちょっとだけ想像してみた。君とお兄さんが話している時に。俺が、君達の兄妹の中に入って、義理であっても兄弟という形になるのならば、君達のように会話ができるのかと」
「んん?……私達みたいに?」
香穂子も、前方を見据え、歩きながら想像してみる。
先ほどみたいに、夢のようなことを空想するのではなく。
ただ、冗談のように、そんなシチュエーションを。
……しばしの沈黙の後、香穂子が複雑な表情でもう一度月森を仰ぐ。
月森が、深く頷いて、苦々しく呟いた。
「……申し訳ないが、全くあんなふうに打ち解けた会話をする自信がない」
心底困ったような月森の一言に。
思わず香穂子は吹き出した。
自分に、彼女とあの人のような、打ち解けた空気を作ることは難しいだろうけれど。
それでも、人付き合いの上手くない自分でも、香穂子の家族とは上手くやれそうな、そんな気がしている。
それは、もしかしたら月森の勝手な思い込みや判断でしかないのかもしれないけれど。
(妹を、よろしくね)
明るく言って、大切な妹をこんな自分に預けてくれたあの人の、あの言葉を思い出す限り。
いい加減に放り出すのでもなく。
不必要に縛り付けるのでもなく。
少しだけ離れている場所から、彼女の意志を尊重しながら、見守っている。
あの人達は、自分が愛すべき今この手で繋がっている存在を、慈しんで育んだ存在だ。
あの人達自身のことはよく分からない。
あの人達も自分のことをよくは知らない。
ただ、香穂子を大切にしたいと思う心だけが同じ。
だから、赤の他人の自分達も、ほんの一部分の場所でだけ分かりあえる。
たとえ、その思いの色は自分とあの人達とでは違っていたとしても。
心の有り様は、きっととても近い場所にあるはずだから。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.6.5】
珍しく、別のお題を練ってる時にすとんと降ってきた話です。
後半はちょっと感覚的で、もう少し書き起こせたかなという気がしなくはないんですけど、なんつーか、月森と香穂子と香穂子兄のやりとりが書いてみたかった(笑)
こんな弟ができたら兄としてどうなんかなと思うんですが、当サイトの香穂子の兄ならば、案外全然気にしないかもなと思って、こんな話になりました。


