あんなに綺麗な姿勢の男の子は他に知らないから、香穂子は躊躇わずにその背中を目指して、全速力で駆け出した。
相手は歩いているだけなのに、その歩みには迷いがないから、なかなか追い付かない。息を切らしながら走り続けて、その背中をぽん、と掌で叩いた時には、既に学校の敷地を脱出していて、正門からも随分と離れていた。
「……日野?」
突然背中を叩かれた月森が、驚いたように振り返る。思いがけない突然の全速力で、息も絶え絶えの香穂子は、月森の名を呼ぶことすら出来ず、荒い呼吸を繰り返しながらがっくりと項垂れる。
「日野……その……大丈夫、か?」
香穂子の疲労困憊ぶりに、月森が生真面目に眉根を寄せ、恐る恐る尋ねる。ようやく呼吸が落ち着いた香穂子ががば、と顔を上げた。
「うん、平気。『月森くんだー』って思ったから、追い付くのにちょっと頑張っちゃった」
屈託なく笑い、香穂子が告げる。そんな香穂子に苦笑して、月森は香穂子を片手で促して、歩き出す。
今度は香穂子が無理をしない、ゆっくりとした速度で。
「無理をしなくても、後ろから声をかけてくれればよかったのに」
「一瞬それも考えたんだけど、『月森くーん!』て絶叫して周りの視線釘付けにしちゃったら、物凄く不機嫌に振り返りそうだなって想像しちゃったんだよ」
事実、少し前の月森なら、香穂子の想像通りの反応をしてくれていただろう。今では、きっとそんなにあからさまに不機嫌にはならない。……そのくらいの距離には近付けたと思ってはいるのだけど、それだけ近付けたと思う分、今度は香穂子のほうが月森に余分な迷惑をかけたくないと思ってしまう。
好きな男の子に、不快な思いはさせたくない。
それが、どんなに些細なことであっても。
「確かに余計な注目はもうこりごりだな。コンクールに参加するようになって、随分と周りがうるさくなった」
溜息と共に、月森が小さな愚痴をこぼす。
それはきっと、他の誰にも見せない内側の月森のはずで、月森にしてみれば単なる世間話のつもりでしかないのだろうけど、それでも香穂子は嬉しかった。
他愛無い話を、躊躇わずにしてくれることそのものが、月森が香穂子に少しだけでも心を開いてくれる証のようで。
「でも、月森くんのヴァイオリンと出会えたから。私はコンクールに参加出来て嬉しい」
ヴァイオリンだけじゃなくて。
月森蓮という存在に出逢えたことそのものが、香穂子にとって、コンクールに参加することで得た大きな収穫なのだけれど。
流石にそんな本音を晒すには、まだ勇気が足りなくて。
「……そうだな」
柔らかい声で、月森が応じる。
「俺も、君のヴァイオリンに出会えたのだから。……このコンクールに参加出来たことが、とても嬉しい」
家族のことも、これまで月森が辿った軌跡も関係なく。
ただ、奏でる音だけを好きだと言ってくれる女の子。
彼女がコンクールに参加していなかったなら。
きっと、自分はこの傍らの居心地のいい存在を、知らないままに生きていた。
出逢ってしまった、今になって振り返ってみると。
……それは、とても。
とても、怖いことに思えるのだ。
そのまま、しばらく。
何を話すこともなく。
互いの歩く、ゆっくりとした足音を聴きながら。
茜色に染まる夕暮れの帰り道を、二人で辿る。
言葉がなくても。
交わすものがなくても。
ただ、隣に互いがいるだけで。
存在がある片側が、とても暖かい。
二人を出逢わせてくれたコンクールが終わったら。
自分達は、どうなるのだろう。
こんなふうに、当たり前のように家路を共にすることも。
もう、なくなってしまうのだろうか。
こんなに……こんなに、暖かな存在が。
自分の側からなくなってしまうなんて。
なんて、寂しくて。
なんて、怖い。
香穂子はふと月森の横顔を見上げる。
絶妙のタイミングで月森が香穂子を見下ろして。
二人の視線は綺麗に一直線上に揃ってしまう。
何となく、そこに同じ感情が潜んでいる気がして。
自惚れるよりも前に、本能で、それを察知して。
暖かな夕陽の逆光を浴びる互いの視線の中に。
月森も、香穂子も。
お互いがお互いに向ける、確かな想いを探す。
そこにあるのはきっと。
この夕焼けの空のように。
優しくて、暖かく。
そして、鮮やかな色彩で。
寄り添う片側から、ゆっくりと自分の色を、相手の色に染め変えていく。
……そんな強い感情で。
引き寄せて、惹き付ける。
そんなふうに振り回されてしまうことすらも。
何もかもが幸せだと想ってしまう存在に。
逃れようのない恋をすることも。
きっと全ては自然の摂理。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:07.3.18】
リクエストの「互いに片想いな月日」をお送り致しました。
個人的には書こうと思ったものは全部詰め込んですっきりなんですが、あまりにあっさりしすぎててどうかと思います(笑)


