コンタクト

月森×日野

 いつものように玄関の門扉から一歩を踏み出して、そこで自分を待っている人を一目見た時に感じた違和感の理由が、香穂子は最初、よく分からなかった。
 ぱちぱちと瞬いて、頭のてっぺんから爪先まで目の前の人物を眺め、香穂子はようやく合点が行く。いつもは何も覆うものがない彼の端正な顔の上方で、細いフレームに縁取られたレンズが太陽の光を反射した。月森が眼鏡をかけているのは、専ら私服姿の時だから、見慣れた制服姿と眼鏡姿が、香穂子の記憶の中で綺麗に重ならなかったのだ。
「珍しいね、どうかしたの?」
 段差を降り、香穂子が月森を見上げると、ああ、と応じた月森が、居心地が悪そうに、指先で眼鏡の位置を調節する。
「どうしても、コンタクトが入らなかったんだ」
「そっか……」
 頷きながら、香穂子はじっと月森の顔を眺める。
 本来なら、眼鏡をかけるとちょっと真面目っぽく見えたりして、硬い印象になるのかもしれないが、月森の場合は真逆の印象になる。
 元々何もかけていない時には、涼やかな眼差で、眼光の強い人だから、逆にレンズを一枚通すことで、彼の雰囲気はどこか穏やかな印象に変わる。
 ……香穂子だけが知る本当の彼が、そうであるように。
 月森は、学校に行く時に眼鏡をかけていることはほとんどない。
 一度だけ、入学したての頃に今日みたいにコンタクトレンズが入らなくて、眼鏡で登校したことがあったが、周りにやたらと注目を浴びて、こそこそと陰口を言われたために懲りたのだと、いつか溜息混じりに教えてくれたことがあった。……それは、かっこいいからだよとは、香穂子もいちいち口には出さなかったが。
 だが、春のコンクール以降、月森の名前は普通科にも知れ渡っているし、今こんなふうにイメージチェンジで学校に赴けば、また話題になること間違いないのだろう。香穂子の友人である天羽が、意気揚々と写真でも撮りに来そうだ。
 そんな意欲満々の天羽と、きっととても不機嫌になるであろう月森の対峙を想像すると、簡単に画像が目に浮かぶだけに、思わず香穂子はくすくすと笑う。
 ……笑いながら、ちょっとだけ、淋しい気持ちになった。

 周りの過干渉に煩わされない時の月森は、香穂子だけが知っている月森の姿で。
 最近では見慣れて来た、普段着姿の月森も、眼鏡姿の月森も、おそらくは、香穂子だけが知っている、香穂子だけの特権。
 月森という人物が、皆が誤解しているように、冷淡でも冷徹でもなく、本当は穏やかで優しい人なのだということを、沢山の人に知って欲しいという希望はある。
 でも、いざそういう面を自分以外の人間が垣間見ることは、少しだけ、淋しいような、悔しいような気分になる。
 そういうもやもやとした感情が、独占欲という名前を持っているものだと、香穂子は知っていた。
(……仕方ないよね)
 本当の意味で、誰かを独り占めになんて、できるわけがなくて。
 珍しい月森の一面を沢山の人が見ることで、凝り固まっている「月森像」にちょっとでもヒビを入れる事が出来るのであれば、きっと悪い事ではないのだろう。

「……香穂子?」
 肩を並べて歩きながら、押し黙ってしまった香穂子を月森が覗き込んで伺う。はっと我に返る香穂子が、慌てて月森の顔を仰ぎ見た。
「どうかしたのか? 俺は、何かおかしかっただろうか?」
 あまり馴染んでいない眼鏡での学生生活ということで、月森にも若干の不安があるようだった。過去に好奇の視線に晒された事も、打ち明けてくれた時の様子からすると、あまりいい意味には捉えてなかったのだろう。香穂子の沈黙も、何かマイナスのイメージを与えてしまったのかもしれない。
「ううん、おかしいとか、全然ないよ!」
 慌てて弁明して、香穂子はつい勢いで。
 いつもの調子で、言わなくていい言葉を、付け加えてしまう。
「むしろ、いつもと印象ガラって変わっちゃって、女の子の注目の的だろうなって思うし、そうなったら、私だけが知ってた眼鏡の月森くんも、皆が知っちゃって、ちょっと勿体無いなあ……」
 そこまで言って、香穂子は思わず掌でぱたんと口に蓋をする。
 目線を上げて月森を見ると、何だか驚いたように目を丸くして、月森は香穂子を見ていた。完全に余計な本心を付け加えてしまった自分を、例のごとく心の中で猛烈に反省しながら、香穂子は作り笑いで「な……なんて、ね?」と誤魔化してみる。
(……ああ、もう、どうにかなんないのかな、この性格!)
 月森側の、赤く火照る頬を片手で押さえ、香穂子は小さな溜息を付く。
 月森は、「伝えてくれる事は嬉しい言葉ばかりだし、素直な君らしいから」と慰めてくれるのだが、この話の流れでつい本音を漏らしてしまう自分の迂闊さはどうにか治さなければならないと香穂子は思う。
 そのうち、この馬鹿正直な性格で、身を滅ぼしそうな気がする……。

 そんなふうに自己反省する香穂子は、ふと、自分の隣を歩いているはずの人物が、隣にいないことに気が付く。怪訝に思いながら背後を振り返ってみると、数歩後ろで、月森が立ち止まっていた。
 同じように、踵を返してその場に立ち止まった香穂子の前で、月森の長い指先がすっと眼鏡を外した。器用に片手でその眼鏡を畳み、一瞬、それをどこに片付けるかに迷った月森は、最終的に自分のジャケットの胸ポケットに、その眼鏡を差し込んだ。
「え……えっと……?」
 戸惑って香穂子が見つめていると、くすっと小さく微笑んだ月森が、視線を伏せながら大きなストライドで、香穂子の元ヘ追い付いてくる。
「……君だけが知る俺は、他の誰かに見せない方がいいんだろう?」
「そ、そこまで言ってないよ!」
「じゃあ、違うのか?」
 香穂子に追い付いた月森が、甘い笑みを滲ませながら、香穂子の顔を覗き込む。眼鏡を外してしまった月森は、近付かないと香穂子の顔が見えないから。……その理屈は、分かるのだけれど。
「……ち、違わない、けどっ!」
 端正な月森の顔が、息がかかるほど近い。何だかそれだけで、香穂子の脳はパニックを起こしそうになる。……多分、それも白状したら、今更だと月森は笑うだろうけど。
「なら、いいだろう? 君が滅多に言わない我侭だから、聞く価値は十二分にある」
 わずかに香穂子から身を離して、月森が視線を伏せる。思わず香穂子はどきどきする自分の心臓を制服の上から押さえる。
「で、でも、不便なんじゃない?」
 上目遣いに香穂子が尋ねると、月森は何でもない事のように答える。
「さすがに授業中はかけるから、問題はないと思う。授業中にいちいち俺を眺めているような物好きはいないだろうし、そもそも俺の席は後ろの方だから」
 物好きは多いと思うよ、と突っ込みそうになったが、香穂子はその言葉を懸命に呑み込んだ。
「強いて言えば不安なのは、こうして歩いている時なんだが……」
 言いながら、月森がそっと手を伸ばす。
 香穂子の空いている片手を取って、しっかりと指と指とを絡めた。
「……なっ!」
 途端に、香穂子が真っ赤になる。
 反射的に振り払おうとする香穂子の動きを封じるように、月森がもっと強い力で、指先を繋ぐ。

「君が、こうして学校まで俺を導いてくれればいい。……それなら、問題ないだろう?」

 にっこりと笑う月森に、何だか、とても。ものすごく。
 詭弁で言い包められたような気がしなくもなかった香穂子だったけれど。

「……仕方ないなあ」

 頬を染めて、笑って。
 香穂子は、その月森の分かりやすい詭弁に、騙されてみる事にする。

 だって、特権を特権のままにしておいてくれる、月森の気持ちも。
 繋いだ手の温もりも。

 香穂子にとっては、ただただ嬉しいだけのものだったから。


 他の誰も知らない姿を、自分だけのものにしておきたい独占欲と。
 そんな欲を、愛おしく想う感情とが。
 何気なく、些細な、他愛無いただ手を繋ぐだけの『接触』を。
 ほんの少しだけ、優しく、甘く。
 そして、とても濃密なものにする。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:08.9.3】

友人たちとのチャットで「眼鏡月森」という話題が出まして、何となく頭の片隅で「メガネメガネ~」と唱えつつ書いてみた話。
月森の視力がどのくらいか知りませんが、目が悪い人はホントに道歩くのですら結構怖いもんですよ-。
そして、「コンタクト」というお題には、2つの意味合いを込めてみたり。

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