「大丈夫か? 体調が良くないのなら、どこか屋内の練習場所を探すが……」
「ううん、ちょっと肌寒いなってだけだし……。ヴァイオリンを弾き出せば気にならなくなるから、大丈夫」
慌てて香穂子が片手を振って、弁解する。そうか、と一つ頷いた月森は、ベンチに座ってヴァイオリンの準備をしている香穂子に背を向け、また自分の練習を再開する。練習中の曲を二、三小節弾き終わった後、不意に月森の流麗な音色が途切れる。香穂子が驚いて顔を上げるのと、月森が身を翻し、ベンチの方へ戻って来るのが同時だった。
「一つ、用を思い出した。すぐに戻るから、君は練習を進めていてくれ」
「え?……あ、うん」
分かりました。と頷いた香穂子に、ヴァイオリンと弓とをきちんと律儀にケースに収めた月森は、振り返ることもなく森の広場を去って行く。しばらくぼんやりとその均整の取れた背中を見送った香穂子は、またふわりと吹いた秋風に身を震わせて、はっと我に返った。
「いけないいけない、練習、練習~っと」
ベンチの上に楽譜を広げ、強い風に飛ばされて行かないように、しっかりとクリスタルのお気に入りの文鎮を置いて。徐にヴァイオリンを片手に立ち上がった香穂子は、その楽譜を覗き込みながらこれから弾く部分の音譜の配列と、脳内に残っている旋律の流れとを確かめる。
それと、先程月森が弾いていた旋律の断片。
あの音色に、上手に綺麗に。重なるように。
あの音色に、違和感なく、融け込むように。
爪先でリズムを取り、目を閉じて香穂子は弦の上に弓を滑らせた。
(寒くなって来たから、屋外での練習はこれから厳しくなるかなあ)
ゆっくりと、一音一音を確かめるように音を繋ぎながら、香穂子はぼんやりとそんなことを考える。屋外は全てが解放されてしまって、音の反響がほとんどないから、アンサンブルコンサートの出来を考えるのであれば、屋外の練習が不向きであることは重々承知している。
それでも、香穂子は外で練習することが好きだった。
聴衆があまり気負うことなく香穂子たちの練習を耳にし、忌憚なく意見や拍手をくれたりするし、何よりも遠くまで音が広がって行くような開放感が、香穂子はとても好きなのだ。
(君の音は、外で聴いた方が幾分自由なように感じられるな)
……いつか、月森がそう言ってくれたことも、理由の一つなのかもしれない。
(……君は、きっとその方がいい)
何にも縛られず、自分なりのスタンスとスピードで。
自分なりの音色を目指して行く方が。
区切りのいい箇所まで弾き切って、ふ、と息を吐いたところで、背後からはっきりとした拍手が起こる。
驚いて振り返れば、いつの間にか月森が戻って来ていた。
「え、つ、月森くん、いつの間に?」
「数分前だろうか。集中していたから、声をかけるのが躊躇われた。……上達して来たな。この間指摘した箇所が、突っかからずに弾けていた」
「そう……かな。まだまだなんだけど……」
誉める月森に照れながら言うと、それもそうだなと苦笑して月森は視線を伏せる。……そういうところは彼らしい部分だから、香穂子も苦笑いして肩をすくめた。
「自分の演奏に満足をしないのは、まだ上達の余地があるということだ。到達点を高い場所に設けるのは、別に悪いことじゃない」
「うん……だよね。もっともっと頑張らなきゃ!」
弓とヴァイオリンをぎゅっと握り締めて、香穂子が神妙に頷く。そんな香穂子に小さく笑い、月森が香穂子を手招く。
「気合入れは、必要だとして。……少し、休憩をしないか?」
「え? で、でも、私まだ全然練習始めたばっかりで……」
「だが、肌寒いのだろう? ……だから」
珍しく口籠る月森が、片手でベンチの上を指し示す。
そこには、香穂子が練習を始める前までは存在しなかった、暖かいストレートティーとミルクティーの缶が、楽譜を固定したクリスタルの文鎮の横に、丁寧に並べてある。
「……それって」
練習を始めたら、簡単に中座をすることのない月森が、急に練習を中断して、この場を立ち去った訳。
それは……。
「月森くんの、用って……。もしかして、私がくしゃみなんかしたから、これを、わざわざ買いに行ってくれたの……?」
「……別に、君だけのためじゃなく。俺も喉を潤すものが欲しかったし……それに、寒くて指がかじかんだりしているのなら、練習をしても有意義な練習にはならないから……だから」
それだけだ、と月森は香穂子から目を反らし、言葉を切る。
……その横顔が、ほんのりと赤く染まっているのは、夕暮れの茜色に染まっているから、なのだろうか。
「……ありがとう」
胸の奥が、くすぐったくて。
嬉しくて、幸せで。
その心の奥の暖かさが、そのまま表ににじみ出て来るみたいに、頬が熱くなるのが分かる。
月森の頬の色の意味も、この鮮やかな夕焼けの所為にしておくから。
香穂子の頬の色の意味も、月森が心の中で、同じ理由にしておいてくれればいいなと願いながら。
香穂子は、慌てて月森と、彼が運んでくれた暖かく甘いミルクティーが待つベンチへと、駆け戻った。
「……うーん、なかなかいい絵じゃん?」
両手の親指と人指し指をL字に伸ばして、長方形の輪郭を取りながら、天羽はその矩形の中に切り取った風景に、一人満足げに微笑んだ。
指で作った縁取りの中に切り取られたのは、夕暮れの森の広場のベンチに座る、二人分の人影。
校内の自販機で調達して来たらしい缶の紅茶をそれぞれ片手に持って、何事かを談笑している、何気ない日常の風景。
それはどこにでもあるような、当たり前の景色でしかないけれど。
でも、この夕焼けの茜色。
その暖かな色に融け込んでいる、あの二人が醸し出す暖かく優しい、ほんの少しだけ甘いような雰囲気は、きっとあの二人だからこそ生み出せるもので。
「知らぬは本人ばかりなり、ってね」
苦笑して呟きながら、天羽は掲げていた両手をそっと下ろす。
写真を嗜む人間としては、この綺麗で優しい風景をきちんとフィルムに収めてみたい気持ちはあるけれど。
それでも、そんな無機質なもので、今天羽があの二人から受け取る印象が正確に切り取れるとは思えないし、逆にうっかりむやみやたらに触れてしまえば、儚く崩れ去ってしまうもののようにも思える。
(だから、今は私の心の中に留めておきましょ)
この目が捉えた一枚の絵の色が、夕焼けの茜色に映えて。
とても暖かで、優しくて。
そして、どこまでも甘い理由は。
あの二人だけが、互いに知り得ない、相手に向かう同じ想いにあるのだと。
今、天羽が何か、あの二人に伝えることが出来ないのだとしても。
いつか、そのことを知る瞬間が来たのなら。
今はお互いに知ることのない、二人が寄り添う一枚の絵の名前を。
あの二人も、嫌でも思い知ることになるのだろうから。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:08.10.25】
萌え所がない気もするんですけど、雰囲気重視の話は私が書きやすいです(笑)
ネタだけは結構前から持ってたんですが、形にするに到らなくて、ずっと夕焼けの茜色の風景の中で、ベンチに座って笑ってる月森と香穂子のイメージだけが頭の中にありました。
上手く形に出来たでしょうか?


