窓越しの風景は

月森→日野
リクエスト作品

 何気なく見下ろした窓の下。
 屋内から漏れる明かりにぼんやりと照らし出された小柄な女性の人影。
 ヴァイオリンケースを足元に、ベンチに座ったまま動こうとしない。
(……俺にも、あんな時があったような気がする)
 どこかに辿り着きたいのに、何処へも行けなくて。
 途方に暮れて、立ち止まっていた。
 そんな時……背中を押したのは。
 気持ちを切り替えるきっかけになったものは。

(多分……あの言葉だった)


 ……月森くんの演奏に意味がないなんて。
 ……そんなこと、言わないでよ……!


 そんなふうに、立ち止まっていた自分の背中を押してくれたのが、彼女だったから。
 ……自分も、何かを。彼女に伝えたくなったのかもしれない。


 階段を降りて、廊下を横切り、裏庭の方へ廻る。
 何と声をかけようかと迷いながら歩いていると、ふと誰かの会話が聴こえて来る。
 月森は、ぴたりと足を止める。
 それは、紛れもなく日野香穂子と。
 彼女と一緒にこの合宿に現れた、土浦のものだった。

 壁に背を預けたまま、月森は二人の会話を聞いた。
 盗み聞きするつもりは毛頭なかったが、だからといって、今更のこのことあの二人の前に出ていけるはずがない。
 静かな夜の帳の中、二人がぽつぽつと話す声だけが聴こえていた。

 日野の弱音。
 それを励ます土浦の言葉。

 そんな二人の会話を聴いているうちに。
 月森は、何か自分が情けないような気持ちになった。

(……何を言うつもりだったんだ)
 見下ろした窓越しの風景の中、明らかに彼女が何かで気を落としているのが分かった。
 でも、月森は知らない。
 日野が、何に傷付き、何に気落ちして、あんなふうに夜空の下、たった一人でベンチに座っていたのか。
 ……例えば仮に、その理由を知っていたとしても。
 彼女の傷を理解していたとしても。
 自分は何一つ、優しい言葉を……土浦のように、彼女の心を癒す言葉を。
 与えては、やれなかっただろう。

(分からないんだ)
 どんな言葉が、誰かの傷付いた心に響いて。
 どんな言葉が、その心を奮い立たせるのか。
 人付き合いの苦手な自分は、そんなささやかなことすら上手く伝えることが出来なくて。
 言葉では、伝えられない。
 態度でも、示せない。
 ……だから。

 だから、俺にはヴァイオリンが必要なんだ。


 土浦に先を越されて、彼女と話も出来ないことは何故か残念なような、悔しいような……それでいて、どこかほっとしたような、複雑な気持ちで月森はその場に立ち尽くす。
 だけど、それでよかったとも思える。
 例えあの場に土浦が先に辿り着いていなくて、自分が彼女と向き合ってしまったとしても。
 きっと、何も出来なかっただろうと。
 今は、分かるから。

 土浦に促され、部屋へと戻る彼女の背中を、月森はただそこに佇んだまま、見送った。
 途中、土浦がふと後ろを振り返ったような気がしたけれど。
 ……気付かれていても、気付かれていなくても。
 もう、どちらでも構わない。……そんな気がしていた。




 何故、気になったのだろう。

 土浦の伴奏の元、少しだけ乱暴に形作られる「スケルツオ・タランテラ」。
 彼女が「圧倒された」と言ってくれた、おそらくは、コンクールの事も将来の事も何も考えないまま、月森が自らの全てを曝け出して奏でた、あの日の曲。
 ここに来い、と彼女に語りかけるために奏でられる音に身を委ね、月森はそっと目を閉じる。

(何故、俺は君を放っておけないんだろう……)

 これまでは、周りの人間が躓き、足を止めるたび、月森はその存在を振り捨ててきた。
 非情でも冷酷だったのでもなく、月森はただひたすら、自分の事を支えるだけで手一杯だったのだ。
 今でも多分、そのことに違いはない。
 自分が目指す場所に、確実に辿り着く為に。
 自分ではない誰かをその手に抱えることは、おそらく月森には出来ない。

(だが……あの時の君が、俺は)
(……淋しいと思ったから)

 何処にも行けなくて。
 目指す場所を見失って、座り込んだ彼女を。
 ……月森と同じ場所へ辿り着くことを諦めかけていた彼女を。
 淋しいと思ってしまったから。

 何故彼女だけがこんなに気になるのかは分からない。
 未熟な旋律、辿々しい演奏。
 確かにその素直で真直ぐな音色に、心は惹かれてしまうけれど。
 才能の有無で問われれば、月森はどちらとも言えないような気がしている。
 成長の度合いから慮れば、もしかしたら化けるかもしれない。とんでもない演奏家に成長するかもしれない。
 でも、それまでに必要な精神の強靱さを彼女は持っているのだろうか。何度も目の前に立ち塞がる壁を、彼女は乗り越えていけるだろうか。
 分からない。
 ……分からない。

 それでも、彼女が。
 ヴァイオリンが好きだと言ったから。

 あの時、月森の制服の袖を掴まえて。
 曇りのない、真直ぐな眼差で。

 ヴァイオリンが好きだと。
 そう、言ったから。

 それは、おそらく幼い頃から月森が胸の中で抱き続けていた。
 この道を歩き始める、最初の理由と同じものだったから。


 第二セレクションのあの時。
 もう無理だ。どうにもならないと諦めていた月森に。
 希望の光を与えてくれたように。
 今度は、同じように立ち止まってしまった彼女に。
 同じ光を返せたら。

(どうか、君もここへ)
 繰り返し、月森の不器用なメッセージを歌う、「スケルツオ・タランテラ」。

 誰かの為ではなく、自分自身の為に。
 素直で真直ぐな、ヴァイオリンに捧げる愛情を武器にして。
 月森が立つ場所と、同じ位置へ。
 諦めず、彼女が辿り着いてくれたらいい。
 ……あのコンクールの時と、同じように。
 多分、それを。
 自分は、願っているのだろう。



 静かな夜の窓越しに、月森の眼下に広がった風景は。
 一人の女性が、ただベンチに腰を下ろしていただけの、どこにでもある、日常の風景で。
 それでも、一枚の絵のようなその風景に対して、月森はただのオーディエンスでしかなくて。
 決して触れられない。溶け込めない。
 そんな、部外者でしかなくて。

 真直ぐな目で、夜空を仰いだあの瞳と。
 同じものを映したかったのかもしれない。
 その風景に、溶け込みたかったのかもしれない。

(君と同じ世界が、見たかったのかもしれない)
 彼女に近い場所で。
 生きてみたいと思い始めたのかもしれない。

 彼女の目線ではない場所からただ彼女を見下ろしていることが。
 彼女が見ている景色が、自分には理解出来ないことが。

 彼女の側ではない場所で生きていくはずの自分が、何故か、とても淋しいと。
 ……そんなふうに思えてしまったから。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:08.8.3】

特に月日的な展開を希望されたわけじゃないんですが、リクエストは「あの窓辺で香穂ちゃんを見下ろし、そのあと外に出た月森くんの心のうち」でした。……それ以上に余計なものをびしばし付け足した気もします(笑)
土浦のようにストレートな励ましはどうせ出来ないんだから(言い切る)、香穂ちゃんが憧れるヴァイオリニストらしく、月森はヴァイオリンで語ればいい!(笑うところ)

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