灯が落ちたままの室内は静けさに満ちていて、視界が馴染んだ自分の部屋ではないことに、一瞬香穂子は驚いた。
斜めにもたれ掛かったソファから、ゆっくりと身を起こしてみると、自分の腕に引っ掛かるように広げられていた雑誌が乾いた音を立てて落ちる。そちらに気を取られていると、今度は自分の身体を心地よい布地の感触が滑り落ちて、咄嗟に香穂子は指を伸ばし、それを掴んだ。目の高さに持ち上げてみると、それは手触りのいいブランケット。見覚えはあるが、自分で掛けた記憶はないので、おそらく別の誰かが気を効かせたのだろう。
(こんな人じゃなかったのにな)
苦笑する心持ちで、香穂子は自分の周りに視線を巡らせてみる。すぐに目当ての人影を捉えることができる。香穂子の隣、数十センチの距離に、自分と同じようにソファの背にゆったりと背を預けて、うたた寝をしている人物。最初は自分の為に使っていたはずのブランケットの半分を、いつの間にか寝入っていた香穂子に分け与えたのだろう。
よくも悪くも、月森は自分と他人との間にしっかりとした境界線を引く人で。
こんなふうに、細やかな気遣いを見せる人ではなかったのに。
(でも……本当は違うのかな)
気を許すようになってからの月森は、どうしようもなく優しい人だった。
ただ甘やかす、何もかもを許す無条件の優しさなどではないけれど。
厳しくしなければならないところでは容赦がなく、でも、許すべきところで許す。
そんなふうに、本当の意味で優しい人だった。
だから、香穂子が知らなかったというだけで、月森という青年は、初めからこんな人間だったのかもしれない。
隣に寄り添う存在に、温もりを分け与えるような。
香穂子の耳に届くのは。
窓を叩く激しい雨音と。
隣に眠る人の、安らかな呼吸。
決してそれは、本当の意味で静寂と言えるものではないけれど。
それでも、世界には他には何もないと思えるくらいに、そこには香穂子と雨と、月森しかなかった。
灯のついていない室内は、外界で空を覆う雨雲に陽の光を遮られ、光が届かない。
月森の好みで整えられたこの場所は、薄暗く、深い蒼に彩られる。
物音すら乏しい空間で、訳もなく、香穂子はまだ夢の中に意識を囚われたまま。
深海に沈むと、こんな感じだろうかと空想する。
余計な雑音がなくて。
ただひたすらに蒼い水底。
肌寒さに少し震え、香穂子はそれから身を守る為にソファの上で両脚を抱え込み、背を預け、暗い天井を見上げてみた。
深海で生きるものは。
こんなふうに、手の届かない天井から射し込む陽光に憧れて。
水面近くに生きるもの達の影に時折遮られながら。
いつか、この目で光を見ることを夢見るのだろうか。
いつか、そこで生きている者達が、水底で水面を見上げている存在に気付いて。
引き上げてくれる奇跡を、願うのだろうか。
そんなことをぼんやりと思いながら、香穂子は隣に眠る月森を見る。
力なく、無造作にソファの上に投げ出された彼の右手にそっと手を伸ばし。柔らかく、繋いでみる。
(ねえ、いつか。私も連れてってくれる?)
蒼く深い水の底から。
陽の光が届く、高い場所まで。
改めて、答えを聞くまでもなく。
彼の低くて優しい声が。
「いいよ」と囁くような、そんな気がしたから。
香穂子は小さく安堵の溜息をついて。
繋いだ手の、温もりを頼りにゆっくりと目を閉じて。
もう一度、深い眠りの淵をたゆたった。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.7.26】
ほのぼのと、静かなお話を書いてみたかったんです。
月森は、基本人のことに興味がなさそうですが、フェミニスト(?)は案外しっかり身についていたりしたら面白い(笑)
こういう話は、読み手には分かりにくいかと思うんだけど、自分自身は書きやすくて好きです。何気ない日常のひとこまとか、モノローグが多いもの。


