「片付けの方はどうだろう?」
「うーん、六割ってところ? 寝る場所と、落ち着く場所は確保してるから、後は細々としたものかなあ」
月森の問に香穂子が眉間に皺を寄せつつ答えた。
そうか、と月森が応じる。月森が脱いだジャケットを両手に抱え、香穂子が何かを待ちわびるように、上目遣いで月森を見つめる。彼女の意図に気が付いた月森は、苦笑しながら身を屈め、彼女の柔らかな頬に顔を寄せた。
軽く触れるだけの「ただいま」のキスを、香穂子は満足げに微笑みながら、その唇に受けた。
都内の高級マンションの一室に、婚約中の月森と香穂子は新居を構えている。
一人息子の月森は、後に祖父の代から住んでいるあの洋館を受け継ぐことになるとは思うが、現状は仕事の関係上、あの場所に拠点を置くのは些か交通の便が悪い。月森も香穂子も事務所やレコーディングスタジオが都内にあるから、都内に住居を置いていた方が何かと都合がいいので、この新居をしばらくの間、二人の拠点とすることを決めたのだ。
香穂子も長年一人暮らしをしていた、若いOL向きにセキュリティが充実したマンションを、既に引き払っている。あちらに暮らしている時にも、終電に間に合わなかったとか、朝が早いからとか、何かと理由を付けて月森が立ち寄っていたから、生活のリズムとしては、あまり劇的な変化はない。それでも月森が「ただいま」と帰って来る場所が、自分の暮らすこの場所であること。それがこれから先、ずっと変わらない事実だということは、香穂子の心をとても暖かな幸せで満たしていた。
お互いの必要な荷物を運び込んで、自分達が暮らすために快適な空間へと変貌させていくのには、まだまだ途中の段階だ。新進気鋭のソロヴァイオリニストとして注目度の高い月森は、当然のんびりと部屋を片付けるなどという余暇がなく、香穂子もそれなりに、所属している小さなオーケストラや、専属契約をしているとあるロックバンドのストリングス部隊の一員としての仕事など、仕事には事欠かないのだが、現時点でバンドのストリングスの仕事の方は、向こうが曲を作っている段階なので、月森に比べれば、若干香穂子の方に時間の都合をつける余裕があった。そのため、新居の片付けはほぼ、香穂子の役目となっている。
「俺も、出来るだけ時間の都合を付けて手伝いたいとは思うのだが……」
「だーめ。蓮はまず、万全のコンディションでヴァイオリンを弾くことがお仕事でしょ? 家具はちゃんと業者さんが指定の位置に配置してくれたから、重いもの運んだりってことはないんだし、後は任せといて。あ、でも、蓮の私物は後で蓮が使いやすいところに片付けてもらわなきゃなんないけど」
楽譜やCDや、当面必要になりそうなものは実家から送ってもらって、自室になる部屋の片隅に段ボールが山積みしてある。とりあえず、寝る場所と練習場所を確保しているから今のところ不都合はないが、あの段ボールの山をいつ紐解くことになるのだろうと、随分先まで埋められている自分のスケジュールを思い返して、月森は苦笑した。
「……困るなら、私が一応、片付けてみてもいいけど」
二人で共同に使う場所なら、とりあえず香穂子が使いやすい状態にしておいて、それで月森に不都合があるようなら、その都度変えていけばいい。だが、さすがに彼のプライベートルームまで自分が手を加えることは躊躇われて、香穂子はわざと月森の荷物には手を付けていなかったのだ。
「そうだな。……今のところは特に不便を感じるわけではないから、そのままにしておいていい。どうしても俺が荷物を解けそうになかったら……その。……君に頼んでも構わないだろうか。棚に適当に並べておいてくれれば、それでいいから」
おずおずと尋ねる月森に、香穂子は満面の笑みで頷く。
適当にとは言うが、あの洋館の月森の自室で、CDや楽譜、本が適当に並べられていたことはない。整然とした月森らしい配置の仕方ははっきりと覚えているから、あの要領で片付けていれば、そこまで不快感は感じないだろう。
「了解! じゃあ、少しずつ片付けておくね」
びし、と敬礼の形に額に手を当てて、香穂子が言った。
「すまない」
苦笑しながら月森が詫びると、クローゼットを開けて、抱えていた月森のジャケットをハンガーに掛けながら、香穂子がふるふると首を横に振った。
「いいんだよ。こういうのも、楽しみの一つだし」
言って、香穂子はふと思い出したように月森を振り返り、指先を突き付けた。
「それとー、帰って来たらいつものアレ、ちゃんとやってね」
「ああ、分かっている」
「蓮は、御飯は食べて来たんだよね?」
「遅くなるから、スタッフと一緒に済ませて来た。……君もちゃんと済ませているんだろう?」
「ここから近い新しいイタリアンのお店に菜美と笙子ちゃんと行って来たんだ。結婚披露パーティの件があるから、食事兼ねていろいろ物色中なんだよね。お店借り切ってでもいいんだけど、ガーデニングパーティみたいな感じもいいかなって思って。……10月ってもう外は寒いかな?」
香穂子と他愛無い会話を交わしながら、月森は洗面所の鏡の前に立つ。
(外から帰ったら、うがい手洗いは、基本! ヴァイオリニストだって、身体が資本のお仕事でしょ?)
香穂子の住んでいたあの部屋を訪れるたび、そう言い聞かせては洗面所に押し込まれていたから、自然とうがいと手洗いをする癖が付いた。時々仕事場でもやってしまうから、「月森さんって、ホントに真面目ですね」と若いスタッフには驚かれたりもするが、悪いことではないのだろう。
彼女の習慣を、いつの間にか月森も習慣にするようになる。それは、他人同士だった二人の生活が、徐々に家族として混じりあったものになってきているということだ。
きちんとうがいと手洗いを済ませてまだところどころに段ボールが積まれている、それでも大画面の液晶テレビとテーブル、ソファだけはきっちり配置されているリビングへと足を踏み入れると、キッチンでは香穂子は鼻歌を歌いながらお茶をいれていた。
月森が一つ大きな溜息を付いてソファに腰を下ろすと、見計らったように香穂子がトレイの上にティーセット一式を載せて、それらを小さなテーブルの上に丁寧に配置していく。
「……紅茶?」
訝しげに眉を寄せ、月森が尋ねる。
月森も香穂子も、嗜好としては珈琲よりも紅茶派なのだが、二人で飲む時に紅茶を入れるのは月森の役目だった。月森は料理も家事もまともに出来ないのだが、紅茶を入れることだけは、母からの直伝で得意だったのだ。反して香穂子は一通りの家事はそつなくこなすものの、紅茶を入れることだけは月森に勝てなかった。どうしても、渋さが残ってしまうのだ。だから、香穂子がお茶を入れる時にはほとんど緑茶か、もしくはカフェオレやココアの類いだったのに。
「私も、いつまでも昔のままの私じゃないってことですよー」
何故か誇らしげに言いながら、香穂子は温め済みの空のティーカップに、なみなみと琥珀色の濃い紅茶を注ぐ。適度な量を二つのティーカップに注ぎ終えると、神妙な顔つきで、どうぞ、と月森に促した。
香穂子の真剣な表情に、何故だかこちらも若干緊張を覚えながら、月森がそっとテーブルの上の自分のカップを引き寄せる。紅茶特有の良い香りが鼻孔をくすぐる。濁りのない琥珀色の紅茶は、綺麗な色をしていた。
「……いただきます」
一応断りを入れ、月森はそっと香穂子が入れてくれた紅茶を一口含む。
一口で違いが分かって、ティーカップから唇を離し、思わず目を丸くした。
「……ど、どう?」
「美味しい」
こわごわと尋ねた香穂子に、月森は即答する。
以前に香穂子に紅茶を入れてもらった時よりも格段に美味しい。どうしても後口に残っていた渋さが、全くなくなっていた。
月森の答えに、香穂子はやったあ!と満面の笑みで万歳をする。そうかと思うと、突然訝しげに眉を寄せ、慌てて自分のカップを引き寄せて一口含み、その味を確かめた。
「うん、お世辞じゃないね。ちゃんと予想どおりの味になってる」
「世辞は苦手だから、もちろん言うつもりはないが……」
一体、どうしたんだ?と月森は尋ねる。香穂子はカップを両手で抱え、にっこりと笑った。
「ちょっとね、馴染みの紅茶専門店に弟子入りさせてもらったの。……っていうのは大袈裟なんだけど、美味しい紅茶の入れ方を教わりに行って」
月森が大好きな紅茶。
今までは、彼が入れてくれることが嬉しくて。その好意に甘えていたけれど。
仕事上、食事は毎日毎日、一緒にとれるか分からない。月森に時間の都合がついても、自分が予定を合わせられないこともある。
だけど、お茶の時間なら。
ほんの数分で準備が出来て、終えられるティータイムなら。
きっと、もっと頻繁に、同じ時を過ごすことができる。
「その時にね、美味しい紅茶をちゃんと私が入れてあげたいなって思って。それくらいなら、私にも出来るでしょう?」
この風景は。
いつか、過去の何処かで、夢に見た景色。
優しい気持ちのままで。
変わらない想いを抱いたままで。
何気ない、幸福な時間を二人で過ごすという、小さな小さな夢。
この夢を抱いていた頃の自分は、とても無邪気で。
その未来は、とても簡単に訪れると思っていたのだけれど。
辿りついたこの場所は。たくさんの困難な出来事を。
マイナスの感情を乗り越えて、やっと辿り着けた場所だから。
まるで奇跡のように稀な幸福だったことが分かるから。
今ならば、その大切さも……分かる。
美味しい紅茶を二人で一緒に飲む。たったそれだけのこと。
日常の何気ない風景のように思えるのだけれど。
本当は、その何気ない時間と言うものは、とても貴重な時間なのだ。
月森が、甘く笑う。
香穂子の手を取り、ソファに座る自分の隣に導いて。
優しくその肩を抱いて。
彼女の髪に頬を埋めて、目を閉じた。
「ありがとう、香穂子。……とても美味しい」
それならよかった、と。
同じように、幸せそうに微笑む香穂子が、そっと月森の肩に身体を預ける。
しばらくの間、そうして二人で。
儚い幸せを噛み締めた。
それは、いつか見た。
甘い未来だけを信じていた頃の、幼い夢。
だけど、紆余曲折を乗り越えて、こうしてその夢を本当のものにした自分たちは。
その幸せの儚さと大切さも、同時にきちんと覚えて来たのだから。
きっと、この幸せを無造作に放り出すことはない。
今度は、彼女の入れてくれた美味しい紅茶に見合うような。
彼女の好きな甘いお菓子を、お土産に買って来ようと、月森は考える。
そしてこれは、いつか見た。
幼い夢のその続き。
おとぎ話のように、「幸せに暮らしました」では完結しない。
時折哀しみや寂しさも内包しながら繰り返される、何気ない日常の一場面。
大切にすべきものは、その中に存在する。
小さな小さな、幸せの欠片。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.10.19】
とりあえず、新婚さんのこう……無駄に浮き足立つ系な雰囲気と(笑)慣れた会話が書いてみたかったのでした。
あと、メインは何つっても紅茶!時折美味しい紅茶が飲みたくなります。
美味しい珈琲屋さんは結構あるのに、紅茶屋って少ないんですよね……。


