レプリカ

月森×日野

 何がきっかけで、そういう会話になったのかは覚えていない。

 声をかけてきたのは、見知らぬ音楽科の女生徒。
 香穂子は図書室で楽典をぱらぱらと捲っているところだった。
 コンクールで香穂子を見覚えていた女生徒が、親しげに声をかけてくる。他愛無い世間話の続きで、その楽典に書かれていることであろうことを質問され、その答えを求められた。咄嗟に意味の分からなかった香穂子は、きょとんとした表情で首を傾げる。
 「分からないの?」と、嘲るように笑った女生徒は、「所詮、普通科だしね」と一人納得したように頷き、香穂子の側をすり抜けていく。
「まあ貴女なんて、月森くんがいなかったら、結局何も出来ないのかもね」
 すれ違いざまに低い声で残された捨て台詞が、そもそも彼女が自分に言いたかったことなんだなと思い当たって。
 それでも、その凛とした後ろ姿を見つめながら。
 ……その通りだなと、香穂子は納得してしまう。


 私の音楽は、稚拙なレプリカ。
 オリジナルが存在してこそ、生まれるもの




 そもそも香穂子は、コンクールに参加するまでは、楽譜さえまともに見たことがないくらいの、乏しい音楽の知識しかない。
 もちろん、ヴァイオリンを弾くようになってから、追ってきちんと勉強するようにはしているが、それでも幼い頃から音楽に慣れ親しんできた音楽科の生徒から見れば、香穂子のレベルなんて話にはならないだろう。
 そんな覚束ない知識であろうと、香穂子がきちんとヴァイオリン……音楽を続けていけるのは、周りの協力があってこそ。
 何よりも、月森の協力が大きい。
 月森のヴァイオリンは、香穂子の理想で、目標で、そして指針だ。
 それなりにマシになってきたとは言え、楽譜を読み取る能力もまだまだ未熟な香穂子が、新しい曲を習得していくためには、彼が最初に奏でてくれる曲こそが叩き台の役割を果たす。とりあえず、音譜の並び通りにヴァイオリンを奏でることを覚え、それから自分なりの解釈で肉付けをしていくことは香穂子自身の作業だが、その根本に月森のヴァイオリンがあることは間違いないだろう。
 椅子に腰掛け、両膝の上に載せたヴァイオリンを見つめ、香穂子は小さく溜息を付く。
 月森に負担をかけていることも、自分の実力が全く追い付いていないことも、自覚している。
 だが、改めてそのことを第三者から指摘されてしまうと、どうにも落ち込む心情を止められなかった。
「……香穂子?」
「……えっ!? ……あっ、うわっ……!」
 とても近い場所で名を呼ばれ、香穂子ははっと我に返る。顔を上げると、そのすぐ側に心配そうに自分を覗き込む月森の端正な顔があって、香穂子は驚いて小さな悲鳴を上げ、座っていた椅子をがたっと音を立てて揺らした。
「驚かせたなら、すまない。……だが、君が俺の話を聞いていないようなので」
 身を起こした月森が、小さく溜息を付く。
 せっかく忙しい時間を割いて、自分の指導をしてくれているのに、それすらもまともに聞いていないなんて。
「あ……ううん。私の方こそ、ごめんね……」
 そう思うと、更に自己嫌悪が増して、香穂子は表情を陰らせて俯く。
 狭い練習室に、満ちる沈黙。
 その沈黙を破ったのは、困ったような二度目の月森の溜息だった。
「……その、すまない。怒ったわけじゃないんだ。ただ、君が調子が悪いのであれば、無理に練習を続ける必要はないと……そう、言いたかっただけで」
「……月森くん」
 香穂子が顔を上げると、まともに視線が合った月森が、照れたように頬を染め、ふいっと視線を反らす。
 そんなふうに、月森が不器用に、優しいから。
 余計に、弱い心根が現れる。
「ううん、月森くんが謝ることないよ。……私が自分の腑甲斐無さに、ちょっと落ち込んでるだけだから」
「……腑甲斐無い?」
 未知の言葉を聞いたと言わんばかりの怪訝な口調で、月森が眉間に皺を寄せる。
 香穂子ははっとして思わず自分の手で口元を塞いだが、当然月森がそれを許すはずもなく。
 月森が片手を伸ばして、部屋の隅に追いやっていた小さな椅子を引き寄せる。香穂子と斜めに対峙する位置に、しっかりと腰を下ろした。
「……その。……香穂子」
 組んだ指先を動かしながら、床に視線を落とした月森が戸惑い気味に香穂子の名を呼ぶ。
 思わず姿勢を正して、香穂子がぎゅっと握った拳を膝に押し付ける。
「……はい」
「俺は、人を慰めることも、励ますことも苦手だが……」
「はい」
「それでも……その。君の力には、なりたいと思うんだ」
 微力ながら。と一言付け加えて。
 月森は不安げな視線で香穂子を捉え、それでも真直ぐに香穂子の目の中を覗き込む。
「よければ、話してくれないか。君が君を腑甲斐無いと思う理由を。……それで、俺が何か君に有益な助言ができるかどうかは分からないが」

 それでも、聞いてもらうだけでも心が晴れることを、月森は知っているから。
 ……それは、本当は。
 月森が香穂子に教えられたことだから。

 月森の言葉に、香穂子は一瞬迷う素振りを見せる。
 だが、元々嘘や誤魔化しが苦手な自分を自覚しているのか、やがて観念したように、ぽつりぽつりと香穂子は語り始めた。

 香穂子の、模造品の音楽のこと。
 月森がいなければ、おそらく成り立たない不確かなもの。


 香穂子の話を聞き終えて、しばらくの間、月森が沈黙する。
 その沈黙を、まるで判決を聞く罪人のような緊張で、香穂子は受け止めた。
 やがて、その沈黙を揺らすのは、穏やかな月森の笑い声。
「月森くん?」
「何だ。……まるでこの世の終わりのような表情で落ち込んでいるから、もっと大変なことなのかと思っていた」
「……月森くんにとっては、大したことなくても、私は……!」
「ああ、違う。誤解しないでくれ」
 言い募ろうとする香穂子を、月森が片手を挙げて制する。何事か言葉を続けようとした香穂子は、反射的にその言葉を呑み込んだ。
「君のその理屈で行くのなら、俺のヴァイオリンも所詮はレプリカだということだ」

 先人が遺した楽曲を後の世で奏でるものは、全てが模造品。
 その楽曲に込められた想いを、音譜という上辺だけでなぞることしか出来ない。
 それが、模造品だけに留まらずにいられるのは。
 そこに先人とは異なる、弾き手の想いが込められるから。

「……君が、完成させた楽曲は、結局俺とは全く違うものになる」
 たとえ、最初は月森の模造から始まるものだったとしても。
 詳細な音楽の知識がない香穂子には、余計な先入観もない。
 そして素直な彼女は、彼女なりの、素直な人柄そのままの解釈で、制限のない楽曲を作り上げていくから。
 彼女の奏でる旋律は、どこか何かに縛られたままの月森の音楽とは違う、他の誰も知らない、彼女だけの音楽になる。
「知識があること、技術があること。それは確かに必要なことだと思う。ヴァイオリンを弾くということは、言葉で言うほど、簡単なことではないから」
 基本の技術と知識があってこそ、ヴァイオリンは正しく奏でられる。
 香穂子にそれが足りないのも確かで、今後も修得していかなければならないのは、そうなのだろう。
 それでも。
「君が、自分を恥じることはない。模造するということは、ただ、オリジナルの上辺だけをなぞるということだ」
 そこにあるものを、ただ同じように繰り返すということ。
 小手先だけ違うように見せかけたとしても。
 決して、オリジナルを超えることはない。
「模造と模倣は違う。楽曲を習得することは模倣から始まるが、そこに何を重ねていくかで、後々の価値は変わって来る。だから……君の音楽は、俺のレプリカじゃない」
 作り上げられる香穂子の音楽は、優しく、彩りに満ちて。
 月森のように、一本細い線をピンと張り詰めたような緊張感がない。そこに善し悪しはあるだろうが、確かにそれは、香穂子だけの音楽だ。

 月森が、そっと両手を伸ばす。
 香穂子の膝の上にある、彼女の小さな手を取って、緩く包み込む。
 冷たい月森の掌。
 それでも、確かに人の体温を持つもの。

「……君の音楽が、誰かのレプリカだなんて。そんな、寂しいことを言わないでくれ」
「……月森くん」
「君の、型に嵌まらない音楽に、救われる人は大勢いる。……俺も、その一人だ」
 自由で。
 優しくて、暖かくて。
 彼女の存在、そのままの音色。
 誰も信じられず、誰にも弱味を見せられず。
 両側に遮るもののない、不安定な細い道の上を、懸命に歩き続けていた月森を、優しく包み込んでくれた。
 一方向しか見えていなかった月森に、違う世界があることを教えてくれた。

 模倣から始まった彼女の音楽が、彼女の中で充分に咀嚼され、彼女の身の一部となり、そしてまた彼女から生み出されるのなら。
 それはもう、模造品という言葉で言い表せるものではない。
 彼女の名を冠する、彼女だけの。
 彼女のための音楽。

「……君が、俺の言葉を信じてくれればいいのだけれど」
「……うん」
 手を取ったまま、瞼を伏せた月森の額がこつんと香穂子の額に押し当てられる。同じように目を閉じて、それを受け止めながら、香穂子が笑う。

「月森くんを、信じるよ」

 たとえ、自分の力は。
 信じるに値しないものだとしても。



 私の音楽は、誰かのレプリカ。
 その誰かがいて、初めて成り立つもの。

 それでも、その誰かを。
 本当に、本当に愛おしく想うから。
 大事に大事に、心の中に抱き締めて。
 暖めて、育てていく。

 そうして、生まれてきた音楽の始まりが、稚拙な模造品だったとしても。
 想いを。
 願いを。
 ……自分が持ち得るたくさんのものを込めた分。
 少しだけ温もりを宿した、優しい音楽に育っていればいい。

 それが、誰かの心を癒す糧になることがあるならば。

 そのレプリカが生まれた意味もある。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.4.12】

文中にあるように「模倣」と「模造」の違いを書いてみたかったんですけど……。
私的に、作品というものに関して、「模倣」が悪いとは思ってないんです。だって、所詮自分の文面も、過去に自分の中に入れてきた誰かの作品を模倣することから始まってると思うんで。
ただ、そこにどれだけ自分なりの解釈とか、狙いとかを練り込んでいくかなんですよね。
上辺だけ変えても、それが付いて来ないと意味がない。そんなことを書きたかったんだけど、自分の未熟さに泣ける(溜息)

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