寝起きが悪いのもそのせいだと思う。
熟睡していないからすっきりと目覚められない。もちろん低血圧だということもあるのかもしれないが、眠って起きたら朝だったということは、幼い頃に数えるほどしか経験していない気がする。
夜中に数度、目が覚める。毎日きっかり四時間以上、決して楽ではないヴァイオリンの練習をしているのに、きちんとした休息が取れていないのは決していいことではない。その真実はさすがに月森でも理解している。
いつもなら気にしていないそんなどうしようもないことを、月森は朝からつらつらと繰り返し考えていた。
何のことはない。ここ数日の睡眠不足が祟って、今日はすこぶる体調が悪いせいだ。
(別に、無理をしているわけではないのだが……)
留学と、アンサンブルコンサートの準備に、月森は追われている。
確かに密なスケジュールにはなっているのかもしれないが、それらは全て月森自身が選んで決めて実行していることだし、自分が自分の出来うる範囲を逸脱して、無理をしているとは思っていない。
(無理と言えば、俺よりずっと無理をしている人物はいるわけだし……)
脳裏に一人の女性の顔が浮かんで、月森はそう考える。
終始笑顔で、明るく過ごしているが、許容量を超えたことをやっているのは、むしろ彼女の方だろう。
……月森は、そんな彼女の練習に付き合うために、月森の名前で予約されている練習室へと向かっている。いつもなら月森の方が早く練習室に辿り着いていて彼女を待っているのだが、今日は留学に関連する様々な書類を担当教員から受け取るために、職員室に寄っていて遅くなったのだ。
(……心配を、かけないようにしなければ)
無理をしているのは、むしろ彼女の方だ。
だから今、月森が倒れている場合ではない。力にならなければならないのは、月森の方だから。
そして、意外にも彼女は月森の何十倍も鋭い。月森の体調不良など、人の気に聡い彼女は簡単に見破ってしまうだろう。
そうすれば絶対に彼女は月森の心配ばかりして、練習を切り上げてしまう。今しっかりと練習しなければいけないことは彼女が一番良く分かっているはずなのに、月森の為に彼女はそれを中断してしまうだろう。……彼女がそういうふうに、体調の悪い月森に無理をさせてまで教えを乞うような人間ではなく、また、月森のことを放っておいて自分のことに集中出来ない人間であることは、数カ月という短くても濃密に過ごして来た、出逢ってからこれまでの時間から既に月森は学んでいる。
できるだけ、いつも通りに。
体調の悪さなど、見せないように。
そう念じながら、月森は彼女……日野香穂子が待つ練習室の扉をノックした。
「お疲れさま。ごめんね、月森くんも忙しいのに、いつも練習見てもらっちゃって」
笑いながら、毎度のように繰り返す謝罪の言葉と共に月森を練習室に迎え入れた日野は、月森の顔を見るなり、ふと怪訝そうに眉根を寄せ、首を傾げた。
「……月森くん、具合が悪い?」
月森が一言も発しないうちに真実を見抜く日野に、心臓が跳ねる。
内心冷汗をかく心持ちで、それでもそれを彼女には見せないようにと気を使いながら、月森は練習室の奥まで進み、設置されているソファに荷物とヴァイオリンケースを置いた。
「どうして、そんなことを?」
何事もないふうを装って静かにそう問うと、うーんと思い悩むように空を睨んだ香穂子が、自分の頬に指先を当てた。
「顔色悪いし、表情が何だか辛そうだし……。あ、でも私の勘違いなら、それでいいんだけど」
慌てて手を振って、日野は弁明する。
じっと月森が彼女を見つめると、少しだけ苦笑するようにして日野は自分の足元を見た。
「……私の演奏が、アンサンブルを支えるにはちょっと力不足だってことは分かってるし、そういうの、月森くんが放っておけないんだってことも分かってるの。だけど、どうせなら嬉しい気持ちで……無理をしないように、楽しく練習をしたいの。だって、これは『音楽』だから」
だから、と日野は顔を上げて、真直ぐに月森を見る。
「辛かったり、具合が悪かったりしたら、無理はしないで、ちゃんと言ってね。月森くんに無理をしてもらってまで、アンサンブルを成功なんてさせたくないよ。皆が万全で、楽しい気持ちで、悔いがないように乗り切ることが一番大事なことなんだから」
……そうして、彼女は。
いつも、月森が予想もしない方角から、月森の心に響くことを、いとも容易く言葉にするのだ。
「……って、あれ? ちょっと……月森、くん!?」
彼女の驚いたような声が、とても耳に近い場所で聴こえた気がした。
無理はしないで、と言われた時に、張り詰めた気をかろうじて支えていた糸が、ぷつんと音を立てて断ち切れた気がした。
そして、張っていた糸が切れたその瞬間に。
月森の世界は暗転した。
柔らかな声で、辿々しい旋律を歌う微かな声。
決して月森の鍛えられた聴覚で受け止めてみれば、レベルの高い歌ではないのに、何故だか不思議と心を安らげる音楽だった。
下手で、拙くて。
だけど、妙に心に残る暖かな音。
それは、彼女の持つ音色だと、月森はふと気付いた。
(この歌は……)
導かれるように、ゆるゆると閉じていた瞼を開く。最初に視界に入って来たのは、綺麗に磨かれた黒いピアノの足の真っ平らではない表面に映る、自分の少し歪んだ顔。
少しだけぼんやりとそんな自分の顔に見入って。そして月森は。
そんなふうに歪に映し出される自分が置かれた現状に絶句する。
「……あ、目が覚めた?」
先程まで、眠りの中に響いていた優しい歌が途切れ、代わりにほっと安堵したような聴き慣れた声が降り落ちてくる。……それは、月森が今いる場所の、その上の方角から。
恐る恐る目線を上げると、笑顔の日野が月森の顔を見下ろすように覗き込んでいた。
「これは……!」
「あ、あ……! 急に起き上がっちゃ駄目だよ。多分貧血だから」
反射的に身を起こそうとした月森を、意外な強い力で日野が両手で抑え込む。
改めて自分の現状を把握して、月森は更に血の気が引いて行く思いだった。
月森が横たわっているのは、練習室の床の上。視線を身体に下ろしてみれば、彼女のものなのか、女性用の学校指定のコートが申し訳程度に月森の身体の上にかけられている。
そうして、今の今まで月森が頭を乗せていた場所。
柔らかな温もりと、優しい歌声を、とても近い位置で感じていたその理由は。
……月森が、日野の膝枕で寝かされていたからだ。
日野の告げた通り、少し頭を浮かせただけで、世界が回る。なす術もなくもう一度彼女の柔らかな両膝の上に沈んで、その温もりを頬に直接感じて、月森は別の意味で心臓が止まりそうになる。
「ごめんね、こんな場所であんまりだと思ったんだけど、私の力じゃさすがに月森くんを保健室まで運んで行くことは出来ないし、かと言って、月森くんをこのまま放り出して誰かを呼びに行くことも出来なくて……」
申し訳なさそうに謝る日野に、月森は「いや……」と首を横に振る。
恥ずかしくて、情けなくて。
そして、月森の方がよほど彼女に申し訳なくて。
穴があったら入りたいと言う心境は、正にこのことだと思うのに。
……密かに彼女を想う月森にとっては。
この状況は、結局のところ。
これ以上になく、幸せな時でしかないのだ。
「あの、月森くんが平気なら、私、誰か呼んでくるから! もう少しだけ、我慢してくれる?」
気遣わしげに月森を伺う彼女に。
……体調不良であるが故の戯れ言だと、認識してもらえないだろうかと期待をしながら。
月森は、ちょっとだけ、彼女の優しさに甘えてみたくなる。
「……人は、呼ばなくても大丈夫だ。……だから」
もう少しだけ、このままで休ませてくれないか?と。
月森は、珍しく我侭をぶつけてみた。
「え、えっと。あの。……本当に、大丈夫なの?」
「ああ。少し睡眠不足だったんだ。貧血ならばそのせいだろう。少し眠れば、良くなると思う」
あまり他の人に迷惑をかけたくないからと、もっともらしい言い訳を告げてみると、普段からあまり人には余計な迷惑をかけたくないと考えているであろう日野は、少しの逡巡の後、納得したように頷いた。
「……気分悪くなるようだったら、ちゃんと言ってね? 猛ダッシュで保健室に先生呼びに行くからね?」
「ああ、大丈夫だ」
頷き返し、月森は目を閉じる。
少しだけ緊張したように身体を強張らせた日野は、やがて恐る恐る、指先を伸ばして。
労るように、月森の髪を撫でた。
その優しい指先が。
暖かな体温が。拙い愛おしい歌が。
月森の眠りを誘うための、何よりも必要なものだから。
ほんのわずかな時間でも。
あまり身にはならないような、浅い眠りを繰り返して過ごすより。
ずっとずっと深く、そして穏やかな眠りを。
彼女が月森に与えてくれる。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.3.2】
以前から秘密の場所(笑)で「書いてみたいなあ」と呟いていた、とある楽曲に影響を受けまくった話です。
その、元になった曲が可愛くて大好きです(笑)


