正規に招待されている合宿メンバー達は、室内で夕食を取っている。
もちろん遊びに来たわけではないのだから、どちらかといえば室内の方も静かだが、それでも時折、学生たちの談笑する声が香穂子のいる場所まで届いてきた。
建物の裏側、ゴミ置場になっているブロックに仕切られた場所、その前に香穂子は両手に持った許容量一杯のゴミ袋二つをどさりと置いて、うーんと大きく背伸びをした。
(……何やってるのかなあ、私……)
暗がりの中で灯の漏れる背後の建物を振り返り、香穂子は小さく息をつく。
成り行きに任せて、加地に言われるまま、何故か土浦まで巻き込んで、合宿所まで押し掛けて。
金澤の口利きで、何とか雑用係としてここにもぐり込める事にはなったものの、その現実全てが。
(……みじめになるだけ……だったな)
視線を足下に落として、香穂子は苦笑した。
昼間の月森と、宮路という少女のヴァイオリンの二重奏。
こういう場に選抜される実力者同士のセッションは、本当に……「凄い」以外の言葉では言い表せないくらいに、素晴らしくて。
もちろんまだ実力不足だけれど、香穂子の拙いヴァイオリンも、コンクールの頃に比べれば、少しは成長したのではないかと思う。少しずつ綺麗に変わっていく音色に、心のどこかで、いつかまた月森達のようなすごい人達と肩を並べて、ヴァイオリンを弾ける日が来るのではないかと。
……そんなささやかな夢も見ていたのに。
この合宿を訪れた事は、それが本当にただの夢物語だったのだと。
そんな現実を、香穂子に思い知らせただけだった。
(……本当に、遠い人だったんだ)
あのセッションの時。
窓越しに見た月森の姿は、香穂子が知らなかった月森の姿。
確かに、最初から彼の実力は、コンクールメンバーの中でも飛び抜けている印象はあったけれど、それでも、あのコンクールの間、一緒に行動する事も多かったから、香穂子にとっては同じコンクールに参加する、仲間のような意識もあって。
(でも、違ったんだ)
香穂子が気軽に。
……簡単に、肩を並べていいだなんて。
そんなふうに思っていい人では、なかったのだ。
空を仰ぎ。
空気の綺麗なこの場所で、満天の星を見上げながら、香穂子は微かに目を細める。
本当に……この頭上にある輝く星のように。
あの音色は、香穂子では手の届かない……そんな音色だったんだ。
あのコンクールを、ただの通過点だと。
何かが終わるわけじゃないと……立ち止まってはいられないんだと香穂子に告げた月森の言葉は。
冷酷でも、残酷でもなくて。
いつだって、本当に。
彼にとっての、現実だったのだ。
あのコンクールの最中。
取っ付きにくかったり、冷たかったり。
月森は、いつだって変わりなく月森でしかなかったけれど。
それでも、あの時。
壊れた魔法のヴァイオリンの弦を。
……最後まで一緒にと願った、香穂子のために張り替えてくれたあの金色の弦を。
「君にとって、それは必要な事なんだろう?」と問うてくれた月森は。
確かに、少しだけ。
香穂子に近い人だったはずなのに。
手が届くと信じられる。
……香穂子にとっての現実だったのに。
(ああ、もう……だから、泣かない!)
自動的にじわりと浮かんできた涙を、香穂子はぶんぶんと首を横に振って払う。
月森が、遠くにいる事を実感してしまう。
一緒に舞台に立った現実が、奇跡だったのだと思い知らされる。
そこで生まれてくる、この言い様のない淋しさは。
本当に、ただの香穂子のひとりよがりな我侭だ。
だから、その感傷に勝手に浸って、簡単に泣いていいわけがないのだ。
「……日野」
ぽつりと背後から落とされた聞き覚えのある声に、香穂子は文字どおり飛び上がりそうになる。
反射的に振り返ると、裏口のドアに片手をかけて、室内の灯を背にした月森が立っていた。
「あ、月森くん……な、何?」
暗いから見えないのだろうが、さりげなく手の甲で目尻の涙を払う香穂子が、ぎこちなく笑って月森に向き直った。
「君達も、食事だそうだ。土浦と、同行している編入生……加地、だったか。彼らももう、仕事を終えて、キッチンへ行っている」
「あ、うん、分かった。ありがとう」
頷いて、香穂子は置きっぱなしにしていた袋をスペースの中に丁寧に並べ、月森の側をすり抜けて、室内に戻ろうとする。
香穂子の月森より頭一つ分低い、跳ねた髪が、微かな香りを残して月森の側を通り過ぎようとする瞬間に。
「……!」
香穂子が息を呑んで、立ち止まる。
すれ違う瞬間、突然月森が、香穂子の片方の手首を掴み上げたからだ。
「……月森くん?」
怪訝に問う香穂子の手を、月森は表情を変えないまま自分の目線に持ち上げる。
細かな作業が出来なくなるために、あえて軍手をしていなかった香穂子の指や掌は、大した事はないものの、一日分の雑用のために、たくさんの小さな傷を負っていた。
月森が、大きく溜息をつく。
「……何故、きちんと保護しない? 君の指は、ヴァイオリニストの指だろう。 ……俺は、以前にも同じ事を言ったと思うが?」
呆れたように香穂子を見下ろす月森に、香穂子は微かに目を見開いて月森を見上げ。
思わず月森から視線を反らす。
ヴァイオリニストの指。
本当にそうならば、確かに護らなければならないものかもしれない。
……だけど、私は……。
「……ヴァイオリニスト、だろう」
香穂子の戸惑いを見透かすように、月森はきっぱりと告げた。
掴んでいた手首を離し、香穂子の手を自分の掌の上に乗せた。
そして、もう片方の手も添えて傷付いた香穂子の片手を、自分の両手で包み込む。
それはまるで、労るように、優しく。
「……技術的なものは、努力の賜物だ。君の意志次第で、結果はついて来る」
だが、と月森は言葉を切る。
「君に足りないのは、ヴァイオリニストとしての自覚の方だ」
月森の言葉に、香穂子が恐る恐る、上目遣いに月森を見上げると、暗い風景の中、背後の灯に照らし出される朧げな表情が、柔らかく綻んだ。
「君自身の自覚がなければ、この指は誰からも護られず……引いては、その指が生み出す君だけの音色も生まれない。ヴァイオリンを弾くべきベストの状態を維持しないということは、それだけでヴァイオリニストに値しないということになる。……君がこれからもヴァイオリンを弾き続けると言うのなら、まずは、それを肝に命じてくれ」
そうして、そっと月森の手が離れる。
月森の手が離れた自分の手を、香穂子は思わず、もう片方の手で、胸元に抱え込んだ。
呆然と自分を見つめる香穂子に、月森は少しだけ困ったように。
小さく笑った。
室内へ戻っていくその広い背中を見送りながら、香穂子は立ち尽くす。
1人その場に残され、自分の胸元に抱え込んだ指先を見下ろす香穂子は。
月森の言葉を深く噛み締めるように静かに目を閉じる。
(……うん、護るよ)
冷たいけれど。
それでも、確かに人の温もりを持っていた大きな掌の。
その暖かさを見失わないように。
香穂子はもう一度、大事に大事に、自分の指先をもう片方の手で抱き締めた。
あの、近付けたと思った日々は遠い夢の中の出来事で。
現実には、もう、手の届かなくなった人。
肩を並べる事なんて、出来ない人。
……でもそれは。
多分、香穂子の方が勝手にそうだと認識してしまう自分勝手な距離で。
初めて逢った頃よりも。
……それ以上に昔、存在すら知らなかった頃よりも。
あのコンクールで、新しく芽吹いた未熟なヴァイオリニストとして。
月森は、香穂子の存在を認めていてくれるのかもしれない。
本当は、香穂子が知らないうちに。
ずっと、香穂子に近い場所にまで。
現実の月森は、歩み寄っていてくれるのかもしれない。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:08.6.8】
チャットで萌え供給してくれた萌え友二名に捧げます(大笑)
ってことで、とある人達とチャットをした際、本誌の展開がこうならば萌えなのにという話から派生していった話。
単純なメモ書きのつもりで書いて、「こんなんできたけどー」と二人に見せたら、掲載を勧められたので(笑)ちょっと加筆修正して、お題用に直してみました。まあ、なんでもやってみるもんだよね(笑)


