惚れた欲目というものも多少はあるのかもしれないが、だからといって、特別な弾き方をしているというわけではないのに。
その理由が知りたくて、月森は香穂子の斜め後ろの位置から、練習する香穂子の背中を見つめている。自分に比べて、随分と華奢な身体。この細い身体があれだけの情感のこもった豊かな音色を奏でるのだから不思議だ。
背筋は一本筋が通るように真直ぐ伸びる。
姿勢を正しくと教えた月森の言葉を忠実に守って。
綺麗だとは思う。だけど、特別他のヴァイオリン専攻者と違いがあるとは思えない。
なのに、どうして。
「つーきーもーりーくーん?」
遠慮のない視線をずっと送り続ける月森に業を煮やし、香穂子が不機嫌な表情で振り返る。彼女のしかめ面に、組んだ膝の上で頬杖をついて香穂子を眺めていた月森が、はっと我に返った。
「……どうした?香穂子」
「どうしたじゃないでしょ。落ち着かないよ、そんなにじーって見てちゃ」
月森の目前で仁王立ちになり、香穂子が弓を持ったままの手を腰に当てる。
「ただでさえ、ここの部分上手く弾けなくて、『きいぃぃぃっ!』ってなりそうなんだから。黙って見てるくらいなら教えてよ」
「……『きいぃぃぃっ!』って」
香穂子の独特の口調が可笑しくて、月森が香穂子の言葉を繰り返す。それを聞いた香穂子の方が、少しだけ目を丸くした。
香穂子の驚いた反応を無視し、月森は身を起こして立ち上がる。長身を少し屈めるようにして、香穂子の前に立つ譜面台を覗き込んだ。
「どの辺りが?」
「えっとね、この辺」
弓を持ったままの香穂子の小指が、この辺、と楽譜の上に円を描く。納得した月森が、今度はピアノの上に置いていた自分の愛器を持ち上げた。
香穂子が示した場所を弾こうとヴァイオリンを構え、そこでふと月森は動きを止めた。
月森の弓、そして弦を押さえる指先の動きを覚えようと、今度は香穂子が熱のこもった視線を月森の手元に向ける。自分を見つめる香穂子のその瞳が、きらきらと輝くようで、月森は思わず笑う。
「……楽しそうだな」
「楽しいよ」
月森の言葉に、間髪を入れずに香穂子が返す。
ちらりと月森の方に視線を向け、にっこりと笑った。
「私、負けず嫌いだから。出来ないことを出来るようになっていくのは好き。苦手なことを克服していくことは、楽しいよ」
そうして、自分の音楽の世界を広げていくことが。
圧倒的に技術が足りなくて、コンクールの間には弾くことを諦めなければならなかった楽曲だって、今ならばきちんと練習をして、弾くことが出来るようになる。
もちろん、目の前の存在と一緒にそれが出来ることが、香穂子にとって、一番楽しくて幸せなことなのだけれど。
「そうか……そうだな」
弓を上げ、弦の上にゆっくりと降ろし。
それを引く、その瞬間に。
月森は何もかもを納得したように、一つ頷いた。
「君のヴァイオリンは、いつもそういうものだ」
月森の手本を軸に、香穂子はまた一つ、壁を超える。
そんな時の彼女は、決して苦しそうではない。
まだまだ卵とはいえ、演奏家たるもの、苦悩も苦吟も隣り合わせにあって当然なのだが、香穂子は不思議とそういう負の要素を感じさせない。
……見せないだけで、決して感じないわけではないのだろうけど。
それでも、月森が目にする香穂子は、いつだって、楽しそうにヴァイオリンを弾く。
弾く時の彼女が発するオーラが、とても楽しそうで。
そして、幸せそうだから。
どうしても、その暖かな部分に惹かれて、自分は目を奪われてしまうのかもしれない。
月森が弾いた動きの通りに、香穂子が大きく弓を引いて、優しい音楽を奏で出す。
また元の場所に座り込み、そんな彼女の後ろ姿を、月森は自分では気付かないほどの柔らかな眼差で見守っている。
先程のぎこちなさが嘘のように。
香穂子は楽しげに、滑らかにヴァイオリンを奏でている。
その姿はまるで、花に舞う蝶のよう。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:06.7.24】
最初にこのお題を見た時に、心底難しそうだなあと思ったお題です(笑)
舞う主語をどこに持ってったらいいかなあと考えてたら、お題に沿うかどうかはともかくとして、意外にあっさりネタ降臨。
月森と香穂子の練習風景って書くのが好きです。渡瀬はヴァイオリンについての知識がさっぱりなので、そこが上手く表現出来ないのが悔しいところなんですけども。


