目前に広がる風景に、香穂子が感激の声をあげた。数歩後ろで予想通りの彼女の反応を引き出した柚木は、満足げに微笑む。
「お気に召した? なら、よかった」
「夜が明ける前に突然起こされて、一体何事かと思いましたけどね」
朝の喧噪を思い出して、香穂子は思わず苦笑いをした。
まだ深い眠りの中にいた香穂子を叩き起こしたのは、枕元に置いていた携帯電話だった。暗がりの中で高らかに着信音を歌い出した携帯に驚いて、手探りでそれを探し当て、何事かと通話に応じたら、艶やかな低い声が耳元で囁いた。
「おやおや、その様子じゃまだ眠っていたね?」
驚いて携帯の隣に置いていた腕時計を取り上げて、目を凝らして文字盤を見れば、時刻はまだ5時前だった。「……普通は起きてないですよ」と、ベッドに転がった香穂子が力なく答えた。
「お前を連れて行きたいところがあるんだけど、どうしても今日しか俺の都合がつかなくてね。早めに出ないと辿り着けそうもないから、お前が準備する時間を考慮してやって、この時間と言う訳」
まさか、断ったりはしないよね。と呟いた柚木の楽しそうな声に、反論する余地はないのだと、これまでの経験から香穂子も学んでいる。7時には迎えに行くからと告げた柚木に、大人しく「分かりました」と香穂子は頷いた。
そうして車に揺られて数時間。辿り着いたのは柚木の知り合いが所有するという海辺の別荘地。こぢんまりとした場所ではあるが、しっかりとプライベートビーチまであって、建物の裏側に広がる砂浜に、香穂子は歓声をあげた。
しかし、肝心の別荘の持ち主はいない。勝手に使っていいんですか? と不安になった香穂子が尋ねると、柚木は耳元に落ちて来る髪を、うるさそうに指で掻き上げた。
「ああ、夏休みの数日くらいは自由に使っていいと言われているんだ。勉強に集中するには、確かにいい環境だからね」
日頃の行いが為せる技かな、と笑顔で言ってのける柚木に、……日頃の外面の良さが為せる技ですネ、と香穂子が心の中で呟いた。
「ん? 何か言ったかな。日野さん」
「……心の中を読まないで下さい」
見事なまでに完璧な笑顔で香穂子の顔を覗き込む柚木に、香穂子が怯えて肩を震わせた。
「でも、プライベートビーチまであるって分かってたら、水着持って来たのにな……」
柚木は「少し遠出をする」と言っただけで、どこへ行くのかまでは最後まで教えてくれなかった。突然の誘いだったこともあって、香穂子は必要最低限の身の回りの物しか所持していない。
「泳ぎたかったの?」
意外な言葉を聞いた、というように、柚木が片眉を上げる。
「そりゃ、まあ……だって、せっかくのプライベートビーチなんですから」
不特定多数の人に晒すほど自分の水着姿に自信を持っているわけではないが、プライベートビーチであるのなら、観衆は柚木だけだ。それならば、海ならではの楽しみ方を満喫することが出来たはずなのに。
「……そうだな。せっかくのプライベートビーチなんだから、泳いでも構わないんじゃない?」
「だから、水着が」
言いかけた香穂子の顎を、ぐい、と指先で掴んで、柚木が無理矢理に自分の方を向かせる。息が触れる至近距離で、甘く柚木が笑った。
「水着なんて、必要ないだろう? ……見ているのは、俺だけだぜ?」
意味をはかりかねた香穂子が、ぱちりと瞬きをする。そういう反応も香穂子らしくて、柚木は真直ぐに、その大きな眼の中を覗き込む。
「……裸で泳げば?」
「お断りです!」
やっと柚木の言いたいことに辿り着いた香穂子が、真っ赤になって柚木を睨み付ける。次から次へと表情が移り変わって、面白いことこの上ない。
「まあ、昼間は抵抗があるにしても、夜なら問題ないだろう?」
「そういう問題じゃ……じゃなくて、え! 泊まりなんですか!?」
何にも用意してません!と訴える香穂子に、今度こそ我慢ならずに、柚木は吹き出して、珍しく声を上げて笑った。
「……冗談だよ。お前を夜には帰さないといけないから、無理して早起きさせたんだろう?」
笑い涙を指先で拭いながら、柚木は言う。「……それならいいんですけど」と赤くなったままの頬を香穂子が膨らませた。
そんな彼女を微笑ましく見つめて。
柚木は目を細め、遠くで陽光を反射する水平線へ視線を向ける。
「……俺に振り回されるお前には、申し訳ないと思うけれど」
俺も、それなりに夏の想い出ってものが欲しかったんだよ、と。
静かに柚木が呟いた。
「……ずるいです、柚木先輩」
そんな言い方をされたら、もう香穂子は何も言えない。
強引な誘いも、容赦なく人をからかう態度にも、文句を言いたいことは、たくさんあったのに。
変なところで彼は突然素直になるから。……そして、それを許してしまうから、結局香穂子は柚木には勝てないのだ。
「……今日出来なかったことは、全部これから先ののお楽しみってことで大事に取っておけよ」
プライベートビーチで泳ぐことも。
……夏の夜を、二人きりで過ごすことも。
今は叶わなくても、二人で生きて行く未来を信じられるからこその、これからのお楽しみ。
それでも、これくらいはね。と笑う柚木の掌がそっと香穂子の頬を包む。
その意外なほどの暖かさと優しさに、香穂子が微笑んで、目を閉じる。
甘い口付けの呼吸は、誰もいない砂浜に打ち寄せる波の音に。
淡く儚く、かき消された。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.7.11/加筆修正:2010.7】
この一連のお題の中で、一番楽しく書けたお話です(笑)
柚木はこうと思ったら結構好き勝手に相手を振り回すだろうなあ、なんて。たまには木日でこういうノリもいいかなと思います。


