07.オレンジみたいな夕暮れに

金澤→日野

「よう。夏休みでも熱心に練習か? 感心、感心」
 学生たちの現状は夏休み真っ盛りでも、教師連中はそうはいかない。半ばうんざりしながら出勤して雑用を片付け、景色でも見て和むか、と立ち寄った高台の公園で、金澤はヴァイオリンを抱えてベンチに座り込んでいる見知った人物に出会った。
 暑いです……とぐったりと項垂れた香穂子が呟く。この季節にわざわざ屋外で練習せずともよかろうに、と金澤は苦笑した。
「だって家にはお母さんがいるから、思うように練習が出来なくて。ヴァイオリンばっかり弾いてないで、勉強しなさいって怒られちゃう」
「……ま、親としちゃ当然の反応だろうがなあ」
 近くの自販機で購入したスポーツドリンクを差し出してやると、顔を輝かせた香穂子が両手でそれを受け取った。生き返る、と頬に冷たい缶の表面を押し当てる香穂子から目を反らし、金澤は自分用に購入したアイスコーヒーのプルトップを引き開けた。
 学生の本分といえば、学業に部活動。そして夏休みならば学生ならではの諸々の娯楽だろう。その中にヴァイオリンという選択肢を加えなければならなくなったこの生徒を、ほんの少しだけ金澤は不憫に思う。
 だが香穂子の演奏を自分が好ましく思って、待ちわびていることも本当だから、何も言えなくて金澤は黙り込んだ。
 ヴァイオリンを学ぶための環境に身を置いているわけでもなく、いまだ師を見つけることもできずに自己流でヴァイオリンを続けている香穂子には、きっとヴァイオリンを続けて行くことの方が負担が大きい。
 それでも金澤は、この少女が奏でるヴァイオリンの音色に期待しているのだ。
 技術的なものは練習次第で後から身に付くものであるとしても。
 聴く者の心を和ませる、優しく染み込んでような魅力的な音色は、他の奏者では持ち得ない、天賦の才というものであろうから。

「そういえば、先生は?」
「あん?」
 冷たいスポーツドリンクで喉を潤して、ようやく人心地ついた香穂子が、ふと思い出したように傍らに立つ金澤を見上げた。彼女の問の意図が掴めなくて、金澤はわずかに顔を歪めて、見上げて来る彼女を見下ろした。
「何でこんなところにいるんですか? 学校帰りだって言ったけど、ここ、帰り道じゃないですよね?」
 ここに来るには、高台にある星奏学院を下り、更に別の道を登って来なければならない。確かに広がる風景はそれなりの絶景だが、軽く寄り道をすると言うには、あまりにも労力がかかり過ぎる場所だった。
「俺の密かな癒しポイントなんだよ。教職ってのはストレスが溜まるもんだからなあ」
 首を押さえて肩を鳴らし、しみじみと言う金澤に「ストレス溜まるほど熱心に仕事してるかなあ……」と呆れたように香穂子が呟いた。
「でも、どこら辺が癒し? 確かに向こうに海が見えて綺麗だと思うけど、これくらいだったらこの辺りの高台に行けば、それなりに見える風景なんじゃ……」
「まあ、その辺が知りたけりゃ、もう少し長居してみるんだな」
 時間があるから、ついでにヴァイオリンの練習の成果を見てやろう、と。
 金澤は、一曲香穂子にリクエストをした。

「……そろそろいいぞ、日野。演奏をやめて、振り返ってみろ」
 金澤にリクエストされた曲を、目を閉じ、音を確かめながら弾いていると、不意にのんびりとした金澤の声が、香穂子の演奏を中断させた。
 弓を動かす手を止めて。ぱちぱち、と瞬きをして。周りの明るさに慣れを取り戻した視界で、香穂子は金澤に言われた通り、くるりと背後を振り返る。
 そして。
「……うわ……」
 無意識のうちに、感嘆の声を漏らして。
 目を見開いて、目の前に広がった景色に心奪われる。

 夕暮れのオレンジに染まった、空と海の色。
 ちょうど、この場所からはあまり邪魔になる高層の建物がなくて、視界一面にきらきらと輝く水面が広がって見える。その全てが、正面で海と空の間に融けるの茜色の夕陽の色に、綺麗に染め変えられていた。
「……天気が良くて、空気が綺麗な日でないと、こういう景色にはならないんだよなあ」
 ベンチの背もたれに体重を預けて、金澤が静かに呟いた。
 言葉をなくして景色に見入っていた香穂子が、そんな金澤を肩越しに振り返る。
「……ありがとう、先生」
「何が」
 予想外の礼を言われて困惑する金澤に、夕陽を背に受ける香穂子は、曇りなく笑った。
「海にはこんな楽しみ方もあるって。……先生が教えてくれなきゃ、知らないままだったから」

 今ここに、波の音があればいいのに、と金澤は思った。
 海は視界にはあっても、遠くにしか存在しないものだから、潮騒まではこの場所に届かない。
 だが、波の音があれば。
 目の前に広がる、一枚の絵のような、柔らかで暖かな色彩に融ける綺麗な笑顔に心奪われて、言える言葉をなくしてしまっても。
 波音が、静寂をそっと埋めてくれるのに。

「……先生?」
「……ああ、その。……何だ」
 黙り込んだ金澤を訝しむ香穂子に、金澤は口籠りながら核心に触れない言葉を探す。
「……お前さんみたいな色の空だな」

 夕焼けに染まる、一面のオレンジ。
 それは、心地よくて暖かい、彼女の音色、存在。……そのままの色。
 それに心惹かれて、癒される金澤の心情は。
 彼女はまだ、知らなくていい。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.7.11/加筆修正:2010.7】

金やんだけが、このお題の中で片想い中。いい大人なのに、純情な人だな(笑)
金やんという人は、本心を隠して生きている人なので(私的解釈)、何となく突っ込んだ話が書けないな。もうちょっと深い話も書いてみたいのですが。

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