「何か、都合悪いか?」
土浦の問に、香穂子は「ううん!」と慌てて首を横に振る。
「海には行きたいんだけど、土浦くんと一緒なら、ちょっと変わった雰囲気で楽しみたくて」
「変わった雰囲気?」
鸚鵡返しで土浦が尋ねると、うん、と香穂子が頷く。
「……夜の海に行きたいの」
さすがに夜だと泳げないけどね、と香穂子が苦笑した。
お互いに家には何だかんだと理由を付けて、帰る人々の流れに逆らうように、夕方に土浦と香穂子は海辺行きの電車へと乗り込んだ。
今から出かけて、帰りの電車があるかどうかは怪しいが、最悪ファミレスやネットカフェで一晩過ごすという手段もあるし、どうせ夏の夜は短くて、すぐに新しい夜明けが来る。
目当ての駅に降り立つと、夏の陽は長いとは言え、さすがに辺りには夜の帳が降りていた。駅からすぐに波打ち際が見えるはずの場所だが、街灯が少なく、ただ暗闇の中に波の音だけが響いている。離れた場所で花火を楽しむ集団の声が聴こえて来るのが、ほんの少しの救いだった。
「足元、気をつけろよ」
視界は悪いが、海と砂浜には色の境界線があるから、何とか浜辺を歩くことができる。段差を降りて、先に砂を踏んだ土浦が、背後の香穂子を振り返って忠告した。
「うん……うわっ」
そろそろと短い階段を降りていた香穂子が、思いきり爪先を引っ掛けて、転がり落ちそうになる。咄嗟にその華奢な身体を抱きとめた土浦が、「言ってる側からこれかよ」と苦笑した。
「ごめんね。土浦くん」
恐縮した香穂子が慌てて土浦の腕の中から身を起こす。土浦の手を借りて、何とか段差を降り、離れようとした香穂子の小さな手を、土浦は逃がさないように掴まえた。
「……土浦くん?」
「その……繋いでようぜ。今みたいにつまずいたら、危ないだろ」
「う、うん」
小さく頷いて、香穂子は俯いて自分の爪先を見つめた。
さく、さくと砂を踏む、二人分の互い違いの足音と、打ち寄せる波の音。
時折どこかで派手な花火の光と歓声が上がるが、それは静かに歩く二人には別世界の出来事のように遠いものだった。
目が暗闇に慣れて来ると、次第に白い波間も分かるようになって来るが、それでも昼間の海辺とは違い、砂浜から隔たれた海は、黒い口を開いて、何もかもを呑み込んでしまいそうな気がする。
土浦が香穂子の手を離せなくなったのも、彼女の存在がそんな闇に呑まれて消えてしまいそうな不安に囚われた所為だ。
「……なあ、香穂」
話すことすら憚れるような静寂の中、土浦はぽつりと呟く。波の音にかき消されそうになる声に、香穂子が必死で耳を澄ました。
「何で、夜の海が見たいって思ったんだ?」
泳ぐことも出来なくて。
風景が特に素晴らしいわけでもなくて。
ただ、何も見えない世界に波音が響くだけ。
……そんな不安定な世界に、心細くなるだけなのに。
「うーん。……単純な興味、かな。怖いんだろうなって思ってたんだけど、見たことがないものだから、知ってみたかったというか」
知らなければ、語れないものがあるでしょう? と。
五感で捉えた全てをヴァイオリンに歌わせる彼女は、屈託なく笑う。
「それに、土浦くんとなら。さっきみたいに、何かがあっても土浦くんが守ってくれるだろうなって思ってたから」
周りの景色が何もない暗闇で、足を取られる時でも。
きっと土浦が手を伸ばして、座り込んだ香穂子を、引き上げてくれるだろうと思えたから。
……そうか、と。
低い囁きを、土浦の唇が零す。
うん、と頷いた香穂子の華奢な身体を突然、ゆっくりと。柔らかく。……そして、強く。
土浦の両腕が、抱き締める。
……土浦くん? と戸惑う香穂子の声が、触れる場所から細やかな振動になって、身体中に伝わって来る。
香穂子を捕える両腕に、更に力を込めながら。
土浦は香穂子の髪に頬を埋めて、小さく笑った。
波の打ち寄せる音しか存在しない、夜の海辺で、土浦は深く香穂子に口付ける。
確かにこれが昼間なら、こんな恥ずかしい真似は出来なかったんだろうな、と。
この瞬間でしか作り得なかった夏の想い出を、土浦は大切に心に刻み込んだ。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.7.11/加筆修正:2010.7】
これも、渡瀬的には珍しい雰囲気の土日創作ですね。
でも、この作品は結構早い段階で書き上げていた気がします。お題の雰囲気に引きずられたかな。
ちなみに、衛藤創作でも書いてみましたが、海辺で夜に花火って密かにやってみたかった。暑い時は外に出たくない人なので、こういうことをやらないんですよね(笑)


