放たれる
『暁のヨナ』ハク×ヨナ ※続編有
それは、現在の生活に少しは心の余裕が生まれた証拠なのだろうか。
ここしばらくの間、ヨナはひたすらに己自身の中で葛藤を続けていた。
大切な仲間たちと共に高華国の綻びを探し当て、それを丁寧に繕っていく日々。
高華国中のありとあらゆる村を巡り、そこに潜む歪みの種を一つ一つ掘り起こして滅していく、どこまでいっても終わることのない……とても長い、長い旅路。
城を離れてから、それほどの長い月日が経過したとは言えないけれど、今の自分にはあの箱庭で暮らしていた生温い湯に足を浸しているような、穏やかな日々の方が遥かに遠い。
少なくとも、新王を頂き新しい時代へ踏み出そうとしているこの国にとって、ヨナという名のお飾りの姫はもう必要がないだろう。……その、この国を統べる新王に対し、ヨナ自身がどんな感情を抱いていようとも。
姫という肩書を奪われたかつての王族の一員として、自分が求められるべき役割があるのだろうとヨナは思う。
自分がどうあるべきなのか、正しい解は本当は分からないままだが、せっかく己の足で歩き、自らの目で、耳で世界を感じ取れるようになった。
それは、あの遠い緋龍城に閉じこもったままでは、絶対に出来ないことだ。
今あの城に存在する者たちと違う方法で、ヨナはこの国を守りたいと思う。
この国を作り上げたという四龍たちの能力を借り得ることの出来る、ヨナにしか出来ない形で。
その思いに揺らぎがない以上、ヨナは迷うことなくただ己の信じた道を歩いていけばいい。……そのはずなのだが。
現在のヨナの脳内を埋め尽くしているのは、そこまで大層なものではなく、国の存亡のことを思えば、とてもささやかなこと。
だが、ヨナ個人にとってはこの国の行く末と同じくらいに、重大な悩みだった。
人の口に上るような不穏な状況になっている土地を訪れ、その原因と思われるものを一つ一つ、解決とは言えないまでも、何かしら道筋を示せるように事態を収束させながら、ヨナとハク、ユン、そして四龍たちの一行は旅を続けていた。
この国の綻びは、際限なくそこら中に散らばっているのだろう。たった一つのことを終わらせても、争いの火種はあらゆるところで燻っている。……それは、人が人であるが故。
それでもまだ、今この瞬間に、ヨナたちが手を出すべき明確な命題は見えてきていない。
……要するに、旅は今、特に目的のない平穏な状況に置かれている。
自分たちが手を加えるべき案件を探しながら、仲間たちはゆったりとした旅を続けていた。
その合間にはこんなふうにハクと二人きりになる時間がある。……それはもちろん、偶然ではなく、始終共に旅を続ける仲間たちが想いを通わせたヨナとハクに気を使い、時折与えてくれる甘い休息だ。
ヨナが自分の奥底にずっと眠っていたハクへの恋心に気付いたのはいつだっただろう。そして、城にいた頃からこれまで、ハクが時折見せた自分のことをからかうような態度が、自分への想いを誤魔化すための彼の必死の防御だったことを知ったのは。
……同じ時期に不意に現れたその瞬間は、決して遠い過去ではないのだが、それでもヨナにとっては随分と昔の出来事のように思えてしまう。
想いを伝えあって以後、……自分たちの間には特に変わった出来事が何もないからだ。
相変わらずハクは、ヨナにとって有能な従者のままだ。……少しだけ、態度は優しくなったような気もするけれど、それはもしかしたら、ハクはずっとそんなふうに優しかったのだということを、想いを交わしあった今、ヨナがようやく実感できるようになっただけなのかもしれない。
……つまり、やっぱり自分たちの関係は、想いが通じ合う以前とは特段何も変わってはいない。ハクはヨナに対して特別甘い言葉を告げるでもなく、親しげに触れるでもない。
だからこそ、二人きりになれば愚痴の一つも零してみたくなる。
「……ねえ、ハク」
平たい岩の上に腰かけ、揃えた両膝の上に頬杖をついたヨナが、幾分拗ねた口調で少し離れた場所から、同じように岩の上に腰かけ、得物の大刀を手入れするハクに呼びかける。
視線は手元に落としたまま、ハクが低い声で応じた。
「何ですか? 姫さん」
「……今更、改めて確認するのもどうかと思うんだけど」
ぼそぼそ、と小さな声で前置きをして。
「私たちって、恋仲よね?」とヨナが直球の問いをハクへとぶつけた。
からん。
ハクの両手から落ちた大刀が、硬い地面の上で乾いた音を立てて、跳ねた。
……おっと、いかん。俺としたことが。
独りごちながら大刀を拾い上げるのが、虚を突かれたハクが己を取り戻すのに要した時間だった。
「……何ですか、急に」
「いいから、答えて。……私たち、恋仲なのよね?」
相変わらず、この姫に真正面から感情をぶつけられれば、抗えない自分がいる。
重い溜息と共に、ハクは言葉を吐いた。
「そうですね。……姫さんの方の気持ちが変わっていないのなら、そうじゃないですか?」
……正直なことを言えば、そこの部分を確認しておきたいのはむしろハクの方だった。
この姫は、こっちがどれだけ長い間、燻る想いを殺しながら側仕えを勤めていたと思っているのだろうか。
「それなら、いいんだけど……」
ヨナは緩やかな曲線を描く頬をほんのり桜色に染めて、もごもごと口の中で呟く。
ヨナの想いが変わらなければ、恋仲のまま。
つまり、ハクの方はずっと変わらずに自分に恋心を抱いてくれている……ハクの返答は、ヨナにとってちょっとだけ思いがけない、嬉しいものだった。
「……誰かに何か吹き込まれましたか?」
突然のヨナの発言がもたらした衝撃が落ち着き、ヨナがいきなりこんなことを言い出した理由を考えてみると、思い当たる節がいくつかある。
ヨナの目前に歩み寄り、溜息交じりにハクが尋ねると、声を一段階高くしたヨナがふるふると首を横に振りながら否定する。
「だ、誰も何も言わないわ。ただ、普通恋人同士って言ったらもっとイチャイチャ……じゃなくて、触れ合ったり見つめ合ったり、とにかくもっと甘い雰囲気になるものなんじゃないかって、私が勝手に思っただけよ!!」
最初に出てきた言葉で、すぐに誰の差し金かハクは理解する。
ヨナが培ってきた語彙の中に、よりにもよって『イチャイチャ』は存在しないだろう。
タレ目……!と、ハクは思わず握った拳を震わせた。
「……お前が以前とあまりにも変わらないから、不安に思ってるのも、本当よ。私がちゃんと、お前に気持ちを伝えられていないんじゃないかって」
ハクがこれまで、決して主と従者としての境界を超えず(たまに踏み越えそうになる瞬間はあったものの、鋼の理性で何とか踏みとどまった)、自分の想いを殺してヨナのことを命がけで守ってくれたことは、誰よりもヨナ自身がよく分かっている。お互いに抱く想いが同じであるならば、今まで抑え続けていたその想いを解き放って欲しい。……それを受け止められる自分でありたいとヨナは願うのに、自分が世間知らずであるせいで、まだハクに何かを我慢させている気がするのだ。
……そう考えると、ヨナは寂しい。
ハクに何かを耐えさせることが寂しく……そして、ヨナ自身もどう解き放てばいいのか分からずにいるハクへの想いを、持て余していることが苦しい。
「ねえ、ハク。……私は、お前が好きよ。……お前が幸せになるために、私は一体、何をすればいい……?」
そろそろと細い腕を伸ばし、ハクの服の端を指先で掴んで、ヨナが目の前に立つハクを見上げる。まっすぐに想いをぶつけてくるヨナの眼差に、ハクは思わず息を呑む。
……想いがいつか届く日が来るのなら。
まだ理性の成長が追いつかない幼い頃、誰にも邪魔されない己の思考の奥底で、ハクは何度も目の前の愛おしい存在に触れた。
月日を……想いを積み重ねるごとに脳内の自分は反比例するように獰猛になっていき、いつしかハクはそんな内に潜む自分自身から目を反らした。
大切な、守るべき主だと言い聞かせ、彼女を欲する枯渇した自分自身を閉じ込めた。箍が外れそうになる時にも、冗談の中に本心を溶かし込み、必死の思いで誤魔化してきた。
……そして、本当に彼女への想いが届いた日。解き放つことを許された自分の中の妄執を、ハクは以前と変わらずそのまま奥底で飼い慣らし続けた。それは、長年目を反らし続けていたから、もはやハク自身にもどんな姿をしているのか分からない。
たとえヨナに許されようと、誰も目にすることのない心の奥底で長い時間をかけて澱み、積もり積もった劣情を、彼女に向かって放つことは、躊躇われたのだ。
「……ハク?」
不安げに、自分を見つめる愛おしい存在。
ヨナにはハクの中の葛藤は、預かり知らぬところだ。
ヨナと共に過ごし、彼女の恋を見守ってきた立場としては、彼女の中の恋愛観がどの程度のものなのかの想像はつく。ハクの奥底に潜む劣情に思いを馳せることはなく、ただヨナが、想いを確かめ合ったはずなのに『主と従者』から『恋人』へと切り替わることのない関係を不安に思っていたのであろうことは容易に察することが出来た。
ハクは傍らに大刀を置き、ヨナの前に片膝をつく。不安げに揺れる彼女の双眸を見つめ返し、その頬に指先で触れた。
「……不安にさせて、すみません」
一言詫びて、頬を寄せ。
軽く、啄むようにその柔らかな唇に口付ける。
触れるだけですぐに離れ、ヨナの顔を見つめると、見る間にその頬は朱に染まり、ヨナはこの上なく幸せそうに……愛らしく微笑んだ。
それは、かつて唯一彼女を任せてもいいと思えていた親友に。
まだ痛みを知らなかった彼女が、惜しげもなく与えていた、咲き誇る花のような笑顔だった。
そして、その笑顔は。
ハクが長年蓋をしてきた想いを解き放つのに充分な、尋常ではない破壊力を持っていた。
触れるだけで、止めるつもりだった。
いくらヨナがハクを求めても、幼い戯れの一つで、彼女が満たされるであろうことを知っていたから。
そして、たかが軽い口づけ一つで、自分の中に潜む妄執を閉じ込めた蓋が、開くことはないと高をくくっていた。
だが、遠い過去から抱き続けていた彼女への自分の想いそのものをハクは侮っていた。
触れてはいけなかったのだ。
彼女を大切にしたいのなら、彼女の心が自分の劣情を受け止められるほど成長する、その時が来るまでは。
想いを込めて彼女に触れれば、たったそれだけのことで。
出口を求めて燻っていた劣情は、容易く決壊を遂げる。
(……ああ、くそ。人の気も知らねえで)
(この無邪気な姫さんは、並々ならぬ渾身の努力を、一瞬で灰燼にしてくれやがって!)
「ハク……っ!?」
焦ったような、切羽詰まったヨナの声。
その顔は見ないように、ハクは強く、強くヨナの華奢な身体を抱き締める。
もう留まりようのない感情の奔流を、頭の中でハクはヨナのせいにした。
先ほどの穏やかな優しい口づけが嘘のように。
ハクの唇は、性急にヨナの唇を求めた。
反射的に閉じかける唇の隙間を押し広げて、ハクの熱い舌がヨナの口内を侵し始める。咄嗟に後ずさろうとするヨナの髪にハクの片手が埋められて押さえつけられ、逃げられない。
呼吸すらままならなくて、酸素を求めて懸命に開く唇を、容赦なくハクのそれが塞ぐ。苦しさと、自分の内側から湧いてくる理由の分からない感情に、ヨナの閉じた目尻から淡い涙が浮かんで、流れ落ちた。
……それは決して、嫌悪や恐怖ではなかった。
(こんなふうに、ハクは強く私を想ってくれていたんだ)
周囲の人間から聞かされる、ハクの自分への想い。
好きと告げて、俺も好きですよと言われても、実感することのなかったハクの想い。
もしかしたら、本当はこれですら足りないのかもしれない。
終わりの見えない激しい口づけにぼうっと麻痺していく脳裏で、ふとヨナはそのことに気が付く。
いつもはぐらかされてきたから見えなかった、ハクの心の奥底の部分。
おそらくは、他の誰でもない、ヨナ自身のために閉じ込められていたハクの感情。
(……もっと、ちゃんと知りたい)
そんなふうに思えたのは、きっとヨナも『そう』だからだ。
自分ですら気づかないほどに、ひっそりと息づいていたハクへの想い。
確かに、ハクが長い間抱いていたものに比べれば、費やした年月は短いものなのかもしれない。
だが、その強さは。
その深さは、ハクのものと比べてヨナのものが劣るだなんて、いったい他の誰が言えるというのだろう。
「……すみません」
突然、ハクがヨナから身を離す。
ヨナの肩を掴んで自分から引き離し、顔を背けたハクの横顔に、後悔の念が浮かんでいる。乱暴にハクの掌がヨナの頬に流れた涙を拭い、ハクはヨナから目を反らしたまま、立ち上がった。
「少し、頭冷やしてきます。……これに懲りたら、タレ目の戯言に付き合って、俺を煽るような真似は止めてくださいよ」
洒落になりませんからね、と自嘲的に呟き、ハクはその場を立ち去ろうとする。思わずヨナはその背中を追いかけ、背後から両腕で懸命にハクの大きな身体を抱き締めた。
「馬鹿!嫌だから泣いてるわけじゃないわよ! 全部一人で勝手に結論付けて、私の気持ちを聞かないまま、なかったことになんかしないで!」
ようやく掴みかけたハクの本心を、ヨナは逃がすまいとする。そもそもこの男は、我を失くし想いの丈をぶつけられたあの深い口付けを、ヨナが嫌がっているのだと本気で思っているのだろうか。
「お前が好きだって言ってるじゃない!お前に触れられて……求められて、私が嫌なわけがないでしょう!」
「……姫さん」
振り返ったハクは、どこか唖然としていて。
本気で、この男は自分の想いを分かっていなかったのだと、何だかヨナは腹立たしくなる。
その苛立ちの勢いのまま、ヨナは懸命に爪先で立ち、両手を伸ばし、ハクの頬を引き寄せて。
ぎこちなく、その乾いた唇に唇を押し当てた。
ハクほどに情熱的で、官能的ではなくても。
ヨナも、同じ想いでハクを求めている。そのことが、ハクに伝わるように。
やがて、されるがままにヨナの唇を受け止めていたハクの腕が、衣擦れの音を立てて、もう一度ヨナの身体を抱き締める。
今度は、先ほどのようにヨナの自由を奪うものではなく、とても優しい抱擁だった。
互いの唇は幾度も軽く、啄むように触れ。
やがて、先程の勢いはなくても、口付けはゆっくり、ゆっくりと深まっていく。
甘い吐息と漏れる声を混ぜ合わせて、互いの身体の中に響く水音が、徐々に二人の身体に官能的な熱を灯し始めた。
「……ヨナ」
ぽつり、と落とすような低い声。
その後に『姫』と告げることはなく、初めてハクはヨナ自身の名をその声で呼んだ。
息のかかるほどの至近距離から、ヨナは潤む瞳でハクの顔を仰ぎ見る。
……そこにあるのは、ヨナがおそらく初めて目にする、異性として自分のことを見つめる一人の男の強い視線だった。
「……お前だけは、私が姫であったことを忘れないでいて」
いつかの嘆願を、ヨナは繰り返す。だが、そのハクの強い眼差をしっかりと受け止めながら、ヨナは続けて更なる願いをハクに告げる。
「だけど、こうして二人だけの時には。私のことをヨナと呼んで。お前の恋人として、同じ高さで……お前の傍にいさせて。お前が求めてくれるなら、その想いを殺さないで。全部解き放って、私に教えて」
頬を伝う幸せな涙を、ハクの唇がそっと吸い上げる。しばらくヨナを抱き締めたまま、何事かを考えていたハクが、やがて「あああああっ」と大声を上げてぐしゃぐしゃと片手で自分の髪を掻き乱した。
「あーもう、何だか耐え忍んでいた自分がアホくせえ……」
一方的に想う期間が長かった分、ハクは想われる自分というものを考えたことがなかった。
もっと、単純でよかったのだ。
好きだと言ってくれたヨナは。……自分を受け入れようとしてくれているヨナは。
とうに、覚悟を決めていてくれていたのだから。
「ここにいろ、ヨナ。ユンのとこに行って、金貰ってくる」
「お金?」
首を傾げるヨナに、いつもの……ヨナが大好きなあの強気な笑顔で、ハクはヨナを見下ろす。
「この間、例の市でそれなりに客引き手伝ってやってるからな。儲けもほどほどに出してやったし、多少の小遣いはくれるだろ。まあ、至れり尽くせりとまではいかないが、それなりの甲斐性は見せねえとな。……ここまで煽っといて、今更嫌とか無理とか何の事だか分からないとか、言ってくれるなよ」
「い、言わない」
元来の負けず嫌いが反応して、よく分からないまま反射的にそう叫んだヨナは、叫んでいるうちにハクの言っていることの意味に気が付いて、真っ赤になりながら「……わよ」と語尾を小さくする。
ふうん、とにやにやと意地の悪い笑みを浮かべるハクが顔を覗き込もうとするのを、ぺし、と平手で額を叩いてやった。
「行くなら、早く行って来て!……その、ちゃんと、心の準備しておくから」
恥ずかしげに視線を反らしながら、それでもそんな可愛いことを言ってのける、長く想い続けた果てにようやく手に入れた自分の念願の恋人を。
ハクは心底、最強だと思った。
燻ったまま蓋をして、目を反らし続けていた劣情が。
今この瞬間に、息づくことを許され、放たれようとしている。
解かれたものが、たとえ目を背けたくなるような歪で穢れたものであったとしても。
それをぶつけた先に訪れるものが。
ささやかでも『幸福』の形であることを。
ハクはただ、心から願っていた。
2015.02.11 執 筆
2015.08.09 加筆修正
【あとがきという名の言い訳】
単純に某曲を聞いてて書きたくなっただけの話なんですが、
これを書き終えた瞬間に「ああ、これ続き強請られるパターンや……」って思いました!(笑)
この時点ではざっくりしたあらすじしか決めてなかったんですが、
書いてみたら結構重い話になっちゃったなあと後悔しました(笑)
ここまでは結構軽かったのにぃ……。
ちなみに延々聴いてた某曲は全く雰囲気違う曲ですが(笑)
歌詞の一部だけひたすら脳内をループしてました。