貴方にとって。

My confidence mucic 第1話

「……日野!」
 昼休み。エントランスの人込みの中、背後から香穂子の名前を呼ぶ声が聞こえた。
 聞き慣れていると言うほどに馴染みは深くなく、聞き慣れていないと言うほどに耳にするのに間隔を空け過ぎない声。
 香穂子がくるりと声のした方角を振り返ると、人込みの間を縫うようにして、月森が近付いて小さな溜息をつきながら香穂子の目の前で立ち止まった。
「月森くんも今からお昼? 購買で買うのって、人が多くて大変だよね」
 たった今買い込んだばかりの、ようやくありついた戦利品の紙袋を掲げて香穂子が苦笑いをすると、月森が、ああ、いや、と少しバツが悪そうに口籠る。
「俺は、昼食を買いに来たわけではないから……。今日の放課後は、時間が空きそうだから、君の都合がいいなら、練習に付き合おうかと思ったんだ」
 香穂子が、ぱちりと大きく瞬きをした。
「え……わざわざ、ここまでそれを言いに来てくれたの?」
「最初は、君の教室に行ったんだが、昼食を買いにエントランスへ行ったと教えてもらったから……」
「ええ!?」
 更に香穂子は驚愕する。
 ヴァイオリンを教えてもらうようになってから、増々月森に対しての印象が変わって来たような気がする。初めて会った時にはあまりに愛想がなくて、関わり合いになりたくないと思って。その後、同じ学内コンクールに参加するようになって、彼のヴァイオリンへの誠実さを知って。……そのコンクールを経て、真直ぐで、真面目で、とても不器用な青年なのだと知った。ヴァイオリン以外の事に意識を向ける器用さを持ち合わせていなくて。
 そして、今。……本当は、とても優しい人なのだと香穂子は思っている。
 基本的に妥協や甘えを許さない人だから、口にする言葉は辛辣で、時々ぐさりと胸に刺さって痛い。それでも、その言葉にはいつだって嘘がなくて……。
 だから、放たれた瞬間には痛いものになるけれど、それは時間をかけてじっくりと香穂子の心に浸透していって、とても必要な指針となる。そういう貴重なことを、惜し気もなく晒してくれる人なのだと気付いた。
 一度引き受けたことなのだからと、本来自分の事で目一杯忙しいはずの月森は、その合間を縫って、暇を見つけては頻繁に香穂子のヴァイオリンの指導をしてくれる。あまり馴染みのない普通科校舎に足を踏み入れるのは躊躇われるだろうに、自分の空き時間ができたら、その都度こうして香穂子の都合を聞きに来てくれるのだ。
「あのね、月森くん。……実はちょっと前から思ってたんだけど……」
 自分の事でも手一杯なはずなのに、更に香穂子まで抱えて。
 彼のヴァイオリンに憧れて、その音色を目指す香穂子にとっては、これ以上にない有難い状況なのだけれど、それで月森に負担をかけるのは本意なことじゃない。
 ……月森との練習時間は、有意義で楽しいものだ。だからこそ、彼にも同じ気持ちでいて欲しい。香穂子との練習を嫌な時間にして欲しくない。
 そのために、香穂子にも出来ることがあるのなら、月森の負担を減らしてあげたかった。
「携帯持ってる?」
「ああ。あまり使ってはいないが、両親が留守がちだから、いつでも連絡がとれるようにと、一応持たされているが……」
「練習できるかどうかの連絡って、携帯ですればいいんじゃないのかな? メールでやりとりするようにすれば、時間気にしなくていいし、月森くんがこっちに来る手間って省けるよね?」
「……」
 月森が、きょとんとした表情で、瞬きをする。
 ……考えたこともなかったんだ、と香穂子は心の中で苦笑した。
「赤外線で受信ってできるかな? 送ってくれる?」
「ああ、いや……すまない。あまり使うことがないから、そういうのが良く分からなくて……」
 ごそごそと自分のポケットから携帯電話を取り出そうとした香穂子に、慌てたように月森が告げる。もう一度、月森の顔を見つめ、彼の困惑した表情に、香穂子はふと。
 ……何だか、急に心がふわりと暖まる心地がした。
「……月森くん、お昼食べた?」
「いや、今からだが。……君の都合を聞いたら、そのままどこかで食べるつもりだったが」
 言葉どおり、月森の片手にはお弁当らしき紙袋が提げられている。
「じゃあ、よかったら一緒に食べない? 一緒に食べるついでに、携帯の設定してあげるよ」
 香穂子の突然の申し出に、月森が驚いたように目を見張る。……図々し過ぎたかな、と香穂子は内心冷や汗をかく。
「……あの、迷惑ならどうしてもってことじゃないんだけど……」
「……いや」
 恐る恐る呟く香穂子に、月森は軽く首を横に振った。
「逆に迷惑をかけるが、そうしてもらえると、助かる」
 ほんの少しだけ。
 照れたように微笑んだ月森が。
 内緒話をするみたいな小さな声で、香穂子に告げた。



 天気のいい日だから、昼食場所には屋上を選んで、二人並んでベンチに座った。
 それぞれの昼食を食べ終わった後、月森が香穂子に渡してくれた彼の携帯は、偶然にも香穂子のものと同じメーカーのものだったので、あまり迷うことなく香穂子は月森の携帯に自分の電話番号とメールアドレスとを登録することが出来た。何気なく電話帳の一覧を見てみると、本当に友人のものらしい情報は一つも入っていなかった。
「……ねえ、これって困ることないの?」
「困ることって?」
 思わず尋ねた香穂子に、真顔で月森が尋ね返す。
「例えば、学校の急な連絡事項があった時とか、それとか、休日に遊びに行く時とか、待ち合わせ場所変わったり、時間遅れたり……そういう連絡って、携帯ないと困らない?」
「学校からの連絡ならば自宅に電話がかかってくるし、休日に特に遊びに出ることはない。……ヴァイオリンの練習をしているから」
 月森らしいと言えばらしい返答に、香穂子はうーんと眉間に皺を寄せる。何か問題が?と月森が片眉を上げた。
「問題ってわけじゃないんだけど……私、登録しちゃってよかったのかなって……」
 彼の友達ですら、登録されていない彼の携帯電話。そこに家族以外で最初に名をつらねる人物が、自分なんかで良かったのだろうか。
「構わないだろう。……必要なんだから」
 綺麗に背筋を伸ばして。
 真直ぐに前を見て、ベンチに座っている月森が、何でもないことのように言う。
 あまりにもきっぱりとした彼の物言いに、香穂子は何も言えなくなって。
 曖昧に、そうだね、と頷いた。

 月森の携帯は、登録したデータを分類してはいないので、家族らしい彼と同じ名字の人達の名前の最後に、香穂子は自分の名前を保存した。その後、月森の携帯から受け取った彼の情報を、自分の携帯の中で分類するのに、香穂子は少しの間迷って、空を睨む。
(私にとって、月森くんって何なのかな)
 友達と言えるほどに、親しい付き合いはしていなくて。
 ただの顔見知りと切って捨てるには、彼には面倒をかけ過ぎている。
(ヴァイオリンの先生……?)
 現時点での自分達の関係性を考えれば、それ以外には言い様がないのだけれど。
 それだけで終わらせるのが、何故か寂しくて。
(上手く言えないや)
 困ったまま、香穂子は月森の情報をどこにも分類することなく、たった一つだけ、別の箇所へと保存しておく。
 他に、並び立てるもののいない場所に。
「出来たよ。……はい」
「ありがとう」
 データの保存が終わった携帯を月森に差し出すと、月森はそれを受け取り、意外にも慣れた手付きでボタンを押し、中のデータを確認する。
「……日野。……香穂子」
 確認の為か、一言ぽつりと月森の声で紡がれた自分の名前に。
 何故か、香穂子の心は軽く跳ねた。

「じゃあ、これからは空き時間が出来たら、君の携帯にメールをするから」
「う、うん。私も、授業が終わったら月森くんからメール来てないか、確認するようにするね」
 頷いた香穂子に、月森は少しだけ困ったように笑う。
 微かな、微かな。
 あまり、他の誰かには見せることのないであろう、微笑み。
「……練習時間のこと以外でも、何か困ったことがあったら、いつでも連絡をくれていい」
「……え?」
 驚いて。
 ぽかんと口を開けてしまった香穂子に、月森は苦笑して、香穂子から受け取った携帯を掲げてみせる。
「せっかく、こうして気軽に繋がる手段が、一つ出来たのだから」

 私にとって。
 貴方という存在が、簡単に一言で説明出来るものではないように。
 貴方にとって。
 私という存在は、ただの友達でも、顔見知りでもなく。
 ほんの少しだけ、他の人とは違う価値観を持って、貴方の心の中に住んでいるのかな。

(そうだといいな)

 音楽科の教室へ帰る月森の、均整の取れた後ろ姿を見送りながら、香穂子は新しく手に入れた、月森と繋がる手段である携帯を、ぎゅっと両手で、大事に握りしめる。

 香穂子にとっての月森も。
 きっと、ただのヴァイオリンの先生では終わらないくらいに。
 心の奥でそっと。
 心地いい存在として、息づき始めているのだけれど。
 ……今はまだ、気付かない振りで。

(月森くんは、私の『憧れ』だから)

 見送る背中が、少しだけ眩しく目に映るその理由を。
 ……月森の名前を、ただの友達のカテゴリに加えられない理由を。

 そんな言葉で香穂子は誤魔化した。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.11.26】

連作なので、あとがきは最後の作品で!

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