今以上、これ以上

My confidence mucic 第2話

 練習が終わり、緩めた弦を指先でそっと撫で、香穂子はふう、と天を仰いで溜息を付く。膝の上のヴァイオリン、音を奏でるために張られている複数の平行に並んだ弦を、じいっと見下ろした。
「……弦がどうかしたのか?」
「うん……替えの弦が欲しいなって思って、いろいろ調べてみるんだけど、どれがいいのかよく分からなくて」
 不意に尋ねて来た声に、香穂子は深く考えずに反射的に返答をする。
 しばしの沈黙。
 『応えた声があった』という事実に気が付いて、香穂子ははっと顔を上げた。
 香穂子の前方で、同じように練習の終わったヴァイオリンをケースにしまいかけていた月森と、ばっちり目が合った。
「あの……えっと……」
 内心、冷や汗を浮かべて香穂子は月森にぎこちなく笑う。今更、自分が使うヴァイオリンの弦の選択も出来ないなんて、勉強不足と罵られても仕方がない。
 だが、月森は特に呆れるふうでもなく、ふと窓の外に視線をやる。秋口になり、気温が涼しくなっていくのと比例して、日暮れの時間も早まっていく。矩形に切り取られた窓の外の景色は、もう夕闇の色に染められていた。
「……土曜で構わないか?」
「は。……え?」
 窓の外を眺めたまま、ぽつりと呟いた月森の言葉の意味が分からず、香穂子はぱちぱちと瞬きをする。きょとんとした月森が、香穂子に視線を向けた。
「弦を選べばいいんだろう? 休日にわざわざ外出したくないかもしれないが、練習の後に駅前通りの楽器屋に寄って帰るとなると、本当に、真っ暗になってしまう。それでは、じっくり選ぶこともままならないだろう」
「え、ええ?」
 驚いた香穂子が、目を丸くする。そこにきて、ようやく月森の発言の意味が分かる。
「……選ぶの、付き合ってくれるの?」
「俺では不服だろうか? もしくは、今度の土曜が都合が悪いのなら、別の日を考えるが?」
「う、ううん!」
 心配そうに、真顔で尋ねる月森に、香穂子はぶんぶんと大きく首を横に振る。
 不服どころか、願ってもないことだ。
「月森くんが大丈夫なら、私はいつでも、全然平気!」
 香穂子の物言いに、月森は小さく笑う。
「……今度の土曜日。駅前の時計台のところに、10時に待ち合わせで大丈夫か?」
 ぱたん、とヴァイオリンケースを片手で閉じながら、月森が告げる。香穂子は、うん、うん、と何度も首を縦に振った。
「じゃあ、それで。……もう暗いから、途中まで送っていこう」
 自分の荷物とヴァイオリンケースを握り締めた月森に、香穂子はもう一度、慌てて頷いて。
 ばたばたと自分の荷物を片付け始めた。

 ヴァイオリンを通して、少しずつ月森と過ごす時間が増えていくたびに。
 自分たちの距離もまた、比例して少しずつ近付いていくのが分かる。
 ……もしもこのままのペースで、今よりももっと自分たちの距離が近付くのなら、いったいこの関係はどうなるんだろう。
 何も自分自身の答えを用意していない香穂子の脳裏で。
 ここ最近、同じ問が何度も何度もループしている。
(……どうなりたいんだろう?)
 今以上、近付くことで。
 自分は、月森との関係の何かが変わることを、望んでいるのだろうか。
(それとも)
 これ以上は、何も変わらないことを?


 そして、待ち合わせの土曜日。
 遅れるのは言語道断だし、かといって、あまり早くから気合を入れて待っていても、逆に重くなるのかなと不安に思いながら、待ち合わせ時間の五分前に約束の駅前の時計台に香穂子が到着すると、既にそこには月森の姿がある。遠目にも目に付く凛とした立ち姿に、香穂子は慌てて駆け寄った。
「ご、ごめんね! 待った?」
「……いや」
 腕を組んで、所在なさげに佇んでいた月森は、香穂子の到着と共に組んでいた両手を解いて身体の線に沿って下ろし、小さく首を横に振る。ちらりと時計台の文字盤に視線を上げた。
「……まだ、約束の時間には早い。だから、君が謝る必要はない」
「……うん。ありがとう」
 諭すような物言いに、香穂子が神妙に頷く。苦笑するような素振りを見せる月森が、行こうか、と香穂子を促した。

 月森の行きつけだという大きな楽器店、ヴァイオリンの弦を取り揃えてあるフロアの一角で、月森と香穂子はああでもないこうでもないと言い合いながら、香穂子に音色に合うヴァイオリンの弦を探す。
 はっきり言ってしまえば、月森が滔々と解説する様々な弦のあれこれについては、元々音楽とは馴染みのない生活をしていた香穂子には、まるで異国の言葉を聞いているくらいに理解し難いものだったのだけれど、それでも香穂子は真面目に、懸命に自分の頭の中で月森の言葉を噛み砕きながら、彼の話を聞いた。
 結論として、香穂子の音の雰囲気に見合っているだろうと月森が選んでくれた弦を、勧められるままに香穂子は買い込む。会計を終えて、月森が待つ場所に戻って来た香穂子に、月森が何故か申し訳なさそうに俯いた。
「……その、すまなかった。つい、夢中になって、いろいろと話してしまって」
「なんで謝るの?」
 香穂子が、きょとんとして首を傾げる。困惑気味に香穂子を見つめる月森に、香穂子は屈託なく笑ってみせた。
「あの……本当のこと言えばね。よく分からないまま聞いてたとこもあったんだけど……でも、月森くんが教えてくれることで、私がヴァイオリンを弾くのに無駄になることなんて、絶対ないと思うんだよ。……だから、あの。私なりに、一生懸命勉強するから。また、いろいろ教えてくれる?」
 逆に、少しだけ困ったような表情で、上目遣いに尋ねる香穂子に、月森は小さく息を呑んで。
「……俺で、教えられることならば。……喜んで」
 と、はにかんだように笑った。

「この後、まだ時間はあるだろうか?」
 目的のことを終えて、さてこれからどうしようと楽器店から一歩踏み出したところで、意外にも月森の方がそう香穂子に尋ねてくれた。
「うん、全然大丈夫。逆に、月森くんの都合がよければ、今日のお礼にお茶でも御馳走しようかななんて思ってたんだよ」
 買い込んだ弦の入った袋を大事に抱き締めながら、香穂子が月森を見上げる。
「お礼をされるほどのことはしていないと思うが?」
「だって、本当なら月森くん、お休みは自分のヴァイオリンの練習をしてるんだよね? その時間を、私の都合で使わせちゃってるわけだから。……って結局、お茶するのも、その貴重な時間を使わせてるってことになるのかな……?」
 うーん、と首をひねる香穂子に苦笑して、月森は不意に歩き出す。遅れた香穂子が、慌ててその背中に駆け寄った。
「月森くん?」
 追い付いて彼の顔を覗き込むと、月森は前方を見据えたまま、ぽつりと呟く。
「店は、俺が選んでも構わないか?」
「うん? うん! 私は全然好き嫌いとかないし、もし月森くんが好きなお店があるなら、そういうとこ選んでもらった方が、全然いいよ」
「……ありがとう」
 そうして、二人肩を並べて歩いているうちに。
 少しだけ早足で懸命に月森と肩を並べようとする香穂子に、月森が気付いて。
 ふと黙ったまま、香穂子の歩調に合わせて、歩く速度を緩めてくれた。



「……意外」
 こじんまりとしたシックな喫茶店の片隅、店員に案内された席に腰を下ろして、注文を聞き終えて店員が二人の席から離れていった後に、香穂子の本音がぽつりと零れた。
「何が」
 お冷やのグラスを口元に運ぶ月森が、ちらりと香穂子を見つめて呟く。
「そりゃ、月森くんがこういうお店をチョイスしたことが、だけど」
「……言われるだろうとは思っていたが」
 真顔で言う香穂子に、不機嫌そうな表情で月森が溜息を付いた。
 落ち着いた色の照明に、邪魔にならないボリュームで有線のクラシック音楽が満ちている紅茶を専門として扱っている喫茶店。雰囲気は確かに月森に似合っているが、客層の七割は女性が占めている。紅茶に合ったお茶請けのデザートも充実していて、月森が頻繁に通うようなお店だとは思えない。どうしてこの店を選んだのかを尋ねたら、普段は紅茶の茶葉だけを購入しに来るのだと教えてくれた。
「紅茶は、母が好きなんだ。その影響か、俺も好んで飲むようになってしまって」
 ふうん、と香穂子が頷く。
 それは、ヴァイオリンを弾く月森しか知らない香穂子が初めて知る、それ以外の月森の嗜好だった。
 やがて、二人の席にそれぞれの注文した品が運ばれてくる。
 月森はスタンダードに、アッサムのストレートティ。
 香穂子はアールグレイのミルクティと、ベイクドチーズケーキを注文した。
(……ええと)
 運ばれて来た一式をじいっと見つめ、香穂子は困惑する。それに気付いた月森が、小声で尋ねた。
「……どうした?」
「ん? ……あの、お砂糖とかないのかなって……」
 甘党過ぎると家族からはうんざりされるのだが、幼い頃から紅茶には砂糖を入れる習慣がある香穂子は、何となく砂糖を入れないと、紅茶を美味しく飲めない気がするのだ。
「甘味を増やしたければ、言えば持って来てもらえるが……。騙されたと思って、そのまま一口飲んでみたらいいと思うが?」
 躊躇なく何も入れない紅茶のカップをそのまま口元に運んだ月森が、悪戯を思い付いたような笑顔で、そう告げる。
 ……その初めて見た月森の表情に、香穂子はしばし、目を奪われる。
 こんな表情が出来る人だったんだと、呆気に取られた。
 月森と、ティーカップとを交互に見比べ、香穂子はやがて、思い切って甘味を何も入れないティーカップを両手で抱え上げる。渋かったら、その時にお砂糖を持って来てもらおうと決心して、恐る恐るミルクティを一口含んだ。
「……美味しい」
 口の中に広がった、今までに味わったことのない紅茶の味に。
 香穂子は思わず、呆然と呟いた。
「ええっ、嘘! 砂糖入れてないのに、全然渋くないよ?何で?」
「きちんと手順を踏んで、時間をかけて丁寧に入れると、本来の紅茶の味はそういう味だということだ。……以前、カフェテリアで君が紅茶にやたらと砂糖を入れて飲んでいるのを見た時に、そういうことじゃないかと思っていたんだが」
「何か、すっごいカルチャーショックだ……」
 むう、と顔をしかめた香穂子を、面白そうに月森が見やる。

 そうして、生まれて初めて口にした、本当の紅茶の味も。
 サイズが小さい分凝縮されているのか、濃厚な味がする極上のベイクドチーズケーキも。
 ……目の前で、無駄な話をすることもなく、ただ穏やかな表情で香りのいいアッサムティーを飲んでいる、憧れの孤高のヴァイオリニストも。
 あまりに香穂子の気持ちを、心地よく癒してくれるから。
 何だか、逆に。
 妙に心が落ち着かなくなる香穂子だった。


 月森と別れて、一人家路を辿る夕暮れ。
 二人で過ごした時間が心地良かった分、一人で歩く茜色の空は、何だか少し寂しく思えて。
(今以上、月森くんと仲良くなれたら)
 もっと、もっと。
 二人で過ごす時間は、居心地が良くなっていくのかな?
(……だったら、これ以上は)
 近付かない方がいいのかな、と。
 自問自答して、香穂子は夕暮れの空に視線を向け、その鮮やかな色に目を細める。


 何故なら、月森という存在が、香穂子にとっての心地いいものになればなるほど。
 反比例して、彼という存在がいない時間は。
 ただ、寂しいだけのものになってしまうのだから。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.11.27】

連作なので、あとがきは最後の作品で!

Page Top