Walking in the rain

My confidence mucic 第37話

 私が、私らしく、私だけの人生を生きて行くために。
 ずっとずっと、未来永劫抱き続けていくべきもの。




 その日は、朝からあいにくの小雨模様だった。
 ブラインドを開けた窓の向こうに見える空は、どんよりと重い灰色の雲に覆われていて。
 しとしとと、音も立てず糸のような細い霧雨が風景を鈍く霞ませていた。
(……私の気持ちを現しているみたい)
 そんなことを思って、香穂子は小さく苦笑する。
 せっかくの旅立ちの日に、霧雨の風景は少し残念なようにも思えるけれど。
 香穂子の寂しさを全く反映させていない雲一つない快晴の天気ならば。
 ……逆に気持ちは酷く落ち込んでいたような気さえする。


 駅前で待ち合わせて、香穂子と月森は空港まで行く。
 香穂子以外に見送る人がいないのは、本来彼を見送るべきだったはずの人達が、自分達に気を使ってくれたせいだろうか。「私だけだと、寂しくはない?」と香穂子が尋ねると、月森は小さく笑って「……君だけでいいんだ」と呟いた。
 元々月森の口数はそう多くはないから、香穂子の方から話しかけなければ会話は続かない。ラッシュ時を避けた電車の中はあまり人の数も多くはなくて、座席の真ん中に座り込んだ二人は強い暖房の息苦しさに包まれて、ただ黙り込んだまま繋いだ手を強く握り締めていた。
 ……それは、電車を乗り継いで、国際線の飛行機が発着する空港に辿り着いてからも同じことで。

 いろいろと搭乗の手続きが必要なのだろうけれど、飛行機に乗る機会があまりない香穂子が拍子抜けするくらい、月森はあっさりと全ての準備を整え、後は飛行機に乗り込むだけ、という状態になる。本当なら荷物を預けたりという手順があるのかもしれないけれど、それなりに必要な荷物は既に留学先へ送ってあると言う月森の荷物は、ヴァイオリンケースと小さなショルダーバッグくらいしかなかったのだ。
「……そっか、旅行じゃないんだもんね」
 海外と言うと、カートでたくさんの荷物を押して運んで行くという、よくテレビで見かける光景が浮かんだ香穂子は、月森の説明を聞いて納得したように頷く。……そう、彼のフライトは何日後かにそっくりそのまま荷物を持ち帰らなければならないような規模のものじゃない。
 ……彼は、帰っては来ないのだ。
 少なくとも「しばらく」と言えるほどの長い時間。

 月森の長期留学の話を聞いてから、何度も自分に言い聞かせて、理解して。自分の心を見つめ、覚悟を決めて来たことのはずなのに。
 今更。……本当に月森が旅立ってしまうことを、実感するなんて。
「……っ!」
 不意に、胸に込み上げて来るものがあった。
 月森を傷つけるだけだから……泣いてもどうなるわけでもなく、ただお互いに辛くなるだけだから。
 絶対に彼の前では泣かないと決めていたのに。
「……香穂子」
「……ごめ……すぐ、治まる、から……」
 香穂子が泣き出したことに、月森はすぐに気付く。
 気遣うように香穂子の名を呼んだ月森から、香穂子は乱暴に掌で自分の頬を拭いながら視線を背けた。
 そんな香穂子の手を、月森の片手がそっと包み込む。
「我慢しなくてもいい」
 香穂子の掌越しに月森の大きな掌が香穂子の頬を包み込む。
 冷たい指先は、それでもきちんと人の温度を宿していて、建物内の暖房に火照っていた香穂子の頬に心地のいい温度を与えてくれる。
「今は、泣いてもいいんだ。……不謹慎かもしれないが、君が俺の旅立ちを哀しんでくれる方が、俺は嬉しいと思う。……だが」
 潤んだ目で月森を見上げる香穂子の視線を真正面から受け止め、少しだけ寂しげに月森は微笑んだ。
「……明日からは、いつもの君でいて欲しい。いつものように明るく、君らしく笑って。……そうして、俺がいない場所でも、変わらず幸せでいて欲しい」
 月森の言葉が周りの人込みの喧噪にかき消されてしまわぬよう、懸命に耳を澄ませて月森の放つ言葉の一つ一つを丁寧に拾い上げて聴いて。
 香穂子はしばらくの後、うん、と頷く。
 ふと安堵したように息を付いた月森が、香穂子の頬に添えていた手で、香穂子の手をぎゅっと握る。
 導かれるように香穂子は涙の残る目を閉じると、優しいキスが唇に降りてくる。次に逢う時まで、またしばらくの間触れ合うことのない唇。
 それが二人とも分かっているから。衆人環視の中、目立つことこの上ないんだろうなと思いながらも、なかなか唇を離すことが出来ない。
 繋いでいた手が離されて、片腕でぎゅっと抱き締められる。月森のコートの胸に頬を埋めて、香穂子はゆっくりとそこで呼吸を繰り返す。
 この暖かさも。
 優しい香りも、全部。
 次に感じることが出来るのは随分と先のことになるはずだ。
 だから、覚えていよう。
 ……記憶は、どうしても薄らいでいくけれど。
 次に逢う時まで、少しでも。その形や色や温度を、間違えずにいられるよう。

 そんなことを考えていて。
 ふと、香穂子の胸にすとんと落ちて来る感情がある。

(……ああ、そうか)
 大丈夫。
 忘れるはずがない。
 どんなに、人の記憶が曖昧なものであろうとも。
 たくさんの記憶の中から、正しいものを導きだして来るきっかけを。
 もう香穂子は、持っているじゃないか。

「月森くんを好きになるきっかけが、……音楽でよかった」
 月森の腕の中で。
 彼にしか聴こえない声で、香穂子は小さく呟いた。
 訝しげに香穂子を見下ろす月森を見上げ、香穂子は微笑む。
「月森くんを好きになったきっかけが、ヴァイオリンだったから。……ヴァイオリンに惹かれる原因が月森くんの音だったから。私はずっと、月森くんのことを間違えないで、……忘れないでいられるの」

 香穂子がこれから、音楽というものに寄り添った人生を生きていく中で。
 この道に踏み込むきっかけになったあの出逢いの音色は、いつだって香穂子が迷うたびに行く先を指し示す指針になるだろう。
 あの日、あの時。
 夕暮れの練習室で、月森が奏でた『アヴェ・マリア』。
 ヴァイオリンを弾き続ける限り、香穂子の心の中にはあの時のあの音色が色鮮やかに蘇り。
 そうしてその音色に附随する月森との想い出は、確実に目の前に導き出されてくる。
 ……例え、月森本人が目の前にいなくても。
 香穂子がヴァイオリンを続ける限り、あの音楽が香穂子の中でずっと生き続けているから。
 月森の存在もまた、いつまでも色褪せずに香穂子の心の中で生き続ける。
「寂しくても。時々辛くても……それでも、あの時の月森くんの音楽が、私の中でずっと信じ続けるものとして生きている。だから」
 囚われたままだよ、と香穂子は笑う。
 ずっとはめたままだった左手の手袋を外して、月森に掲げてみせる。
 ……あの、クリスマスイブの夜。
 彼に抱かれたあの夜に、彼のものになる証明に与えられたあの指輪をはめた、左手の薬指を。
「……香穂子」
「今日は泣く。一杯泣くよ。だって、月森くんが行っちゃうことはやっぱり寂しくて、哀しくて。月森くんがいない明日からのことを思うと不安で仕方ないから。……でも、きっとね。大丈夫なんだ」
 待てるからね。と。
 ずっと月森くんのものだからねと。香穂子は笑う。
 その言葉は、香穂子の中の不安を払拭すると同時に。
 彼女を置いて旅立つことに、やはりどうしようもなく不安を抱えている月森の心をも、救ってくれる。

 愛おしく、いじらしく。
 誰よりも大切な。
 手放すことの出来ない存在。

 ……ヴァイオリンを極めることを辞めてしまえば、自分という人間の価値は何一つなくなってしまうと分かっているから。
 彼女の傍に居続ける道は、過去のどの分岐点に戻れるのだとしても、決して選び出すことはないだろう。
 だから、せめて。
 この道を選ばざるをえない以上は。
「……君に恥じない男になって、きっと君の元へ帰るから」
 それだけが、彼女のために。
 月森が約束してやれる、たった一つのこと。
 ……そして。

「だから……どうかずっと。君は、俺だけのものでいてくれ」

 それは、どうしようもなく我侭で。
 そして、どこまでも純粋な。
 たった一つ、月森が未来永劫抱き続ける願い。




 明け方から降り出した霧雨は、旅立つ飛行機を見送って、家路に付く午後になっても止むことはなかった。
 空港から電車を乗り継いで、朝月森と落ち合った駅まで戻って来て。
 持っていた傘を広げかけて、曇った空を見上げて。
 香穂子は、ふと思い直して広げかけた傘を閉じ、霧雨の中を水たまりを蹴って歩き出した。

(……今日は、泣くよ)
 降り続ける霧雨の中に、頬を伝う涙を隠して、香穂子は家までの十数分の道を歩く。
 冷たい雨に、心はかじかんで。
 寂しい気持ちは折れてしまいそうになるけれど。
 それでも香穂子は知っている。
 ……この雨が、明日には上がってしまうことを。

 泣き濡れる日々は続かない。
 新しい1日が始まれば。明るい陽の光が射せば。
 寂しい気持ちを抱えていても、時々心は折れそうになっても。
 それでも笑える日々があることを、香穂子は知っている。

 そして挫けそうになる時には。
 心に、記憶に焼き付いている。……生き続けている確かな音楽が。
 いつだって、香穂子を支えてくれる。

(そうだよね?)
 記憶の中の音楽に合わせて、香穂子は水たまりを蹴る。
 霧雨が降り落ちる曇った空に向かって、片手を掲げてみる。

 今日は雨降りの、あいにくのお天気で。
 寂しく落ち込んだ気持ちは浮上しなくて、きっと1日泣いてしまうけど。
 明日にはこの雨は上がる。
 掲げた左手の薬指の銀色も、陽光に照らされて輝く光を取り戻す。

 そうして、香穂子が香穂子らしく、香穂子だけの道を歩いていくために。
 未来永劫抱き続けていく、あの日あの時、月森がくれた音楽は。

 今日も明日も。
 月森がいない香穂子の日々を。
 彼自身の代わりに、香穂子の心の中で。

 ずっとずっと、支え続けてくれる。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.3.8】

長かったシリーズも、これにて終了です。書き始めのころはシリーズ化するなんて全く思っていませんでした(笑)
そもそもここまでの長編(?)を書いたことが初めてだったんですが、思っていた以上に好評で、本当によかったなあと安堵しておりました。
この作品で、初めて私の書く月森が香穂子に対して未来の約束をします。私の中で月森という人物は、香穂子を大切に想うがゆえに香穂子を縛り切れない、同時に香穂子も月森を大事に思うがゆえに手を離してしまう……というイメージです。ですが、せっかく連載したのだから、今までと違う答えに落ちつけてみようと言うことで、こうなりました。賛否両論あるかと思いますが、一つの物語の結論として受け止めていただければ幸いです。

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