今まで批判的に香穂子を見ていた音楽科の生徒も、渋々ながらも香穂子の実力を認めざるを得ないというところなのだろうか。幾分、彼女を見る目は和らいで来たと思える。
そして何よりも件の早乙女が「結果を出してしまったものは仕方がない」と、香穂子の指導を引き受けたのだ。
ただし週2回、放課後1時間程度という条件付きで。
本格的に演奏者を目指してヴァイオリンをやっていくのであれば全然足りないレッスン量ではあるが、実質的には自分一人で練習する時間もあるわけだし、香穂子が目指すものは音楽科に属する生徒たちが目指すものとは、別の場所にある。おそらくは、指導者がついたと言うことだけで充分な成果だ。
……そう、これで。
留学前の月森の心残りは、ほとんどなくなってしまったと言える。
後、残されているのは。
たった一つの事柄だけ。
月森の留学は、クリスマス後、年が変わるまでの間の期日に決まっていた。
だったら、クリスマスは一緒に過ごせるね、と香穂子は嬉しそうに笑っていた。おそらくは、数年は一緒にいることが叶わない、現在では本来の意味合いなど無くしてしまって、恋人たちの為と認識されているイベント日。
終業式も重なったその日に、月森は香穂子と共に過ごす約束をする。級友達とはその日が最後になるのだから、送別会とかいいの?と香穂子は心配そうに尋ねたが、元々級友達とはそう打ち解けた間柄でもない。親しく付き合いがあった友人達と終業式後、カフェテリアで留学の事や音楽について少しだけ時間を取って話し、じゃあウィーンでも頑張れよ、と激励を受けて、彼らとは別れた。
元々音楽科の生徒たちは、留学を自分達にも可能性がある選択肢として現実的に捉えているから、こういう状況で感慨深く別れを惜しむ、という事態にはならない。……恵まれた環境を、羨まれることはあっても。
級友達と過ごす時間、香穂子は先に家に帰らせた。
夕方には久し振りに香穂子が月森邸を訪れ、初めて恋人同士として過ごすクリスマスイブを楽しむことにしている。
……そして、月森は。
香穂子にはまだ、大切なことを伝えてはいなかった。
「お邪魔します」
少しだけ緊張した面持ちで、香穂子は数週間振りに月森邸の玄関をくぐった。あれほど毎週のように通い詰めて、それなりに家の雰囲気や間取りにも慣れて来たと思っていたのに、しばらく来なかっただけで、何だかとても新鮮な気分になるのが不思議だった。
「えっとね、これお土産。月森くんはどうかなあって思ったんだけど、そこはやっぱりクリスマスイブだから」
そう言って香穂子が差し出したのは、小さめのクリスマスケーキだった。香穂子お気に入りの洋菓子屋の限定ケーキを、奮発して予約したんだよと誇らしげに笑う。
「ありがとう。先に夕飯を済ませて来て、それから頂こう」
「一応あんまり甘くはないものを選んできたつもりなんだけど、大丈夫かな?」
以前、ここで月森があまり食べないという頂き物の洋菓子を巡って交わしたやりとりを思い出し、少しだけ不安そうに香穂子が尋ねた。月森は苦笑する。
「甘いものは苦手だが、決してどうしても食べられないと言うわけではないし、嫌いなわけでもない。量が嵩まなければ、平気だと思う」
「……そっか」
嬉しそうに笑って、香穂子が小さく頷く。
どうせなら、基本的なクリスマスの過ごし方だとは言えど、自分が楽しみにしていることを月森にも楽しんで欲しかった。
そして、そんな香穂子の気持ちを、月森もそれなりに知っていた。
少し多めの荷物を一旦月森の自室に置かせてもらい、二人は家族が留守の時に食事の世話をしてもらうという、月森の馴染みの店に夕飯を食べに出かけた。
小さい店ではあったが綺麗で落ち着いた雰囲気の店内で、邪魔にならない音量でクリスマスらしい曲が流れている。それなりに客も多かったが、さすがに常連と言うのだろうか、月森用にきちんと個室が用意され、充分な数の料理が小さなテーブルの上に順に置かれていった。
「まさか、蓮くんが彼女を連れて来るようになるとはねえ」
大きくなったねえ、と、家族ぐるみで仲がいいという、レストランを運営する老夫婦は、香穂子を見つめ、感慨深げにしみじみとそんなことを呟く。
香穂子はどう答えていいのか分からず頬を染めて俯き、同じように頬を染める月森が軽く咳払いをする。
「いつも蓮くんはデザートを食べないから用意しなかったけれど、彼女の分は作ってあげた方がよかったかねえ?」
一通りの食事が済んだところでそう問われ、月森は小さく首を横に振った。
「……彼女が、クリスマスケーキを用意してくれたんです。これから戻って、それを食べようと思っているので」
「そう。……そうなの」
うんうん、と納得したように笑って頷き、老婦は一旦キッチンの方へと引き上げていく。顔を見合わせて待つ二人の元へ、小さな缶を二つ持って現れた。
「クリスマスだからシャンメリーとかもいいのかもしれないけれど、蓮くんがあまり好きではないでしょう。だから、ケーキのお供にこれをどうぞ」
そう言って、老婦がテーブルに置いた缶の一つは、店内で販売しているクッキーの詰め合わせ。もう一つは、紅茶の葉だった。
「え、いいんですか?」
驚いたように香穂子が声を上げる。柔和な笑顔を浮かべる老婦は、うんうん、と再度頷いた。
「蓮くんに初めて彼女が出来たお祝と、クリスマスプレゼントを兼ねてねえ」
その言葉に月森は居心地悪げに渋い表情をし、そんな月森の反応に香穂子は思わず笑い出した。
こんなふうにからかわれて、それでも文句の一つも言えない月森というのも、この老夫婦と月森との親しい関係性がなければ、見れなかった一面だろうから。
ありがとうございます、御馳走様でした、と挨拶を済ませ、二人は暗がりの往来へと店から一歩を踏み出す。
「月森くんって、いつもこんなに美味しい夕飯食べてるんだね。贅沢だなあ」
普段は食べ慣れない上品な夕食に舌鼓を打った香穂子は、しみじみと呟く。苦笑する月森が、目線を上げた。12月の寒い夜に、吐いた息は白く煙る。
「元々美味しいのだろうけど、正直、今日ほど美味しいと感じたことはなかった。……誰かと一緒の食事というのは、美味しいものなんだな」
ぱち、と瞬きをする香穂子が、思わず月森の横顔を見上げた。言うべき言葉を見付けられず、香穂子はただ、そっと月森の腕に寄り添う。そんな香穂子の様子を見下ろし、月森は小さく笑って、手の届く場所にあった香穂子の指先をそっと自分の指先に絡め取った。
「本当に君からは……いろんな気持ちをもらっている気がする」
彼女と知り合ってからの気持ちを、何度となく繰り返し、思い出してみる。
全てがプラスの気持ちばかりではなかったはずだ。煩わしかったり、戸惑ったり。
他人にペースを崩されることの嫌いな自分なのに、彼女が関わるといつだって彼女に振り回されてばかりいた。
それなのに、彼女と出逢ってから抱いた気持ちを今自分が立つ現在から振り返ると、不思議と嫌な気持ちだったことは一度もない。
振り回されて、戸惑わされて。
今まで感じたことのない感情を、山ほど味わった。
その全てが心地よく、とても暖かいものだったようにすら思える。
初めての恋が上手く行かない、そんなもどかしさや切なさすらも。
「……香穂子」
「ん?」
呼び掛けると、寒さに鼻の頭を赤くした香穂子が、屈託なく応じる。いや、と月森が首を横に振って、訝しげな香穂子を余所に、手を繋いだまま二人は月森邸へ帰る道を黙ったまま歩く。
……香穂子は、気付いているだろうか。
彼女を呼ぶ声の奥に潜む、月森の新しい感情に。
そうして、明かりのついていない静かな月森邸へと辿り着く。
香穂子は携帯の時間を確認し、ふと不安げな表情で月森を仰ぎ見る。すぐに月森はその視線に気付いたが、ふい、と視線を反らし、月森は自宅のドアの鍵を開けた。それに付き従って家の中に入り、月森の自室への階段を昇りながら、香穂子が恐る恐る尋ねる。
「あの……結構いい時間だよね? お家の人とか、もうそろそろ帰って来るんじゃないの? 私、のんびりしてていいのかな」
もう午後8時を過ぎていた。留守がちな月森の家族とは言えど祖父母も暮らしているのだし、クリスマスイブなのだから、もう自宅に戻っていてもよさそうなものなのに。
「……帰らない」
低い月森の声は、彼が押し開けた自室のドアの軋みに紛れて香穂子まで届かない。え、と問い返すと、月森が真剣な表情で香穂子を振り返った。
「今日は、誰も……この家には帰って来ない」
クリスマスを、一緒に過ごそうと月森は香穂子に言った。
付き合い始めてからの彼は、誰もいない自宅には香穂子を呼ばなかったから ……誠実で嘘の付けない月森は、そういう感情すらも上手くは誤魔化せないから、彼が自分を自宅に呼ぶ時は、そういう心配をしなくていい時だと。
勝手に、香穂子は思い込んでいた。
「……無理強いをしたいわけじゃないんだ……」
明かりの付いていない部屋の中で、月森が呟く。
冬の夜の闇の中、大きな窓から射し込む月明りだけが、ぼんやりと月森の存在を浮かび上がらせる。
その声はどこか不安げに揺れていて、暗がりの中ではっきりとした表情が見えるわけではないのに、辛そうな月森の横顔が目に映る気がした。
「……君の想いを疑うわけではないし、待つと言ってくれた君の言葉を信じている。だが、どうしても……このまま君と離れ離れになることが、俺は」
怖い、と。
月森の小さな声が告げた。
身体を繋ぎ合わせることが、全てを永遠に繋ぎ止めることだとは、月森は思わない。だが、心だけで不安を払拭出来ないことも月森の本心であることに偽りがなかった。
無理強いをするつもりはない。
それだけがお互いの絆を結び付ける最善策だとは思わない。
だけど、どうしても。
……どうしても。
「……君が、欲しい」
それは、月森が初めて香穂子に告げる。
譲れない、どうしようもない我侭だった。
……しばらくの間、寒い暗闇の中に沈黙が満ちた。自分の想いを曝け出してしまった月森は、もうこの後自分がどうしたらいいのかが分からない。
香穂子の顔を見ることも出来ず、自分の足元を見つめていると、香穂子が暗闇の中で小さく笑うのが分かった。
「……香穂子?」
「……ねえ、月森くん」
先程までの会話がなかったかのように、いつもの様子で香穂子が月森を呼んだ。
「ちょっとしたクリスマスパーティをするには、私が持って来た荷物って大きいと思わない?」
「え?」
香穂子の唐突の問いに、訳が分からないながらも月森は真面目に考える。
夕食に出かける前にここを訪れた香穂子が持っていた荷物。奮発して買ったと言っていたクリスマスケーキの小さな箱と、少し大きめのショルダーバッグ。
「……あのショルダーバッグに何を入れてたか、分かる?」
月森が黙り込む。
香穂子がわざと、妙に明るい声で答えを教えてくれる。
「実はね、お泊まり道具一式なの」
「……え?」
呆然と尋ね返す月森の腕の中に、香穂子の小さな身体が飛び込んでくる。慌てて反射的にその身体を抱きとめて、月森は腕の中の香穂子を見下ろした。
「お家の人がいるかどうかは正直、半信半疑だったの。だけど、二人きりで過ごせる時間があるなら……月森くんが言ってくれなかったら、勇気を出して言おうと思ってた。……私を、月森くんのものにしてって」
……身体を繋ぐことだけが心をすらも繋ぎ止めることだなんて、香穂子だって考えないし、信じない。
だが、心だけが繋がっていれば全てが安心だとも、やはり香穂子にも思えなかった。
「今できることは、全部やっておきたかったの。一緒に居れるうちにできること、全部。そりゃ初めてだから怖いけど。……不安だけど」
それを一緒に経験する相手は月森だから。
香穂子はその不安も恐怖も、全てを幸せに変えられる。
「……香穂子」
月森の両腕が、強く香穂子の身体を抱き締める。
香穂子は、ちゃんと気付いていた。
コンクールが終わってからこの日まで、月森が自分の名を呼ぶたびにその声の奥底に潜ませていた彼の真直ぐな感情。
香穂子を欲しがる、その想いを。
……それは、きっと。
香穂子にもずっと同じ想いが存在していたから。
「……君が、もし俺の想いを受け入れてくれるのなら、渡そうと思っていた」
少しだけ香穂子の身体を離し、そう月森が言う。
コートのポケットに入れていた小さな包みを香穂子の目の前に差し出した。
「……クリスマスプレゼントなら、前倒しでコンクールの時にもらったよ?」
「プレゼントの理由が気になるなら、コンクールの入賞祝いということでいい」
律儀にそんなことを言う香穂子に苦笑しながら、月森は香穂子にその小さな箱を押し付ける。思わず受け取ってしまった香穂子が、上目遣いに月森を伺いながら、おずおずとその包装を剥がした。
「……これ」
紙箱から取り出した瞬間に、ビロードの箱に丁寧に守られている「それ」が何なのかが香穂子には分かった。震える指先で、ぱくんと固い箱を開くと、香穂子の想像通り、銀色のリングがそこには収まっている。
「これって……」
「……俺が留学から帰って来たら、本物を贈る。今はまだ、仮でしかないが」
言いながら、月森は香穂子が開けた箱の中から、指先で細いリングをそっと抜き取り、香穂子の左手を取る。薬指に押し込まれた銀のリングは、初めからそこに嵌まるのが決められていたかのようにぴったりだった。
「サイズ……いつ調べたの?」
「調べたと言うか……これを買いに行ったら店員に『何号ですか?』と問われて、答えられなかったので、『これくらいだ』と」
人指し指と親指で、月森は香穂子の指のサイズを表現する。
……そう言えば、ヴァイオリンの練習をしている時に、よく「指の位置が違う」と注意されて、ポジションを調整されていたっけ。
「……ちょっと、びっくり。嬉しいな……」
リングの輝く左手を抱き締めて、香穂子が泣き笑う。
そんな彼女に微笑みながら、月森は少しだけ身を屈め、真直ぐに香穂子を見つめる。
「……君を、愛している」
飾り気のない、直線の。
陰りのない愛の言葉。
「……月森くん」
呆然と月森の名を呼ぶ香穂子の目に、また新しい嬉し涙が浮かぶ。
「君がこの言葉を信じなくても、俺は構わない。だがきっと、一生俺には君だけだ。……いつか、本当に将来を約束できる日まで……ずっと、俺のものでいてくれるだろうか?」
つい最近、同じ言葉を告げてもらった気がする。
だけどあの時よりもずっと。……ずっと。
深い意味を、多くの感情を込めた言葉なのだと、香穂子は思った。
「……はい」
だから、応えるたった一言の言葉にもたくさんの気持ちを込めて。
真直ぐに月森の目を見返して、香穂子は告げる。「ありがとう」と。月森が嬉しそうに笑った。
その曇りのない彼の笑顔が本当に嬉しくて。
……泣きたいほどに嬉しくて。そして、愛おしくて。
香穂子は、もう一度ぎゅっと月森の身体を精一杯に両腕の中に抱き締める。
一瞬、戸惑うように硬直する身体。
そして、同じ強さで抱き返してくれる優しい両腕。
「……香穂子」
「名前、呼んで。……いっぱい、呼んで」
その生まれてからずっとたくさんの人に呼ばれ続けて来た、三つの文字で形作られる自分の名前を呼ぶ月森の声の中に。
自分を求めてくれる感情が宿るのを、もう香穂子は知っているから。
「……呼んで」
香穂子が乞うたびに、何度も何度も。
月森の甘い声が、香穂子の名を呼ぶ。
……きっと、その時間は生まれてからこれまで生きて来た人生のうちで。
一番、自分の名前を愛おしく思えた一時だった。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:10.3.2】
連作なので、あとがきは最後の作品で!


