無音

月森←日野
続編あり。頁下でリンク

「そっか、用事が……。だったら仕方がないよね」

 昼休み、わざわざ普通科の教室まで香穂子を訪ねて来てくれた月森が告げたのは、香穂子にとって嬉しい話題などではなかった。
 多忙な生活の合間を縫って香穂子のヴァイオリンの指南役を買ってくれている月森に、現在でも相当の負担を強いていることは分かっていたが、仕方がないことだとしても、やはり約束していた練習を断られることは寂しかった。
 放課後の練習の約束を果たせないことを月森に知らされ、落胆して俯く香穂子に、月森は申し訳なさそうに表情を陰らせた。
「本当にすまない。この埋め合わせは、必ずどこかでするから……」
「う、ううん!」
 慌てて香穂子は顔を上げた。
 本当は、留学を控えた月森が、素人同然の香穂子の面倒まで見ている状況ではないことは、十二分に理解している。それでも、一度引き受けたことなのだからと、出来る限り時間を捻出して練習を見てくれている月森に、これ以上の我侭を言ってはいけない。
「月森くんは、私に遠慮しないで、自分のことを優先してくれて、いいんだからね。元々私が無理を言って練習に付き合わせてるんだから」
 香穂子がそう言うと、月森は少しだけ、困ったように微笑む。
 ……知り合った頃は、表情が動くことなんてあるのかな?と訝しんでいたのに、ここ最近、本当に微かではあるけれど、見せてくれるようになったいろんな表情。
 心の中に焼き付けておきたいと思うのは、そんな彼の表情が、珍しいものだから?
 それとも、近い将来、本当に目にすることが出来なくなってしまうものだから?
 そんなことに考えが到って、何故だか、つきんと胸が痛んだ。
「……俺が、無理をして君の練習に付き合っているだなんて、思わないでくれ」
 静かに、寂しそうに月森が告げたのは、意外な言葉。
 香穂子は微かに目を見開いた。
「また、時間が空いたら声をかける。君に都合が悪い日があるのなら、先に教えておいてもらえるとありがたいが」
 先程の言葉がなかったかのように、月森が尋ねる。あ、うん、と曖昧に答えながら、香穂子はこれから先、数日間分の自分の予定を思い返した。
「……帰宅部だし、特に予定もないから、私はいつでも大丈夫」
「では、今日の埋め合わせは明日にしてもらっていいだろうか。……今日の分は、俺の名前で練習室の予約は取ってあるから、君さえ良ければその部屋で練習してくれて構わない」
「あ、うん。ありがとう。なかなか予約ノート書きに行けないから、使わせてもらえると助かる!」
 顔を輝かせて香穂子が月森を見上げると、もう一度、月森が微かに笑う。
 優しくて、穏やかで。
 少しだけ、寂しそうな微笑み。
「……じゃあ、また明日」
「うん……また、明日」
 彼が生活をすべき空間へ戻っていく、均整の取れた、真直ぐに背筋の伸びた綺麗な背中。
 振り返らないその背中を、香穂子は一言では言い表せない、複雑な思いで見送った。



「さてと、練習、練習」
 放課後、月森の名前で予約が入れてあった練習室に足を踏み入れ、部屋の片隅に自分の荷物を置きながら、香穂子は呟く。ふう、と溜息を吐いて、身を起こし背後を振り返って。小さな違和感を覚える。
(……あれ?)
 この練習室は。
 ……こんなにも、静かだったろうか。

 もちろん、辺りの迷惑を気にかけず、しっかりと集中して練習ができるようにと、防音を施された室内、扉を閉ざしてしまえば、必要以外の雑音が入り込まないのは当たり前の事。
 だけど、この静けさは。
 この、音の無い世界は。
 ……そういうことじゃなくて。

 音楽科の教室は、香穂子が生活する普通科の教室よりも練習室に近くて、いつも月森に練習を見てもらう約束をした時には、彼の方が先に、待ち合わせの練習室に辿り着いている。
 時間を無為に過ごす人でもないから、香穂子が辿り着く頃には、彼の練習の為の準備は既に整っていて、扉をノックして、押し開く時には、豊かなヴァイオリンの音色が香穂子を迎えてくれる。
 あの、香穂子が憧れて。
 惹かれてやまない、『凄い』としか言えないくらいに、圧倒される、綺麗な綺麗な、繊細な音色。
 きっと、月森という人物そのままの。
 賢くて、真直ぐで。揺らぐことのない。
 それでも、ほんの少しだけ。
 不器用な、暖かな音色。

 もう少し時間が経てば。
 この目の前の無音の風景が当たり前になるのだ。
 扉を開いても。
 そこで、香穂子を待っていてくれる溢れる音色は存在しない。
「遅かったな」と。
 振り返って、苦笑しながら香穂子を迎えてくれる人も。
 香穂子は、遠くない未来に、全て失ってしまうのだ。

「……っ!」
 寂寥感は急激に胸に迫る。
 今まで、無意識のうちに目を反らして、避け続けていた分、実感してしまうとその痛みは壮絶だった。
 そうだ、香穂子は目を反らしていた。
 真直ぐに見つめても、何一つ自分に有益になることはないのだと、知っていたから。

 月森自身に、留学の事を教えて貰えなかった時。
 そして、月森が留学して、目の前からいなくなるということを知らされた時。
 月森が、悪意を持ってその事実を隠したわけではないことは分かり切っていたのに、激高して、月森を責めずにいられなかった。……それくらいに哀しかった、理由が分かった。

 胸が痛い。
 寂しくて、苦しい。
 その圧迫感に、押しつぶされて、心が壊れそうになる。
 震える拳で、額を押さえた。
 大粒の涙が、拭き清められた床の上に、雨の痕を残す。

「……好き……っ」
 どうして、気付かなかったんだろう。
 惹かれたのは、ヴァイオリンの音色だけではなく。
 不器用に、それでも真摯に。
 真直ぐにヴァイオリンと生きていく、彼の姿そのものだったことに。
「……月森くんが、……好き、だよぉ……!」
 その場に崩れ落ちるみたいにしゃがみ込んで、子どもみたいに、わあんと声を上げて泣きじゃくりながら。
 香穂子はただ、今この場に受け取るべき者のいない、嘘偽りのない己の想いを口にする。

 幼い頃、恋をすることに憧れた。
 きっと甘くて、優しくて。楽しいことばかりに満ち溢れた、幸せな感情なんだろうと思っていた。
 だけど、これが恋だ。
 こんなに痛くて、苦いものこそが恋なのだ。
 ……それなのに、逃げられない。
 無為に手放そうとも思えない。
 そういうふうに、辛くても苦しくても、否応なくたった一人の人に囚われること。
 きっと、それが恋なんだ。

 月森が好きだと繰り返す、香穂子の泣く声を。
 他には誰もいない、無音の室内が静かに受け止める。

 本来なら、この場所で満ちているはずの、香穂子を捕らえて離さないあの音色を、また脳裏に思い浮かべながら。
 それを近い未来に失ってしまう、その喪失の痛みに。
 香穂子の心はまた、繰り返し。
 悲痛な悲鳴をあげるのだ。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.11.3】

切なさに飢えていたの……か?(聞かれても)
「053.ごめんね」の流れを引き継いでいますが、単作として成立するものなので、あえて続編とはしていません。これ以上広げようもないんで(笑)
香穂子がこれを月森本人の目の前でやってくれたら、月森がどういう反応するか見てみたい。
自分の希望もあり、要望もいくつか頂きましたので、それに応える形で続きます。

続き→「046.先のない想い」へ

Page Top