疑問に思うその裏で、それは自分が自分の心を守るために、必死に張っていた境界線なのだと、香穂子は知っていた。
想いを自覚してしまえば、叶わなくても……万が一、叶うにしても。
この恋が辿り着く先は、哀しい結末でしかないから。
教室を離れて、音楽科の白い制服が混ざり込む空間に着くと、無意識にその制服に身を包む青年を探している自分に気がついた。知らぬ間に、習慣づいているようだった。何も考えずに辺りに視線を巡らせ、似た姿を見つけて、鼓動が跳ねて。違うと気付いて、がっかりして。……ずっと、自分が『そう』していたことを、改めて実感した。
彼と話すのは、専らヴァイオリンのことだけで。
音楽の専門的な知識がほとんどない香穂子は、ヴァイオリンを弾いていくために覚えなければならないことばかり。『知らないけれど興味があること』の知識を増やしていくことは面白くて、楽しくて。淡々とした彼との会話に、それでも浮き足立つ心は、きっとそのせいなのだと思っていた。大好きなヴァイオリンの話だから。……それも、香穂子が自分の心を傷付けないために自分自身に対して付き続けていた嘘だった。
(月森くんと話すことが楽しかったんだ)
彼は、あまり余計なことは話さなくて。
ヴァイオリンと、音楽の事しか話題がなくて。
たまに、香穂子が違うことを話し出すと、月森は少しだけ困ったような表情で、特に何かを返すこともなく、ただ時折頷いて聞いていた。
ヴァイオリンの練習をしているのに、違う話題を出したことが不快なのかと、関係ないことを話してごめんね、と香穂子が謝ると、困った表情のまま、月森はただ首を横に振って。
慣れてないんだ、と。
少しだけ、心許なげな声で、呟くのだ。
ヴァイオリンと音楽の事以外では、本当に月森は不器用で。
決して、それは香穂子にとって不快な印象ではなかった。ヴァイオリンに誠実過ぎる故に、他のものを抱えられない、無知と不器用さ。
月森が好きだと実感してしまうと、その不器用さすら、香穂子にとっての好ましいものだったのだと気付く。
……いつの間にか、月森の持つもの全てが、たまらなく好きだったのだと気付く。
だから、もうどうしていいのか分からない。
(どんなふうに、月森くんに向き合えばいいのか分からない)
今日は、彼に練習を見てもらわなければならないのに。
顔を見るだけで、留めていた想いが溢れてしまって。
どうしようもなく、泣けてしまいそうだ。
「……昨日は練習をしなかったのか?」
香穂子の紡ぎ出す音と、楽譜の音譜の並びとを見比べながら、ふと何かに気付いたように指先で顎に触れて、月森がぽつりと呟く。
昨日、練習室に来るだけは来たのだが、月森がいない練習室の寂しさに、突然自分の彼への想いを自覚して、いつかはいなくなってしまう月森への感情の痛みに泣くだけしか出来なかった香穂子は、ぎくりと肩を震わせた。
「えっと……な、何で……?」
怒られるのかと身を縮め、恐る恐る尋ねた香穂子をちらりと見やり、彼女の怯えたような様子に、月森は軽く苦笑した。
「一昨日注意した点が直っていないからな。……君は真面目だし、案外負けず嫌いだから、俺に駄目だと言われたら、次の練習までに意地でも注意点を修正してくるだろう?」
どうせ、月森くんだったら楽々弾けるんだろうけど、こっちはかなり必死なんだからね!と愚痴を漏らしつつも、数日経てば月森からの指摘をきちんと修正して、進歩する香穂子の音を、月森は評価している。もちろん、まだまだ覚えること、磨くことは数多いが、そうして一歩ずつでも前に進んでくれるから、月森は彼女の指導を続けることができるのだ。向上が見られないのであれば、どうしても結果を求めがちな自分は、いつかその無為な時間に嫌気が差してしまうのだろうから。
「……ごめんなさい」
俯く香穂子が、小さな声で詫びる。一つ瞬きをした月森は、慌てて顔を上げた。
「ああ、いや。……元はと言えば、練習する約束を反古にした俺が悪いのだし、君を責めるつもりで言ったわけじゃない。……言葉が悪くて、すまない」
そこまで言って、ふと月森は気が付く。
そういえば、今日は初めから香穂子の態度がおかしかった。
どこかよそよそしく、月森と目を合わせようとしないし、普段は饒舌な彼女が、練習室に入ってから一言も口を開いていない。……これまで、何度か練習に関係のない話をする彼女をたしなめたことはあるのだが、意外にも、彼女との何気ない会話は不快ではなかったのだと気が付いた。
(だから、寂しかったのか?)
一言も喋ろうとしない彼女。
練習に集中して感心だと思うべきなのだろうが、そうして会話の一つもないと、何かが物足りなくて。
普段、二人で過ごす練習時間が、優しくて心地いいものだったのは、全て彼女が屈託なく自分に話題を持ちかけてくれていたからなのだと、改めて気が付いた。
「日野……その」
彼女は、笑って『月森くんは、月森くんのことを優先してくれていい』と言ってくれたけれど。
本当は彼女との練習を差し置いて、自分の事を優先する月森を、彼女は怒っているのではないだろうか。
……そういうことを気にすること自体、自分に何かしら変化が与えられていることも気付かずに、月森は香穂子に尋ねる。
「俺は、君に何か嫌なことをしてしまったんだろうか? もしそうなら、はっきり言ってくれないか。……きちんと、謝りたいから」
もし、知らぬ間に彼女を傷付けたり、不快な思いをさせていたというのなら。
それなら、……ちゃんと謝るから。
どうか、彼女にはいつもの彼女でいて欲しい。
明るく、元気に。笑っていて欲しい。
彼女が『そう』でなければ。
何故か、月森の心の中も、曇ってしまうから。
「違……っ」
慌てて顔を上げた香穂子が、ふるふると何度も首を横に振る。
困ったように自分を見つめている月森に、どう言っていいのか分からない。
(優しくしないで)
こんな自分に、気を使わないで。
気付かない時には平気でいられたのに。
何事もないフリが出来たのに。
好きだと分かってしまった途端。
その彼の不器用な優しさは、香穂子の心を揺らすから。
(……泣いてしまうから)
今、彼に抱く想い全てが、我侭にしかならないと知っているのに。
それを隠すことすら、上手く出来なくなってしまうから。
「日野……?」
月森の顔色が変わる。
はっと気が付いて、香穂子は片手で自分の頬に触れる。その指先に熱い涙。
「違う……これは、違う、から……」
乱暴に、掌で頬を拭いながら、香穂子は月森から顔を反らす。それがせめてもの、香穂子の抵抗。
「日野、どうして……」
逃げ場のない練習室で、月森があっさりと大きなストライドで香穂子との距離をつめる。後ずさりで逃げて、それでもすぐに壁際に追いつめられて、香穂子はただ壁に背中を預け、俯いて足元を見つめた。
「……失礼」
一言断りを入れた月森が、香穂子の片手から持っていたヴァイオリンと弓とを奪い取る。傍の安定したピアノの上にそれをそっと置いて、改めて香穂子に向き直った。
「……泣く理由を話してくれないか。俺の何かが不満なら、はっきり言ってくれて構わない。その……出来るかどうかは分からないが、俺に何か問題があるのなら改善出来るよう善処する」
「違うの!」
涙目の香穂子が叫んで、顔を上げる。驚いたような表情で、月森が香穂子を見つめる。
違う、月森は悪くない。
何かを悪いとするのなら、それは、全て香穂子に原因がある。
……自覚した途端、考えられないくらいに膨れ上がっていた彼への想いを持て余す。
香穂子の不器用さが罪だ。
もう、先のない想いだと知っていた。
幾ら好きでも、月森に自分が見合うわけがなく。
万が一、受け入れてもらえたとしても、月森が留学すれば、それでこの恋は終わってしまう。
気付かなければ良かった。
そうすれば、まだ救いがあった。
そう、思うのに。
心の中で、もう一人の自分が問いかける。
(……本当に?)
自覚しなければ、本当に?
(この想いは、月森くんがいなくなるのと同時に、いつか消えて、綺麗さっぱりなくなっていた?)
「好きなの……!」
もう、知っていた。
気付かぬうちに、この心に月森の想いが育ち始めていたのなら。
今、香穂子が気付かなくても。
いつかは、自分の心を騙し通せなくなる日が来ていたのだろう。
……月森に、その想いを晒さねばならぬ日が来ていたのだろう。
蓋をして、見ない振りをして。
このまま、彼が旅立っていく時まで、ただの教えを乞うもの、乞われるものとして、心地いい関係を続けていく方が、波風も立たないと知っている。
だけど、それで傷付かないように大事に大事に守られた『想い』は、どうなるんだろう。
月森がいなくなれば、簡単に諦められて、綺麗になくなってしまって。
何事もなかったかのように、彼がいない日常を暮らしていけるのだろうか。
……きっと、そんなことはない。
どこにも行けない、先のない想いはただ香穂子の心を蝕んで。
もっともっと、痕の残る、醜い傷になるだろう。
(……だから、今、この想いを殺して)
残酷でも。
他の誰でもなく。
(月森くんの手で、息の根を止めて)
「月森くんが、好きなの……っ!」
必死の声で、香穂子が叫ぶ。
もう、月森の顔を見る事が出来ない。ぎゅっと目を瞑ると、大粒の涙が自分の頬を伝うのが分かった。
壁にずるずると背中を滑らせて、香穂子は制服が汚れることも気にせず、その場に座り込み、両手で顔を覆った。
香穂子はただ、泣きながら、好きなの、と繰り返す。
香穂子の小さな呟きと、嗚咽だけに満たされる静かな室内で。
月森が息を呑んで。
戸惑う気配が伝わった。
「君は今、それどころじゃないだろう」と。
「俺はそんなことに関わっている暇はない」と。
そんな冷たい言葉で、もう構わないから。
どうせ、先のない想いなら、もうここで全部壊して、殺して。
そうすれば、今はどれだけ辛くても。
いつか振り返る時に、少しだけ胸を痛めながらも懐かしく思い出せる、優しい傷痕になるから。
旅立つ時に、貴方を困らせずに。
笑って、『行ってらっしゃい』と。
何もなかったように、見送ってみせるから。
だけど、香穂子が待ち望む。
想いの根を断切る、彼の冷たい言葉は降り注いで来ない。
(……え?)
不意に陰る視界に、香穂子は小さく息を呑んだ。
ふわりと、温もりが香穂子の身体を包む。訳が分からずに顔を上げると、そこには、あまり馴染みのない、音楽科の白い制服。
「月森くん……?」
涙声の香穂子が、小さく呼び掛ける。
「……日野」
それに応えるように、月森の低く香穂子を呼ぶ声が、小さな振動になって、香穂子の肩から伝わってくる。
「……日野……!」
香穂子を抱き締めた月森の腕に、力がこもる。
今ここで。
月森の手によって、断切られるはずだった、香穂子の先のない彼への想いは。
思いがけず、彼の優しい両腕に抱きとめられ。
そっと、息づくのだった。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.11.22】
ここで終わると絶対読まれた皆さん消化不良になると思いますので(笑)もう一本、続けさせていただきます。
楽しいなあ、あはははは!(どうやねん)
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